玉緒さんに見た女優としての矜持
【佐藤雅昭の芸能楽書き帳】俳優の中村玉緒さんが肺炎のため6月9日に波瀾(はらん)に満ちた86年の生涯を閉じた。今ごろは1997年6月に65歳で先に旅立った夫の勝新太郎さんと再会しているに違いない。苦労をかけっぱなしだった勝さんはどんな顔で玉緒さんを迎えているだろうか。
あれは勝さんが亡くなる前年、96年のこと。下着の中からコカインなどが出てきたハワイ事件の余波で禁じられていた海外渡航が解禁になり、勝さんは親交があったフランスの世界的画家バルテュスのスイスの山荘に飛んだ。
取材のため成田空港に足を運んだ取材陣のために勝さんはVIPルームを押さえていた。部屋にはケースに収まったビール瓶が用意されていて、「わざわざ来てくれてありがとう」と、記者やカメラマンにビールをふるまった。筆者もご相伴にあずかった1人だが、そんな経験は後にも先にも初めてだった。
北海道のゆうばり国際ファンタスティック映画祭にゲスト参加した際、ちらつく雪を見て「これがコカインだったらなあ」とジョークに包んで“見出しどころ”を提供するマスコミ思いの勝さんだったが、“成田ビール”のエピソードを体験して、「これは玉虬さんも大変だあ。お金がいくらあっても足りない」としみじみ思ったことを覚えている。
勝さんが立ち上げた事務所「勝プロダクション」の倒産で、最終的には14億円に膨れ上がったとされる借金。玉緒さんはナイトクラブの歌手や着物のデザインなど女優業以外にも手を広げ、返済に一役。テレビのバラエティー番組にも進出したが、これが大当たり。天然のキャラクターが功を奏して受けに受けた。晩年、テレビタレントという印象が強くなったのも致し方ないかもしれない。
必然、女優の仕事は減ったが、それまでの功績が評価されて第62回毎日映画コンクール(07年)で田中絹代賞を贈られた時のうれしそうな顔が忘れられない。デビュー作こそ松竹だったが、その後専属となった当時の大映には京マチ子さん、山本富士子、若尾文子、叶順子らスターがキラ星のごとく並んでいた。そんな中、玉緒さんは市川雷蔵さんや後に結婚する勝さんの相手役として存在感を示していった。60年公開の「ぼんち」と「大菩薩峠」で第11回ブルーリボン賞助演女優賞、63年の「越前竹人形」では毎日映コンの女優助演賞を受賞するなど、サポートアクトレスとして気を吐いた。
田中絹代賞が内定した時にインタビューしたが、「“もらいましたよ”と主人に報告しました」とが第一声。「吉村(公三郎)先生、そして溝口(健二)先生、市川(崑)先生と、名監督と呼ばれる方々との出会いが財産です」としみじみ。テレビの仕事が主軸になっていたとはいえ、そこは映画育ち。主演作は少なかったが、女優としての矜持が垣間見えた。
父の二代目中村鴈治郎と兄の四代目坂田藤十郎が人間国宝という上方歌舞伎の名門一家に生まれた環境もあってか、世俗に染まらない大らかさを持ち合わせていた気がする。だから、夫や家族の度重なる不祥事も乗り越えることができたのかもしれない。
惚(ほ)れて惚れて惚れ抜いた勝さんへの一途な愛。どんなに迷惑をこうむろうが「生まれ変わっても勝新太郎と結婚したい」と言い切った玉緒さん。山あり谷ありだったが、幸せな一生だったと思いたい。
