鳴門海峡(現在)

 1985年6月8日、兵庫県淡路島と、徳島県鳴門市を結ぶ大鳴門橋が開通した。当時は「夢の架け橋」とうたわれ、物流・観光の要として大きな期待が集まった。

 鳴門大橋の道路下には、いま現在は使われていないスペースが広がっている。ここは、1960年代から計画されていた、四国新幹線を走らせるためのスペースだ。

 当時、新幹線の敷設には全国的に追い風が吹いていた。田中角栄が著者『日本列島改造論』で、国を豊かにするための提言のひとつとして、「全国に新幹線を張りめぐらす」と打ち出したからだ。

 田中は、新幹線のメリットについて、こんなことを語っている。

《9000キロメートル以上にわたる全国新幹線鉄道網が実現すれば、日本列島の拠点都市はそれぞれが1〜3時間の圏内にはいり、拠点都市どうしが事実上、一体化する。

 新潟市内は東京都内と同じになり、富山市内と同様になる。松江市内は高知や岡山などの市内と同様になり大阪市内と同じになる》(『日本列島改造論』より)

 要職に就く前の下積み時代、田中は全国を自分の足で見て回った。そのため、新幹線を通す場所に関する意見も的確だったとされる。

 では、実際の計画はうまくいったのか。歴史研究家の濱田浩一郎さんが、こう語る。

「『改造論』が刊行された1972年は、山陽新幹線の新大阪〜岡山間が開業した年です。

 田中は『新幹線は人間の移動を効率化し、経済の生産性を高める』とし、北は北海道から南は鹿児島まで、日本全国に鉄道網を敷くことを提案します。

 しかし、計画は順調に進んだわけではありません。

 たとえば、成田空港へのアクセスをよくするため、東京と成田を結ぶ成田新幹線計画もありましたが、反対運動が起きて用地買収が進まず、工事は頓挫してしまいます。

 同じような理由で、東北新幹線や上越新幹線の開業も計画から5年ほど遅れました。名古屋では騒音・公害訴訟が起きるなど、前途多難でした」

 世論だけでなく、自民党内からも、長期の建設計画が地価の高騰につながるといった反対意見が噴出する。

鳴門海峡(架橋前)

「四国新幹線は、本州〜淡路島間が明石海峡大橋、淡路島〜四国間が大鳴門橋を走る計画でした。しかし、石油ショックや国鉄の経営悪化などが影響し、暗礁に乗り上げます。

 大鳴門橋は無事に完成しましたが、開通したのは道路部分のみでした。当初は明石海峡大橋にも鉄道スペースを造るはずでしたが、それもなくなり、道路のみとなりました。

 いまでは、渦潮の見学施設があるぐらいです。新幹線の実現を国に要望している団体もありますが、先行きは不明です。田中角栄が描いた理想は、夢のまま終わってしまうのかもしれません」

写真提供:鳴門市