(※写真はイメージです/PIXTA)

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内閣府が公表した『令和7年版 高齢社会白書』によれば、65歳から69歳の就業率は54.9%に達し、この世代の2人に1人が働く時代となりました。特に男性に限れば、同年代の62.8%が職についており、高齢者の就業者数は21年連続で過去最多を更新し続けています。もはや日本の労働現場は、彼らの存在なしには成り立ちません。現役時代に年収1,200万円を稼いでいたサカイさん(仮名/66歳)も、この統計データのなかに刻まれた一人。彼が、地方の物流倉庫で時給1,023円という最低賃金で働くことを選んだ理由とは?

吐き捨てられた屈辱の価値

「おっさん、マジで使えねーな」

物流倉庫のピッキングエリア。コンベアの脇で動きを止めてしまったサカイさんの背中に、ぼそっと、けれど確実に突き刺さるような声が投げられました。声の主は、現場のリーダーを務める20代半ばの青年です。サカイさんの三女よりも年下の若者が、目も合わせずに吐き捨てた一言でした。

サカイさんは反射的に「すみません」と頭を下げ、横に退きました。かつて都内の大手専門商社で部長を務め、年収1,200万円を誇っていたプライドは、ここでは1,023円の時給のなかに溶けて消えるしかありません。

3人の娘たちの教育費に消えた老後資金

サカイさんの家計が自転車操業に陥った背景には、3人の娘たちへの深い愛情がありました。「子どもの可能性を潰したくない」という一心で、三姉妹全員を私立の中高一貫校へ通わせ、習い事や塾、留学費用も惜しみなく出してきました。結果、年収1,200万円という高所得者でありながら、貯蓄は思うように増えませんでした。

「教育費がかなりかかったんです。でも、定年後も会社に残り、いいポストで働き続ければ、老後資金はあとからでも回収できるという自信がありました」

その計画は、定年直前の59歳のときに崩れ去ります。再雇用後の役員ポストを賭けた最後の大規模プロジェクトで、不測の事態による巨額損失が発生。サカイさんはその責任を取る形で、再雇用の道を自ら断ち、早期退職を余儀なくされました。

「時給1,023円」の現場でみつけた、残酷なまでの現実

このままでは老後資金が足りないと、都心のマンションを売却し、妻を連れて田舎へ戻ったサカイさん。そこでの再就職活動は、想像以上に厳しいものでした。60歳を超えた男性を受け入れる求人は、最低賃金に近い現場仕事以外にありませんでした。

現在、サカイさんが手にする給料は時給1,023円。かつて東京で部下とランチを囲んでいた1時間分の金額が、いまは1時間の肉体労働の対価です。

「かつては指示を出す側でしたが、いまは自分の体が思うように動かないもどかしさがある。若者に『使えねー』といわれるのは、単なる悪口ではなく、現場のスピードについていけていないので、事実なんです」

妻は慣れない土地での暮らしに戸惑いながらも、文句一ついわず支えてくれています。そんな妻に、家で一日中所在なげに過ごす姿はみせられません。

「たとえ罵倒されても、朝、作業着に着替えて家を出る。それだけが、私を辛うじて社会の一員として、そして『夫』として繋ぎ止めてくれる。ここは、私の自尊心を削る場所であると同時に、いま、私が必要とされている唯一の場所でもあるんです」

「教育費優先」が招く、老後計画の欠陥と今後へのマインドチェンジ

2019年(令和元年)6月に公表された、金融庁 金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書『高齢社会における資産形成・管理』では、長寿化に伴い「公的年金以外に約2,000万円の蓄えが必要」という試算が注目されました。同報告書では、子育て世代が教育費に過剰な比重を置くあまり、定年前後の資産形成が後手に回るリスクについても警鐘を鳴らしています。

サカイさんのように「3人の娘に私立教育を」という選択は、親としての尊い愛情ですが、「定年後も稼げる」という予測は、本人の健康や会社の状況、あるいは今回のようなキャリアの暗転によって、容易に崩れてしまいます。「定年後も高い役職で稼ぎ続けること」を前提とした、非常にスリリングな資金計画でもあったのです。

内閣府『令和7年版 高齢社会白書』の調査によると、高齢者男性が働く理由として「収入を得たいから」が57.1%で最多となっています。しかし、注目すべきは次いで多い「働くのは体によいから、老化を防ぐから(18.8%)」という回答です。

サカイさんにとって、現在の仕事は、単なる生活費稼ぎの場ではありません。同白書が示すとおり、社会との接点を維持することが、精神的な健康を守ることに繋がっているのでしょう。たとえ若者に吐き捨てられても、現場で汗を流すことは、彼にとって「稼ぎ手」としての自尊心を繋ぎ止めています。

いまのまま「かつての部長」としていまの現場に居続けることは、精神的な磨耗を招くだけです。サカイさんがこの「残酷な居場所」を「再生の地」に変えるには、新しい視点が必要です。

サカイさんは3人の娘たちに最高の教育を与え、社会に送り出しました。これは年収1,200万円時代の彼が成し遂げた「成功」にほかなりません。若者に吐き捨てられたとしても、それはあくまで「荷運びのスキル」への評価であり、サカイさんの「人生の価値」への評価ではないと、明確に切り離す必要があります。

また、「かつてはあんなにできたのに」という過去との比較が、いまのサカイさんを最も苦しめています。しかし、66歳の身体が20代のスピードに敵わないのは当然の事実です。「使えねーな」といわれたとき、心の中で「そのとおりだ、自分はここでは新米なんだ」と認めてしまうことで、かえってプライドによる摩擦を減らし、長く働き続けることに繋がるでしょう。

1,200万円稼いでいたころのサカイさんにとって、1,000円は端数に過ぎなかったかもしれません。しかし、いまの彼が手にする1,023円は、「自分の意志で、家族の生活を1時間守った」という重い結果です。かつての年収と比較するのではなく、そのお金で買うパン一つ、本一冊に、どれほどの自分の忍耐と家族への想いが詰まっているか。その「一円の価値」を噛み締めることこそが、いまのサカイさんを支える本当の誇りになるはずです。