【豊臣兄弟!】出身は美濃、名は「慶」… 吉岡里帆演じる秀長の妻の史実に照らした信憑性
信長の命令による政略結婚
同郷の想い人だった直(なお、白石聖)が、第8回「墨俣(すのまた)一夜城」(3月1日放送)で農民同士の争いに巻き込まれて非業の死を遂げたときは、小一郎(のちの羽柴秀長、仲野太賀)は悲しみに打ちひしがれた。だが、第12回「小谷城の再会」(3月29日放送)で、生涯の伴侶に出会う。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。
織田信長(小栗旬)に呼び出された小一郎が岐阜城に赴くと、そこには安藤守就(田中哲司)が控えていた。守就といえばもとは斎藤龍興(濱田龍臣)の重臣で、美濃三人衆の1人という位置づけだったが、主君を見かぎって信長に付いたのだった(第9回「竹中半兵衛という男」、3月8日放送)。信長は小一郎に「嫁をとれ」と命じる。勧めるのではない。命令する。つまり、信長に寝返った守就がふたたび寝返ることがないように、信長は娘を人質に出させ、それを信頼がおける家臣である小一郎に娶らせようというのだ。

突然の話に驚いている小一郎の前に現われたのが、守就の娘の慶(ちか、吉岡里帆)だった。なにしろ主君の命令であるし、小一郎には断ることなどできない。この時点で、彼の正室は慶と決まった。だが、これは戦国時代にはごく当たり前の政略結婚で、浅井長政(中島歩)のもとに嫁いだ信長の妹、市(宮粼あおい)の立場も同様だった。
だが、小一郎がどういう女性と、どういう経緯で、いつ結婚したのか、実のところわかっていない。そこで以下に、秀長の妻についてわかっていることを記したい。戦国時代は江戸時代と違って一夫多妻制だったので、「正室」「側室」という分け方はふさわしくない、という見解が最近は強まっているが(その場合は、たとえば「本妻」「別妻」などと表記する)、ここではわかりやすさを優先し、「正室」「側室」と表記する。
美濃出身の女性の可能性
秀長の前半生については史料が乏しく、正室についてはさらに情報がなく、ようやく史料に登場するのは天正13年(1585)、すなわち本能寺の変の3年後、兄の羽柴秀吉が関白になった年である。
この年の閏8月、秀長はみずから総大将を務めた四国征伐を成功させ、兄の羽柴秀吉から、あらたに大和(奈良県)の統治をゆだねられた。そして9月3日、秀吉とともに約5,000人を率いて本拠地と定められた大和郡山城(奈良県大和郡山市)に入城したが、そのとき一緒に大和に入国した女性として、興福寺の塔頭の多聞院で書き継がれた『多聞院日記』に「濃州女中」の名が出てくる。同じ人物について、その後も「大納言ノ御内」などと書かれるようになり、これが秀長の妻だとされている。
秀長が天正19年(1591)1月に没してからは、「慈雲院」「しうんゐん」などと書かれている。秀長没後は出家して慈雲院殿と称されたようなので、以下にはこの正室のことを慈雲院殿と記す。その年の5月に高野山の奥ノ院で慈雲院殿の生前供養が行われ、その際に設けられた五輪塔には「慈雲院芳室紹慶」という名が確認できる。また、秀長の葬儀を仕切った禅僧の記録には、「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」と記されているという。
さて、ここまでの話のなかに、『豊臣兄弟!』で吉岡里帆が演じる慶とのつながりが2つほど見えてきた。
「慈雲院芳室紹慶」にも「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」にも共通する文字は「慶」だ。慈雲院殿の出家前の実名は伝わっていないが、ここから「慶」だった可能性が見えてくる。それから、「濃州女中」の「濃州」は一般には美濃国(岐阜県南部)を指す。だから、ふつうに考えれば「濃州女中」とは美濃国出身の女性のことになる。そのため『豊臣兄弟!』では、秀長の正室を「安藤守就の娘」で名前は「慶」という設定にしたのだろう。
元服後に没したと思われる長男
とはいえ、慈雲院殿の出自はいまのところ、史料からはつかめない。
戦国史研究家の和田裕弘氏は『豊臣秀長』(中公新書)にこう書いている。〈出自については、『多聞院日記』文禄二年(一五九三)五月十九日条に「大納言の御内息災のため、其母は伝左衛門殿の内也」とあり、秀長正室の父は伝左衛門、母はその妻室という意味である。/伝左衛門というのは、秀長周辺の記録に見える神戸伝左衛門と思われる〉
しかし、『豊臣兄弟!』の時代考証も務める柴裕之氏は、この「大納言の御内」とは別の妻(本稿では側室と表記する)である摂取院光秀のことだとしており(『羽柴秀長』角川選書)、同様に解釈している研究者が多い。
結局のところ、現状では出自を突き止めるすべはないが、前述の理由で、美濃三人衆だった安藤守就の娘で名は慶、という設定は、それなりに筋が通ったフィクションだということはできるだろう。
では、慈雲院殿は秀長より何歳年上なのか、年下なのか。いつ結婚したのか。記録はないがヒントならある。
藤堂高虎の一代記である『高山公実録』に記された「郡山城主記」などには、秀長の「御実子早世」のため、天正10年(1582)に丹羽長秀の三男の仙丸(のちの藤堂一高)を養子に迎えたという旨が書かれている。別の史料には「与一郎」という名が記され、「御実子」の名が「与一郎」だったと解釈できる。
秀吉や秀長のような諱(いみな、実名)は伝わっていないが、「与一郎」という仮名(けみょう、通称)がついているので、亡くなった時点で成人していたということだろう。当時は数え年15歳前後で元服するのが一般的で、早くて12歳ほどだったから、天正10年(1582)が没年なら、永禄10年(1567)前後、遅くとも元亀2年(1571)には生まれたことになる。
兄と対照的に女性関係が地味だった秀長
その計算でいけば、秀長と慈雲院殿が結婚したのは、永禄8年(1565)前後、遅くて同11年(1568)ごろになる。ただし、そのとき彼女が何歳だったのかはわからない。前出の和田氏は前掲書にこう書いている。〈慈雲院は『東西歴覧記』『吉田紀行』が引く善正寺の過去帳によると、元和六年(一六二〇)三月二十八日没。同記には、正確には「慈雲院、元和六年三月二十八日 大和大納言母公」としているが、秀長の母(大政所)ではなく秀長正室の慈雲院のことである〉。
残念ながら没年齢はわからないが、仮に70歳だとすれば天文20年(1551)ごろの生まれだ。秀長の生年が天文9年(1540)であるなら、10歳程度年下だったことになる。
ちなみに、与一郎が没したのち、慈雲院殿は男児を授かってはいない。側室の摂取院光秀にも男児が生まれた形跡はない。しかし、天正18年(1590)4月以降、病に伏した秀長が重篤になるたびに、慈雲院殿は平癒のための祈祷を指示しており、秀長とは最後まで、それなりに仲睦まじかったように思われる。秀長は側室の名も摂取院光秀以外に伝わっていない。
何人もの側室がいただけでなく、大坂城内に300人もの妾を囲っていたと伝わる兄の秀吉とくらべると、秀長の女性関係はあきらかに地味だったようだ。その分、慈雲院殿との関係も安定していたのかもしれない。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
