1Aサリナス時代の近田豊年氏【写真:本人提供】

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近田豊年氏は2年目に1Aで活躍も帰国後は“練習生扱い”

“スイッチピッチャー”としてプロの世界に飛び込んだ近田豊年氏は、南海、阪神でプレーして通算成績は1試合登板、0勝0敗、防御率9.00。騒がれまくった入団当初が嘘のように、その後は不遇が目立った。プロ生活はわずか4年で終わったが、実戦のマウンドで輝いた時期が全くなかったわけではない。プロ2年目は充実の両投げ生活だったという。ただし、舞台は日本ではなく、米国。「自信にもなったし、むっちゃ、いい思い出になりました」。でも、帰国するとそれが続かなかった……。

 プロ2年目の1989年シーズン、近田氏は1Aサリナスへ野球留学した。「その当時はどこの球団も何人か行かせてましたからね。ダイエーからは自分以外にも吉永(幸一郎捕手)とか数人いました」。すぐに両投げに注目が集まった。「両方で投げろって言われました。全然、日本と違うんですよ」。試合でも投げた。右、左だけでなく、上手、横手、下手も駆使して変幻自在の投球。「全部、自分で判断した。抑えるためにベストな方法を自分なりに考えました」。

 基本形の左オーバースロー、右アンダースローで緩急もつけた。「右と左のスピードの差がすごくあるので、普通にストレートを投げても空振りしてくれるんですよ」。試合は毎日行われ、先発もリリーフもこなしたという。「何勝したのか覚えてませんが、相当な試合数を投げました。粗削りでしたから、すごくいいピッチングをしたと思ったら、次は全然駄目、なんてこともありましたけどね」。その時は1年間の留学が必ず飛躍につながると思っていた。

 しかし、うまくいかなかった。1990年シーズン。「日本に戻ったら、枠の関係でチームに籍がなかった。背番号42はもらったけど、2軍でも試合に出られなかった」。公式戦の出場ができない練習生扱い。米国留学の成果を見せたくても実戦で投げられなければ意味がない。モチベーションも下がった。「今、考えたらおかしいですよね」と近田氏はこの年を振り返る時、複雑な表情も見せた。そんな状況でオフに阪神へのトレード移籍が決まった。

「ダイエーが出してくれた感じでしたが、うれしかったですね。また試合ができるかもしれないってね」。張り切った。阪神では米国と違って、両投げではなく「左1本でいってくれ」と指示されたが、秋季キャンプで評価も上がり、翌1991年の春季キャンプは1軍に抜擢された。だが、続かなかった。1年間の“ブランク”がここへきて影響したのか、実力不足も明らかだった。「だいぶ球速も落ちてましたし、体も横に大きくなってましたから……」。

横浜大洋から誘いも投手コーチと「ちょっと言い合いみたいになって…」

 一気に気持ちも萎えていった。オープン戦で結果を出せず、2軍に落ちた時には「もう野球では駄目だと思った」という。秋ごろには知り合いに「ゴルフでもやったらどうか」と言われた。もっとも、それまでゴルフはあまり好きではなく、ラウンドしても180を叩いたりしていたのだが……。実は横浜大洋からも誘われていた。「同じ高知県出身の須藤(豊)監督と高橋(良正)投手コーチとは大阪で食事もしました」。だが、これはきっぱり断った。

「高橋さんに、まずコントロール、制球力をつけるための練習をしなきゃいけないと延々と言われたけど、僕は力で押しますと答えて、ちょっと言い合いみたいにもなったんです」。近田氏はそう明かしながら「僕の方が間違っていました。高橋さんの方が正しかったです」と反省する。現在は「駅前ゴルフスクール」の校長。「だって今、高橋さんが言っていたことと全く同じことを教えてますからね。ゴルフもうまくなるためにはとにかくコントロールをよくすることってね」。

 当時はそれに気づけなかった。横浜大洋を断り「知り合いがゴルフって言ってたなぁ。よし、ゴルフをやってみよう」と簡単に決めた。阪神には自ら退団を伝えた。「明日からゴルフをやります」と……。近田氏のゴルフの腕前を知っていた人はみんな心配した。高知県出身の江本孟紀氏には「大丈夫か、お前、一番下手やぞ」と言われたという。実際、深く考えていなかったのかもしれない。「本当にゴルフを知らなかったから目指そうと思ったんでしょうね」。

 ゴルフ界への転身。その後、近田氏はプレーヤーではなく指導者として、力を発揮していくことになるが、野球がこれで終わったわけではなかった。1991年オフに阪神で現役を終えてから、10年後あたりから、また根っからの野球好きの本性がウズウズと……。なんとNPB復帰を目指して、ある球団の監督に接触していた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)