ひとはなぜ夢を見るのか? 睡眠と夢の驚くべき効能とは 【橘玲の日々刻々】
若い頃は、友人たちが夢について語るのをいつも不思議に思っていた。なぜなら、夢を見たことがほとんどなかったから。大学生でフロイトの『夢判断』を読んだときも、困惑しかなかった。判断しようにも、肝心の夢がないのだ。
同じようなひとはかなりいると思うが、いまではこれは夢を覚えていないだけだとわかっている。眼球運動のあるレム睡眠(浅い睡眠)のときに被験者を起こすと、およそ8割が「夢を見ていた」と答える。眠りの深さは、脳波や筋肉・眼球の動きによって「レム睡眠−N1−N2−N3」と分類され、かつては「深い睡眠では夢は見ない」とされていたが、近年の研究ではN3(もっとも深い睡眠)でも、無理やり起こされた被験者のおよそ半数が「夢を見ていた」と答えるという。
眠りから覚めて覚醒状態になるあいだに、脳は夢の大半を忘れてしまう。この健忘には個人差があるので、夢を詳細に覚えているひとと、「夢を見たことがない」ひとにわかれるのだろう。
アントニオ・ザドラ、ロバート・スティックゴールドの『夢を見るとき脳は 睡眠と夢の謎に迫る科学』(紀伊国屋書店)を手に取ったのは、自分が(ほとんど)体験したことのない夢の世界に興味があったからだ。著者たちは、1990年代の初頭から夢の研究に取り組み、睡眠と夢に関する科学論文を200本以上発表してきた第一人者だが、それでも「夢の謎と驚異は大きくなるばかりだ」という。
フロイトの説は「根拠がほとんどなく、経験的な証拠もない」
世界最古の物語とされる4000年前のギルガメシュ叙事詩にも夢が出てくるように、夢の謎はずっとひとびとを虜にしてきた。だが「夢の科学」に大きな影響を与えたのは、フロイトの『夢判断』(1899)だった。
とはいえ現在では、フロイトの「独自の主張」とされるものの多くに先行研究があることがわかっている。
イギリスの心理学者ジェームズ・サリーは、『夢判断』の6年も前に「夢は暴露となる。自我から見かけの包装をはぎとり、赤裸々な正体をむきだしにする。潜在意識の暗い底から、原始的で本能的な衝動を呼び起こすのだ」(「暴露としての夢」1893)と書いた。
カール・シェルナーはフロイトより40年ちかく前に、『夢の生活』(1861)で、「夢は対象をそのまま描くわけではなく、別の何かで対象の重要な属性を象徴させるのだ」として、「煙草のパイプ、ナイフ、クラリネット」は男性器の象徴で、「住宅に囲まれた細い道」は女性器の象徴だと唱えた。
フランスの民族誌学教授エルヴェ・ド・サン=ドニは『夢の操縦法』(1867)で、夢は人物やモノの特徴・特質を「抽出」していると論じた。昼に食べたオレンジ(ミカン)のかたち、色、香りのどれが主体になるかによって、夢ではビーチボール、オレンジ色の夕焼け、レモンの木立として現われる。これが「抽出」だ。サン=ドニは、夢のなかで多種多様な概念が映像で現われることを「映像の重なり」で説明してもいる。――その30年後、フロイトはサン=ドニの説を掘り起こし、「抽出」を「遷移」、「映像の重なり」を「縮合」と呼び方を変えて自分の説に加えた。
フロイト独自の理論といえるのは、「夢は幼児期に由来する抑圧された性的願望の表現」くらいで、これが精神分析学の根幹になっている。眠っているときも「検閲官」が抑圧された無意識の素材を歪め、「縮合」「遷移」「表象可能性」「二次加工」などの「夢の仕事」によって、それとわからないかたちに変えてしまう。だが熟練した精神分析医の手にかかれば、(夢が呼びさます感情や思考を何の制約もなく描写していく)自由連想によって、検閲官による歪曲を「取り消し」て、夢のもとになった無意識の葛藤や欲望にまでさかのぼれるとされた。
ところがその後の数えきれない研究で、フロイトの説は「根拠がほとんどなく、経験的な証拠もない」という明白な結論が導き出されてしまった。だがフロイトの「夢理論」への批判は精神分析学を根底から脅かすものだったため、夢の研究者は精神分析家たちからはげしい攻撃を受け、「フロイト戦争」と呼ばれるようになった。
そもそも、「フロイトが無意識を発見した」という主張自体が明らかな誤りだ。「意識できないこころのはたらきがある」という概念は数千年前までさかのぼれるし、「無意識(unconscious)」という言葉もフロイトが生まれる100年以上前につくられた。臨床的な観察にもとづいて無意識を最初に理論化したのはフロイトではなく、フランスの精神科医ピエール・ジャネだった。
だがフロイトと、その後継である精神分析学のマーケティングがあまりにも成功したために、「科学としての心理学・精神医学」はずっとフロイトの呪縛に苦しめられることになった。だが1953年にレム睡眠が発見されて、ようやく夢を科学的に研究できるようになり、いまや続々と新しい知見が積み重ねられているのだ。
