昭和52(1977)年3月、正田建次郎氏の自宅を弔問された上皇ご夫妻(当時の皇太子ご夫妻)

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【写真】「美しすぎる」のひと言…昭和30年代「ミッチーブーム」を呼んだ頃の美智子さま

急死した美智子さまの伯父

第1回【「美智子さま」皇太子妃時代の“思いがけない訃報” 敬愛する伯父の葬儀で見えた皇室の「民間では想像もできないようなご配慮」】を読む

 1977(昭和52)年3月20日、数学者の正田建次郎氏が死去した。享年75。戦後、日本の数学とその教育現場の復興に尽力し、大阪大学総長などを歴任。教育勲一等瑞宝章と文化勲章を受章した日本数学界の功労者は、当時の皇太子妃、現在の上皇后美智子さまの伯父でもあった。

 親族一同が驚いたという建次郎氏の急死を受け、世間はその後の対応に注目した。美智子さまは初の民間出身の皇太子妃。建次郎氏の弔問に訪れたのは、一般弔問客が最も少ないと予想される午前11時頃のことだった。

昭和52(1977)年3月、正田建次郎氏の自宅を弔問された上皇ご夫妻(当時の皇太子ご夫妻)

 一方で、当時の天皇はどのように対応されたのか。そして、それまでの弔事ではどのような判断がなされてきたのか。昭和天皇の入江侍従長、東宮御所の重田侍従、常陸宮家の東園侍従、宮内庁の関係者(以上すべて当時)らの貴重な証言を交えた「週刊新潮」の過去記事で、当時の雰囲気をお伝えしよう。

(全2回の第2回:以下「週刊新潮」1977年3月31日号「美智子妃殿下の伯父『正田建次郎氏』の葬儀に関して『天皇家』の配慮と行動」を再編集しました。当時の天皇は「昭和天皇」、文中の「皇太子ご夫妻」は現在の「上皇ご夫妻」のことです)

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規制はないが“民間並み”にはできず

 もっとも、そうはいうものの、皇太子ご夫妻が気軽に弔問できなかったのは、そうした理由ばかりではなかったらしい。正田建次郎氏は文化勲章の受章者で、おふたりには「伯父」に当たるとはいえ、やはり純粋の民間人。現在では、戦前の「皇室服喪令」(1947年廃止)のような厳しい規制はないものの、そこは“民間並み”というわけにはいかなかったらしい。

 このへんの事情は、今度の場合、天皇・皇后両陛下や他の宮家のお取りになった態度にも、顕著に示されている。両陛下の場合は、弔問はむろんのこと、香典や供花をおくられることもなかった。

 天皇家からは、入江相政(すけまさ)侍従長に語ってもらおう。

「東宮(皇太子)のほうは伯父ですけど、こちらは別に……。だって、あちらの伯父さまからこちらまでの距離は、大変な回り道ですからね。ただし、祭祀料はお出しになる。が、これも文化勲章の受章者ということに対してであって、ご親戚だからというわけではありません」

 ちなみに、天皇ご自身がこれまで直接弔問にお出かけになったのは、母君である貞明皇后と長女の東久邇成子(ひがしくに しげこ)さんのときの2回だけ。しかも、東久邇さんの場合は、ご自分の娘であるとはいえ、すでに民間の人となられていたのだから、異例中の異例だったのだそうだ。

 だから、のちに成子さんの夫君の東久邇盛厚(もりひろ)氏のときや、また鷹司家に嫁がれた和子さんの夫・鷹司平通(たかつかさ としみち)氏が、さるバーのマダムのマンションで亡くなられたときには、弔問は皇后さまおひとりであったという。

天皇家や宮家の香典額は微々たるもの

 宮家の立場については、常陸宮家の東園基文侍従――。

「東宮妃殿下の祖父に当る正田貞一郎氏が他界されたとき(1961年)も、常陸宮家としては、喪に服されている東宮妃殿下に喪中のお見舞を申し上げただけのように記憶しています。今度の場合も喪中お見舞ということで、香典をお出ししたり、葬儀に参列されることはありません」

 しかし、これがご兄弟ということになると、相手が民間人でも事情は変わってくる。たとえば鷹司平通氏のとき――。

「義理とは申せ、常陸宮さまにとっては、兄に当たるわけですからね。ご葬儀にはもちろん、それ以後も何かと心を配られ、毎年1月27日の命日には、必ず墓地に花を贈られるか、自ら持って行かれています」

 なお、関係者は口を緘(かん)して語りたがらないが、たとえ天皇家や宮家が香典などを包まれたとしても、その額は微々たるものであるらしい。また、供物の類も、たとえば東久邇成子さんの葬儀のときは、3個のグレープフルーツをお持ちになっただけという。

教え子たちは「今回は遠慮」

 しかし、「一般弔問客をおもんばかって」という、こうした天皇家のご配慮も、現実には必ずしも功を奏しているとはいいきれない。

 早い話、今回の場合だが、正田建次郎氏は昔からざっくばらんな性格の人だったという。阪大時代の教え子や後輩たちの話では、その講義は緻密で、とくに試験の採点は厳しく、どしどし落第点をつけて学生たちを恐れさせたという話だ。が、その代わりに追試を何回もやり、結果的には、ほとんどの学生を落第から救済したという。

 そして天気がよい日などには、授業を休講にして、学生たちと連れ立って京都や奈良に出かけることもあったらしい。アルコールは最近になるまで、「ウイスキーを2日に1本あける」というペース。学生たちに振舞うこともしばしばだったようである。

 それだけに、在阪の教え子たちは、今回の訃報を聞き、大挙上京したい意向のようなのだが、それでも彼らをしてためらわせるものがあったらしい。

「皇室のご親戚ですからね、われわれとは身分が違います。ですから、今回は遠慮しようかと考えています。私らはなんぼでも行けるんですから。あとで落ち着いた時点にお伺いし、奥さまにもずいぶんお世話になっていますので、何らかの形でお役に立ちたいと思っています」

 阪大の某教授の意見である。

喪主がすでに緊張?

 たしかに、たとえ天皇家側が公式の場をはずして、出来る限り目立たない形で弔問するにしても、周囲はひどく緊張する。

 3月22日、皇太子ご夫妻は正田邸に入られたが、このとき現場に動員された警備陣は、所轄の大塚署から警備の係官らが20名。警視庁から警衛関係者が10数名。東宮御所からの随員も6名。

 そのためかどうか、喪主の長男・彬氏からして、ご夫妻を祭壇に先導するとき、すっかりアガってしまったらしい。この日、正田家では、部屋と部屋の間の敷居の上に、ご夫妻がつまずかれないようにと、新たに絨毯を敷き、それを両面テープでしっかり留めたのだが、その肝心な絨毯を彬氏自身が蹴飛ばしてしまったのだ。

 なお、建次郎氏は死の直前まで、週の2日を武蔵学園の学園長として、武蔵大学の本部に出勤し、他の週日は学士院第二部長、東京都教育委員としての仕事に充てていた。その合間には、付属高校や中学の教壇に立ち、子供たちに数学を教えていたともいう。そして、土曜日曜の余暇は、自宅の庭に作った窯で焼物を焼いて楽しんでいたらしい。

 最後まで「スケールの大きな自由人」だったということである。

(以上「週刊新潮」1977年3月31日号「美智子妃殿下の伯父『正田建次郎氏』の葬儀に関して『天皇家』の配慮と行動」より)

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その後の葬儀では

 建次郎氏の葬儀から11年後、1988年に美智子さまの母、正田富美子さんが逝去された。美智子さまは皇太子ご一家として弔問し、その翌日に執り行われた密葬では浩宮さま(現在の天皇陛下)、紀宮さま(現在の黒田清子さん)、礼宮さま(現在の秋篠宮さま)とともに出棺を見送られた。

 美智子さまの父、正田英三郎氏が逝去されたのは1999年のこと。当時皇后の美智子さまは通夜と密葬に参列され、天皇陛下(現在の上皇さま)は通夜に先立ちご拝礼になった。密葬には浩宮さまご夫妻(現在の天皇皇后両陛下)と紀宮さま、秋篠宮ご夫妻とともに参列された。

 第1回【「美智子さま」皇太子妃時代の“思いがけない訃報” 敬愛する伯父の葬儀で見えた皇室の「民間では想像もできないようなご配慮」】では、上皇ご夫妻(当時の皇太子ご夫妻)の驚きについて、東宮御所の重田保夫侍従(当時)が証言している。

デイリー新潮編集部