私たちが生み出した「非人間的な力」に私たちが支配される…魔のループを脱するには「疎外の克服」か「自律」か
労働や生産の「自動化」のみならず、アルゴリズムという名の「非人間的な力」が支配する時代、なすべきは「疎外の克服」か「自律」か――。「生産性」という病に取り憑かれた社会を解剖し、解毒剤を練り上げる、気鋭の著者による連載もいよいよ終盤戦へ!
「疎外の克服」批判のおさらい
「自動化(Automation)」の時代に、どのようにして「自律(Autonomy)」を取り戻すことができるだろうか。とりわけ、労働や生産の「自動化」だけでなく、アルゴリズムという名の「非人間的な力」による、他ならぬ人間それ自体の「自動化」までもが進行しつつある現在、こうした問いは見かけ以上に抜き差しならないアクチュアリティを持つように思える。
私たちは前回と前々回、「疎外」について考えた。たとえば第七回では「疎外の克服」という発想が検討された。そこでは、反出生主義や加速主義、そして浅田彰ら多くの論者が、「疎外の克服」というスキームを批判していたことがわかった。ルソー的な自然状態、言い換えれば未開社会へのロマン主義的な回帰や、資本主義に汚染されていない原始の領域(=外部)への回帰。こうした志向性が批判され、結果として、人間にアプリオリに内蔵する原初からのズレとしての「過剰」を多形倒錯的に、多方向に展開=散乱させることで、近代資本制を内破させる浅田彰(ウルトラ・キャピタリズムとしてのスキゾ・プロセス)や一時期のリオタール(リビドー経済)に見られる戦略に繋がっていったことを確認した。
「疎外の克服」はそもそもなぜ批判の対象となったのだろうか。再度の確認になるが、「疎外の克服」とは、「ある(本来的な)人間の統一された本質がどこかにあり、それが何らかの理由で損なわれたり、奪われたりしている」という図式を前提にした上で、疎外された主体性の回復を唱える考えを指していた。こうした、人間の本質を所与の前提とする「疎外の克服」論者としては、たとえばフォイエルバッハがおり、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』においてフォイエルバッハの人間主義(ヒューマニズム)と手を切ることで独自の唯物論を構築した、というのが教科書的な理解である。
なるほど、たしかに『ドイツ・イデオロギー』のマルクスは、(フォイエルバッハのように)人間の本質を暗黙の出発点とすることを拒絶する。個人なるものは、その社会状況における経済的諸条件において事後的に構成/規定されるのであって、逆ではない。たとえば、以下のような文章。
「彼らが何であるかということは、それゆえ、彼らの生産と合致する。すなわち、彼らが何を生産するか、ならびにまた、彼らがいかに生産するかということと合致する。それゆえ、諸個人が何であるかということは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する。」1
取り戻されるべき「人間の本質」など存在しない。人間は生まれ落ちたときから具体現実的な社会的諸関係に内属しているのであって、あらゆる社会的諸関係から自由な、したがって社会の外部に(無媒介的に)位置するような「人間なるもの」といった抽象物は存在しない。マルクスは端的に次のようにも言う。「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」2。ここに、マルクスによる「疎外の克服」批判の端緒を読み取ることもできるだろう。
1 マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー新編輯版』廣松渉訳、小林昌人補訳、岩波文庫、二〇〇二、二七頁。
2 同上、三一頁。
働けば働くほど、その労働は資本家のものになる
しかし、マルクスが「疎外の克服」を批判したからといって、そのことをただちに、「疎外」概念そのものをマルクスが捨て去った、とまで言い換えることが、果たしてできるだろうか。それは言ってしまえば、産湯と一緒に赤子を捨てるような倒錯に繋がりかねないのではないか。
たとえば、マルクスは同じ『ドイツ・イデオロギー』の中で、次のようなことを書いている。
「そして最後に、分業は次のことについて最初の例を、早速われわれに提供してくれる。すなわち、人間たちが自然発生的な社会の内にある限り、したがって特殊な利害と共通の利害との分裂が実存する限り、したがって活動が自由意志的にではなく自然発生的に分掌されている限り、人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を圧服する、ということである。」3
「疎外」という言葉こそ直接使われていないものの、ここでマルクスが言っていることは、要するに「疎外」である。「人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を圧服する」。
マルクスは単純に「疎外」概念を捨て去ったわけでもないし、疎外論から物象化論に乗り換えたわけでもない。ことはさほどシンプルではない(そもそも疎外論と物象化論の関係は単純に排他的なものではない)。ただし、マルクスはここで「人間本質からの疎外」を説いているわけではない点については注意を要する。あくまでも分業という社会的現実が生み出す不可逆的プロセスが労働者にとって疎外として現れると主張しているだけであって、「人間本質」なる抽象物がここに入り込む余地はない。
事実、マルクスは後年の『資本論』においても「疎外」概念をいくつかの箇所で扱っている。もちろんヘーゲル的な観念論やフォイエルバッハ的な人間主義の残滓は綺麗に洗い流されているとはいえ、それでもマルクスが扱うそれが「疎外」であることに変わりはない。たとえば、『資本論』第一巻第七篇第二一章、「単純再生産」と名付けられたチャプターからの引用。
「しかし、初めには出発点にすぎなかったものが、過程の単なる継続、すなわち単純再生産を介して、資本主義的生産の固有の結果として、たえず新たに生産され、永久化される。一方では生産過程が、たえず素材的富を資本に、資本家のための価値増殖手段と享楽手段に、転化する。他方では、この過程からは、たえず労働者が、そこに入ったままの姿で出てくる--彼は、富の人的源泉ではあるが、この富を自己のために実現するには、あらゆる手段を奪われている。彼が過程に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家に領有され、資本に合体されているので、それは過程の続行中、たえず他人の生産物に対象化される。」4(強調引用者)
マルクスは「人間的本質」なる抽象から出発しない。資本家が生産手段を持ち、労働者は自分の労働力を売るしかない、という状態、言い換えれば現実における社会的諸条件を出発点に置くのである。
労働者の労働は、生産過程に入る前からすでに、労働力商品として資本家に売られている。ゆえに、生産過程の中で労働者が働けば働くほど、その労働は労働者自身のものではなく、資本家の所有物としての生産物に対象化されることになる。これがマルクスのいう「疎外」に他ならない。
3 同上、六六頁。
4 マルクス『資本論(三)』向坂逸郎訳、岩波文庫、一九六九、一〇九頁。
疎外は「原罪」か
哲学者の田上孝一は著書『疎外論入門』の中で、以上のようなマルクスにおける「疎外」概念の断絶性と連続性について、次のように簡潔に要約している。「マルクスによって疎外はヘーゲルのような先行者とは異なり、もっぱら人間の行為一般を意味する対象化とは区別され、歴史的に特殊な具体的状況に由来する行為のあり方として概念規定し直された」5。
対象化とは、一言でいえば人間の力が対象のなかに実現されることを指す。たとえば、職人が机を作る場合、その机には職人の技術、時間、構想、身体的努力が凝縮されている。それに対して、疎外とは、その対象化された力が当人から奪われ、当人に対立する力になることを指す。こうした対象化の反転は、私有財産や賃労働といった社会的諸条件のもとで起こるとされる。
対象化はマルクスがヘーゲルから引き継いだ概念である。その意味で、それは未だ観念論的な残滓を引きずっている。だが重要なのは、マルクスがヘーゲルを批判している点にこそある。ヘーゲルにおいては、精神が自己を外化し、対象化し、それを再び自己へと回収するという運動(疎外の克服)が重視される。しかしマルクスからすれば、ヘーゲルは「対象化」そのものを「疎外」と同一視してしまっている。つまり、外部に対象が存在すること自体を、精神にとっての疎外として扱ってしまう、と。
若きマルクスは『経済学・哲学草稿』において、「ヘーゲルが富や国家権力などを人間の本質から疎外された存在としてとらえるとき、疎外は思考形式の問題でしかない」6と、ヘーゲルを痛烈に批判している。
「したがって、対象となり、疎外された対象となった人間の本質の獲得は、第一に、意識のうちで、思考のうちで、抽象のうちで進行する獲得にすぎず、思考としての、思考運動としての対象の獲得にすぎない。」7
ヘーゲルの弁証法にあっては、現実は無視され、疎外は意識と自己意識の抽象的な対立に還元されてしまう、というわけだ。こうした、抽象的な自己意識から出発するヘーゲルに対して、『ドイツ・イデオロギー』のマルクスは端的にこう言い放つだろう。「私の環境に対する私の関係が私の意識である」8。
上述の田上孝一は、しばしばヘーゲルと同一の誤りを、「疎外の克服」を批判する論者たちは犯している、と指摘する。少し長くなるが、私たちのこれまでの議論とも共振してくるポイントなので引用してみよう。
「マルクスによって疎外が否定的に位置づけられて以来、疎外概念は基本的に否定すべき悪として捉えられることが一般化した。しかしそれは往々にして、マルクスが強調していた社会状況の規定性を無視することにもなった。疎外を人間存在である限り逃れられない原罪のごときものと見なすような議論が広がりもした。
しかしこれはマルクスの議論をヘーゲル以前に引き戻すことである。実存主義的な哲学の議論に見られたように、人間存在のあり方を深く反省し、人間存在の基底に自己自身との疎隔状況を見出すような議論や、疎外をもっぱら心理学的なカテゴリーと捉えた上で、人間存在に通底する根源的な不安のようなものを強調することは、それはそれとして一定の意義がある。だがそれは結局は、そうした人間存在のあり方の不変性をいたずらに強調することにより、論者の意図に関わりなく現状維持のためのイデオロギー的弁護論の役割を果たしていた。疎外が人間の基本的存在条件ならば、疎外は原理的に克服されないのである。」9(強調引用者)
疎外を人間存在である限り逃れられない原罪のごときものと見なすような議論。私たちにも見覚えがないだろうか。そう、連載第七回で検討した、シオランやリゴッティのような反出生主義的議論がそれだ。大雑把に言えば、彼らは意識を意識以前の「無」からの疎外=堕落として捉える。それは、しばしばエデンの園からの追放に喩えられていた。彼らにとって苦しみを不断に生む「自己意識」は、人間である限り逃れることのできない「原罪」に他ならない。
さらには、浅田彰ら一部のポストモダニスト。浅田は『構造と力』において、人間を本能が壊れた「過剰」な動物として捉えた。始原にあったのはルソー的な自然状態=ユートピアではなく、EXCÈS、言い換えば根源的なズレ=疎外であり、この存在論的差異が人間を人間たらしめる。つまり、浅田にあっても、疎外が人間の基本的存在条件であり、疎外は原理的に克服されないのである。
浅田にとって、こうした疎外認識のあり方の最終的帰結とは何であったか。そう、スキゾフレニックな「過剰」の肯定であり、資本主義の内部にとどまり、その無限の運動を極限まで「肯定する」という姿勢であり、つまるところ、最終消費のカタストロフに行き着くウルトラ・キャピタリズムの肯定、言い換えれば「疎外の克服」の対極としての「疎外の徹底化」である。
こうした(ある種の加速主義的な)帰結は、疎外をヘーゲル的に、あるいはハイデガー的に、つまりは存在論的に解釈するところから出てくる。浅田はたしかにヘーゲル的な弁証法(疎外の克服)を拒否する。しかし、疎外をどこまでも人間の存在論的条件に還元するという点では、未だにヘーゲル的なのである。
5 田上孝一『疎外論入門』集英社新書、二〇二六、一五二〜一五三頁。
6 マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫、二〇一〇、一七五頁。
7 同上、一七六頁。
8 前掲書、『ドイツ・イデオロギー』、五八頁。
9 前掲書、『疎外論入門』、一五三〜一五四頁。
「疎外」の対義語は「疎外の克服」ではなく「自律」である
ここで私たちは根本的な問いに突き当たる。すなわち、「疎外」の対義語は本当に「疎外の克服」なのだろうか、という問いに(あるいはこうも問えるだろう。「加速」の対義語は本当に「減速」や「脱成長」なのだろうか、と)。
私たちは、マルクスが最初期に提起した「疎外」の概念にふたたび立ち戻らなければならない。そこで、マルクスは一体何を言おうとしていたのか。以下に引くのは、『経済学・哲学草稿』に書きつけられた、マルクスによる「疎外」の簡潔な定義である。
「疎外は、わたしの生活手段が他人のもとにあり、わたしの望むものが、わたしの手のとどかぬ他人の所有物となっているところに示されているだけでなく、あらゆる物が本来あるべき場所になく、わたしの活動が他人の活動となり、最後に--これは資本家にも当てはまることだが--総じて非人間的な力が支配力を揮うところに示されている。」10
ここではヘーゲル主義的な残滓、言い換えれば「疎外」を抽象的な自己意識の外化作用として捉える、といった認識は端的に退けられている。むしろマルクスがここで言わんとしていることは、きわめて単純かつありふれた事柄だ。つまり、私の生活手段や私が望むものを、私ではなく他人が所有している状態を端的に「疎外」とマルクスは呼んでいるのである。
面白いのは、マルクスが疎外を指して「あらゆる物が本来ある場所にない」と言っていることだ。マルクスは人間主体ではなく、さまざまな諸物が取る関係的布置の視点から疎外状態を捉える。ここにヘーゲル的な抽象的な自己意識が入り込む隙間はない。マルクスにとって疎外とは、言ってしまえば「物がどこにあるか」を問う姿勢と切り離せない。それはより具体的に言えば、所有(権)の問題、本来であれば私の手元にあったはずの生活手段や物が、私の手の届かぬ他人(たとえば資本家)の所有物になっているという問題に帰着する。
これまで、「疎外」の反対語は「疎外の克服」であり、マルクス主義の文脈でいえばそれは「共産主義」を指していた。そして、それはしばしばレーニン主義的な中央集権による全的統制と管理に結びつけられてきた。
だが、「疎外」を「物が本来あるべき場所にない」状態として捉え、それが結果として「非人間的な力」への従属を招来することで私たちの自律性が毀損される、と考えてみるのはどうだろうか。要するに、「疎外」の反対語は「疎外の克服」ではなく「自律(Autonomy)」ではないか。
「自律」、と言ったときに、当然フォイエルバッハ的な「人間の本質」の回復も、ルソー的な「自然状態」への回帰も、さらにはレーニン主義的な中央集権への志向も想定されていない。言うまでもなく、人間の成熟をナイーブに寿ぐ「自立」とも無関係である。「自律」、それはさしあたり「既成の権力(=非人間的な力)からの自由」以上のことを、さらには「物を本来あるべき場所に配置し直す」以上のことを志向しない。
10 前掲書、『経済学・哲学草稿』、二二四〜二二五頁。
草薙素子は自分の身体を政府に所有されている
わたしの生活手段が他人のもとにあり、わたしの望むものが、わたしの手のとどかぬ他人の所有物となっているところに示されているだけでなく、あらゆる物が本来あるべき場所にない--こうした状態をマルクスは端的に「疎外」と呼んだのだが、こうした事態は何も賃労働にだけ当てはまるものではない。「自律」を毀損して私たちを他律状態に置く「疎外」のあり方は、それこそありふれているがゆえに、むしろ目につきにくい。
具体例として、やや唐突だが、ここで押井守による劇場用アニメーション『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(一九九五)を採り上げることにしたい。
本作の主人公、草薙素子は自己同一性をめぐる不安を抱えた人物として描かれている。素子は全身義体、つまり生身の身体を人工的に作られた別の身体へと置き換えているサイボーグである。脳は人間のままだが、それも電脳化されているので完全な生身の脳とは言えない。
素子の実存的不安の原因は、自身の身体がサイボーグだからだろうか。そう捉えてしまうと物事の本質を見誤る。たとえば、素子は船上でのバトーとの会話のなかで、こんなことを言う。「代謝の制御、知覚の鋭敏化、運動能力や反射の飛躍的な向上、情報処理の高速化と拡大。電脳と義体によって、より高度な能力の獲得を追求したあげく、最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃないわ」。
この言葉に対し、バトーが「俺達は九課に魂まで売っちまったわけじゃないんだぜ」と応えると、素子は次のように返す。「たしかに退職する権利は認められているわ。この義体と記憶の一部を謹んで政府にお返しすればね」。
端的に言えば、素子の実存不安、その核心がこの箇所に集約されている。素子は電脳と義体の獲得の代償として、「最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったこと」「退職するには義体と記憶の一部を政府に返却しなければならない」といった制約を抱え込むことになった。すなわち、彼女は自分の身体を、それが自分の身体であるにもかかわらず「所有」することができない。なぜならそれは政府の所有物だからである。言い換えれば、彼女は自身の身体から「疎外」されている。
素子の身体=義体は、政府御用達の義体メーカーであるメガテク・ボディ社という企業の製造ラインで作られ、その後も権利上は政府の所有物となっている。身体のメンテナンスすらも自力で行うことができず、エンジニアに依存しなければならない。彼女は自己の身体(さらには記憶の一部さえ)を自分のものだと思うことができず、事実、それらは自分のものではない。マルクス風に言えば、私の生活手段である身体が、他人(ここでは政府)の所有物になっている。
身体のサイボーグ化それ自体は疎外とさしあたり関係ない。問題は身体がどこに帰属しているか、言い換えれば、物がどこに配置されているか、である。つまり、「本来あるべき人間の本質」や「自然の身体」といったフォイエルバッハ的な「疎外の克服」ではなく、ここでは「自律」が問題になっていると捉えるべきなのだ。事実、映画のクライマックスにおいて、素子は「人間の自然的身体」に回帰するのではなく(そもそもそんなことは不可能だが)、「義体の所有権」を自身に取り戻すことで彼女はある種の「自律」を、すなわち自己同一性を再構築しようと試みる。
VTuberも自分の身体を企業に所有されている
こうした自己疎外の問題は、しかし義体化が一般化した近未来SFの話に限らない。たとえば、YouTubeやTwitchなどの動画配信プラットフォーム上で活動を行うVTuberのような存在。彼ら/彼女たち演者(いわゆる“中の人”)は、一般に2Dや3Dのキャラクターアバター(いわゆる“ガワ”)を用いているが、アバターのようなIP(知的財産)は多くの場合、彼ら/彼女たちが所属している企業が所有している。そのため、VTuberが所属企業から離れる(いわゆる“卒業”)場合、アバターを企業に返却しなければならない。そのため、(別の企業に移籍するにせよフリーで活動するにせよ)VTuberとして活動を継続/再開するためには、別のアバターを新たに用意する必要が出てくる(いわゆる“転生”)。
もちろん、近年では演者が企業からIPを買い取ることでアバターを維持したまま個人勢VTuberになるパターン(たとえば周防パトラ)や、企業移籍の際にIPが演者に譲渡される事例も出てきている。とはいえ、近年でもとある男性VTuberグループのサポートが縮小され、スタジオやグッズの提供が止まる一方で、なおIPは企業側が所有したまま、所属タレントは半ば個人勢VTuberとして活動することを強いられるケースや、さらにはアバターのキャラクターデザイナーが未成年淫行などの不祥事を起こした結果、アバターの継続使用が困難になるといった特殊なケースも出現してきており、演者と彼ら/彼女らの身体であるところのアバターとの分裂(=疎外)が完全に克服されることは難しいだろう。
素子もVTuberも共に、己の身体を政府や企業に所有されており、最終的に「退職」する際には、その身体を返却しなければならない。ここにあるのも結局、「わたしの生活手段が他人のもとにあり、わたしの望むものが、わたしの手のとどかぬ他人の所有物になっている」状態、すなわち「疎外」と「自律」の問題である。
AirPodsは自分で修理ができない
義体化もVTuberもなお自分には縁遠いと思う向きには、さらに卑近な例としてAirPodsなどを挙げることもできる。アップルのAirPodsは、プラスチックの外殻を接着剤で固定しているため、内部コンポーネントにアクセスしようとすると不可避的に壊れてしまう。つまり、自分で修理することが実質不可能なのだ。しかし、考えてみると不思議な話ではないか。消費者として購入した商品であるにもかかわらず、自分の手で修理することすらできないなんて、それは本当に自分の所有物だと言えるのだろうか。
近年、米国やヨーロッパで「修理する権利」運動が巻き起こっている。中心にある要求はシンプルだ。すなわち、製品を買った以上、所有者はそれを使うだけでなく、開ける、部品を交換する、診断する、修理する、改造する自由を持つべきだ、という要求である。しかし現代の製品、とくにスマートフォン、ノートPC、自動車、家電、医療機器などは、ソフトウェア、専用工具、診断プログラム、シリアル認証、部品のペアリングによって、事実上メーカー管理の修理体制に閉じ込められていることが多い。
かくして、所有は実質的にメーカーの管理下に置かれる。素子は自身の身体のメンテナンスを他者に依存していた。同様に、私たちも自身の所有物の修理やメンテナンスを他者(企業やメーカー)に依存している。というより、依存するように製品自体があらかじめデザインされている。買ったものを自分のものとして扱う自由を取り戻そうとする「修理する権利」運動が、私たちの主題である「自律」と無関係でないことは明らかだ。
私たちの活動が「非人間的な力」となり、私たちを支配する
冒頭でも触れたように、「自律(Autonomy)」という問題系は「人間の自動化(Automation)」とでも呼びうる時代において、さらに重要度を増していくだろう。先に引用した、マルクスによる「疎外」の定義の中で、「(疎外は)総じて非人間的な力が支配力を揮うところに示されている」と書かれていたことを今一度思い返してみよう。もともとは私たちの活動であったはずのものが、ひるがえって私たちがコントロールできない「非人間的な力」となって私たちを逆に支配する。
先取りして言えば、現代における「非人間的な力」とはアルゴリズムに他ならないと考える。アルゴリズム的リアリズムのヘゲモニーが、私たちから「自律」を奪い取り、私たちを受動的な自動人形にしつつある。次回はそのことについて述べる。
参考文献
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫、二〇一〇。
マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー新編輯版』廣松渉訳、小林昌人補訳、岩波文庫、二〇〇二。
マルクス『資本論(三)』向坂逸郎訳、岩波文庫、一九六九。
田上孝一『疎外論入門』集英社新書、二〇二六。
アーロン・パーザナウスキー『修理する権利:使いつづける自由へ』西村伸泰訳、青土社、二〇二五。
古月「VTuberの核は活動者か、それともIPか 今見つめ直す、バーチャルな存在の“主体性”」『Real Sound テック』2024年8月30日,https://realsound.jp/tech/2024/08/post-1764172.html
