名文家でも生活に困窮した石川啄木、樋口一葉…「職業作家の先駆け」になった男の名前
出版不況やSNSの発達などにより、「ライターが食えなくなる」、すなわち文筆業のみによって生計を立てることが難しくなった、または今後困難になるという議論があります。この問題を考えるうえでは、歴史を振り返り、そもそも「職業作家」はどうやって生まれたのかを考える必要があるでしょう。前編『「ライターが食えなくなる」議論に抜け落ちている視点…出版市場が生まれた「歴史的経緯」』につづけて、江戸時代〜明治時代の出版文化に注目していきます。
職業作家の先駆け、井原西鶴
書物の商品化が本格化する17世紀後半〜18世紀初頭までの元禄文化は、大衆向けの小説の原型ともいえる「仮名草子」が流行しました。ですが、現代のような「専業作家」は非常に稀であり、多くの書き手は公家や僧侶、俳人、儒者、医師などが本業でした。
原稿料を主な収入とする職業作家の先駆けといわれているのは、井原西鶴(1642―1693)です。西鶴のデビュー作である『好色一代男』(1682年刊行)は、江戸時代初期の元禄文化を代表する大ベストセラーとなり、爆発的な売上げを記録しました。
原稿を書いて生活するという現代の専業作家スタイルを作った人物としては、十返舎一九(じっぺんしゃ いっく、1765―1831)が有名です。当時、文筆だけで生計を立てることは非常に困難でしたが、代表作『東海道中膝栗毛』(1802年〜1809年刊行)の大ヒットにより、最初の職業作家となりました。
その背景には、NHKの大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750―1797)が営んでいた貸本屋という書物や雑誌のレンタルサービスを通じた一般大衆読者の拡大がありました。
江戸中期(18世紀頃)に大流行した貸本屋は、店舗型もありましたが、娯楽性の高い書籍(読本、草双紙、滑稽本、人情本など)を背負って得意先を巡回する「行商」が一般的で、顧客の好みに合わせて本を届けるレコメンド機能も果たしていました。
スター作家・夏目漱石
行商は、主に風呂敷や背負子(しょいこ)で本を運んで近隣や得意先を定期的に巡回し、「見料(レンタル料)」を取って、1日から数週間単位で本を貸し出すことで利益を得ていたのです。サブスク的な商売といえます。
貸本屋のニーズがあったのは、単純に書籍が高価で、庶民に購入できないものだったからです。しかし、必要な時に必要なだけ支払って読む効率的なサービスの普及により、江戸や上方(京都・大坂)の識字率向上と出版文化の定着に大きく貢献したといわれています。
このように、江戸時代は、読者層が広がっていった時期でしたが、西鶴のような書き手は相当限定的な存在でした。出版システムがまだ成熟しておらず、現代のような印税制度もありませんでした。作家は版元(出版社)から原稿料(潤筆料)を一時金として受け取るのが基本だったことなどが理由とされています。
そう聞くと、明治時代に入って一気に出版文化が花開き、大勢の職業作家が生まれたと思われるかもしれません。ところが、意外にもそうではありませんでした。明治後期になっても、一部のスター作家だけがその恩恵に与れるだけで、その他の書き手は原稿料だけではとても食えない状態だったのです。
スター作家の代表格は夏目漱石(1867-1916)ですが、それと対照的な境遇として引き合いに出されることが多いのが石川啄木(1886-1912)です。歌人として才能を認められながらも、経済的な事情で中学校を中退し、その後も職を転々としながら困窮生活を送ったことで知られています。
石川啄木、樋口一葉の苦境
啄木は東京朝日新聞社の校正係として最低限の収入を得ていましたが、思うように原稿が売れず、仕事は夜勤で体力的に過酷であり、生活が改善されない状況を詠みました。以下は、当時の漱石と啄木の収入差を示す引用です。
「石川啄木は東京朝日新聞社編集長佐藤北江の配慮で校正係。初任給25円、夜勤手当5円、計30円。当時朝日の主筆が170円+交際費100円、経済部長140円、編集長130円、夏目金之助(漱石)200円、長谷川辰之介(二葉亭四迷)160円、大卒初任給は30円」(浅井清・市古夏生監修/作家の原稿料刊行会編著『作家の原稿料』八木書店)
啄木の苦境は、浪費や無計画といった本人による部分もありましたが、そもそも執筆活動による原稿料収入だけで生計を立てること自体が狭き門だったのです。
専業作家への茨の道の過酷な現実を伝えている、もう一人の有名人は、あの五千円札の肖像にもなった樋口一葉(1872―1896)です。珠玉の短編『たけくらべ』(1896年)などを発表した「奇跡の14か月」の間、彼女が受け取った原稿料はわずかでした。
一葉の家計は常に火の車で、千駄木の質屋に通い詰めていました。生活苦を打開するため駄菓子などを売る雑貨店を始めたりしましたが、経営に行き詰まり、方々で借金の申し出をしています。父親の法要を理由に原稿料の前借りを求めたこともありました。
近代以降では「最初の職業女流作家」という評価が定着していますが、「名は売れても食えない」という、近代文学の光と影を象徴する存在であり、明治中期において女性が筆一本で生きることは文字通り死闘だったのです。
戯作者から起業家へ
明治の書き手は、現代の言葉で表現すると、いわば「ベンチャー起業家」のようなものでした。
この頃の書き手たちは、「プリンティングではあってもパブリッシングではなかった」戯作者という立場から、自らの名前をブランド化して市場に売る「個人の起業家」的なものへと変わる過渡期にいました。漱石のような成功者は、そのビジネスモデルの構築に成功した稀有な例といえます。
要するに、文筆がまともな仕事として職業選択の対象となる「専業モデル」の確立は、人類史においてはこの1世紀に起こったばかりの極めて新しい現象であったのです。
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