豊臣家墓所にある慈雲院の五輪塔(左)と豊臣秀長の五輪塔(右)【写真:ふくいのりすけ/PIXTA】


 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第13回「疑惑の花嫁」では、信長の指示で、秀長は安藤守就の娘・慶を妻に迎えることになるが……。今回放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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発足間もない豊臣政権をサポートした秀長の正室・慈雲院の存在感

「えらく大変な女性を妻にしてしまったものだ……」今回の放送後、SNSではそんな反響が多かったようだ。

 ドラマでは、豊臣秀長が織田信長に命じられて、安藤守就(あんどう もりなり)の娘・慶(ちか)を妻に迎えるが、実のところ慶は前の夫を織田との戦で亡くしていることが判明。しかも、敗因は自分の父である守就らが、織田方に裏切ったことにあった。

 守就らを調略したのは秀長であることを考えれば、慶にとって秀長は前夫の敵ということになる。秀長はそれらの背景を把握したうえで、慶を妻として迎えることにしたらしい。秀長がこんな言葉をかけている。

「そなたがわしを許してくれるまで、わしも何も求めん」

 だが、2人が心を通わせるまでには、時間が必要となりそうだ。なにしろ慶は「金で男を買っている」「女狐だ」と町で噂を流されており、現にこれから戦だというときに秀長は、見知らぬ男性と妻の慶が密会する場面を目撃している。

 はたして慶は「魔性の女」なのか――というところが気になるが、史実において秀長の妻のことは、それほど多く分かっているわけではない。

 秀長の妻については、秀吉の死後に高野山奥之院に設けられた五輪塔から法名は「慈雲院芳室紹慶(じういんほうしつしょうけい)」と伝わる。そのため、ドラマで妻の名は「慶」となっているのだろう。

 実際には、生没年も実名も分かっていない。天正13(1585)年9月に秀長の「濃州女中」(「濃州」は美濃守の秀長の呼称で「女中」は妻のことを指す)が郡山に来たと『多聞院日記』に記録されており、これが慈雲院だとされている。また、文禄3(1594)年3月に豊臣秀次が郡山城を訪れた際の『駒井日記』に「ちうんいん様」「大かた様」と記載されており、秀長の正室として記録されている。

 諸大名にとっても、慈雲院は存在感があったようだ。天正16(1588)年9月には、徳川家康や毛利輝元が大和国を訪れており、家康からは綿500把を、輝元からは紅糸(べにいと)100斤、銀子20枚が慈雲院に贈られている。

 天正19(1591)年5月7日、高野山奥之院の豊臣家墓所に秀長と並んで五輪塔が建立されている。慈雲院の五輪塔には「逆修 天正十九年五月七日」の銘文が刻まれており、秀長の死に合わせて自ら生前葬を行い、供養塔を建てたことが明らかになっている。

 慈雲院は正室として一定の政治的・儀礼的役割を担っていたとみられる。ドラマでは、しばらくの間、2人が協力し合う未来は見えてこなさそうだが、どのようにして「秀長の善政を陰で支える存在」へとなっていくのか。そのプロセスが気になるところだ。

将軍の権限を徹底剥奪?信長が突きつけた「殿中御掟」5箇条の苛烈な中身

 足利義昭を将軍に擁立すべく尽力した織田信長だったが、いよいよ両者の関係が悪化していく。そんな様子が今回の放送では描写された。

 将軍の義昭が信長に5箇条の約束事をさせられる場面があった。明智光秀が読み上げていくが、義昭に仕える三淵藤英(みつぶち ふじひで)が激怒して「もうよい!」と途中で遮ったため、内容が気になっている視聴者もいることだろう。

 史実においては、信長は義昭にこの5箇条を突きつける前段階として、永禄12(1569)年1月14日、「殿中御掟」という形で、9箇条に及ぶ約束事が交わされた。そこでは将軍に仕える人々の序列を定めたほか、訴訟手続きについての規定が定められている。

 その2日後には、さらに「喧嘩口論を禁じて、違反者は成敗する」「将軍への直訴を禁止する」などの7箇条が加えられた。いずれも、室町幕府の規範を条文化することで再確認した、という内容に過ぎず、この時点では、信長と義昭との間に決定的な亀裂は生じていなかったようだ。

 それに加えて永禄13(1570)年1月23日、信長が殿中御掟に5箇条を追加することになったのが、以下の5つである。

「将軍名で発給する諸国への御内書と呼ぶ文書については、その内容を事前に信長に知らせたうえで、信長の添状と一緒に発給すること」

「これまでの義昭が行った下知は、すべて無効とし、現状にそった施策を改めて思案したうえで、新たに定めること」

「義昭が恩賞・褒美を与えようとしても、領地が不足している場合は、信長の分国内の土地を上意次第に提供すること」

「天下のことは信長に任せたのであるから、義昭の意向に背けば、信長が成敗する」

「天下が静謐になったからには、今後は朝廷に対して、義昭は毎事に油断なきよう接すること」

 自身の行動を制限するような内容に、義昭としても到底納得できなかっただろう。

 ドラマでは、家臣たちの前では「信長もわしのことを思えばこその忠言じゃ。ここは大目に見てやろうではないか」と受け入れたものの、心を許せる明智光秀の前では態度を一転。庭石に向かって、一心不乱に刀を振り回す姿が描写された。

 実際の義昭にもじくじたる思いがあったのだろう。これ以後、信長への対決姿勢を鮮明にすることになる。

 また、信長が義昭にこの5箇条を出してまもなく元号が「永禄」から「元亀(げんき)」に改められた。

「永禄」の元号は、義昭の兄・義輝の頃に、将軍抜きで三好長慶(みよし ながよし)と正親町(おおぎまち)天皇との間で、決められたもの。義昭としても、三好の影響下で決められた元号は変えたかったことだろう。ドラマでは、信長が「公方様が元号を改めるよう朝廷に奏上したというのは誠か」と確認。義昭と朝廷で合意に至った「元亀」について、こう言い放った。

「わしは好まぬ。公方様にそう伝えよ」

 実際に信長は義昭を追放した直後、朝廷に建白書を提出。元亀4(1573)年7月28日に「天正」へと改元している。朝廷としても、信長の改元建白には戸惑ったことだろう。朝廷と信長の関係にも要注目である。

「疑惑の花嫁」は「市」のことでもあった?浅井家で動く信長の妹の覚悟

 今回の放送では、織田信長が浅井長政と何度も相撲をとるシーンがあった。2人に相撲をさせながら、さらに信長の回想シーンを重ねることで「信長は抹殺せざるを得なかった弟・信勝に、長政を重ねたのではないか」という解釈を打ち出している。

『信長公記』に「三日、信長は近江の国中の力士を常楽寺に召し寄せ、相撲をとらせて観覧した」とあるように、実際に信長は相撲が好きだった。

 そして、信長が長政を信頼しきっていたのも確からしい。朝倉攻めに際して、いざ浅井に裏切られると、なかなか信じなかったという。『信長公記』に次のようにある。

「信長は、浅井が背いたというのは誤報であろうと思った」

 ドラマでは、長政の父である浅井久政が、朝倉家とのつながりを重視。長政は織田信長とも話しあったうえで「こたびは織田にも朝倉にもつかぬ」と皆に告げる。だが、父の久政は「そういうわけにはいくまい」として、朝倉景鏡(かげあきら)を連れてきて、わが子に信長を裏切るようにプレッシャーをかけるシーンがあった。

 実際の浅井久政については、浅井家の基礎を築いた父の浅井亮政(すけまさ)のような勇猛さはなく、六角氏に圧倒され続けた。そのことから、何かと侮られがちな歴史人物である。浅井氏の研究書『東浅井郡志』では、久政のことを「平和の愛好者は、固より生存競争の劣敗者たるを免れず」とまで書いている。

 久政から長政への家督相続についても「六角氏に毅然とした態度をとるべし」とした家臣らが長政を擁立。久政を強引に隠居させたとする見方もある。

 ところが、『浅井氏三代』(宮島敬一著)では、久政が隠居後も長政と連署で文書を出すなど、影響力を保持していることを指摘している。併せて久政は、用水を巡る争いを平和裏に解決させるなど、国人衆の調停役として効果的な介入も行っていた。内政面で評価すべきポイントがあるという意見も上がっている。

 ドラマでも、そんな久政の発言力の大きさが描写されており、長政は信長を裏切る方向へとかじを切らざるを得なくなってしまった。

 浅井家に嫁いでいる市(いち)が家中にスパイを放っており、浅井家の動向をいちはやくキャッチし、信長に知らせようとしている。つまり、放送タイトル「疑惑の花嫁」は、秀長の妻だけではなく、長政の妻、つまり市のことも意味している。

 この市の働きが信長を窮地から救うことになるのだろうか。

 次回の第14回「絶体絶命!」では、浅井長政の裏切りを知った信長が激高。秀吉が危険な「しんがり」を担い、信長が京に戻るまで朝倉軍を食い止めることになる。

【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(竹内理三編、臨川書店)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)

筆者:真山 知幸