23年に広島に加入した山。プロ4年目の今季は長崎との開幕戦で先発の座を掴んだ。写真:滝川敏之

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 今季、バルトシュ・ガウル監督が就任したサンフレッチェ広島で開幕スタメンを勝ち取り、チーム内で存在感を高めつつあるのが、プロ4年目の山粼大地だ。

 広島アカデミー出身で、順天堂大を経て23年に広島に帰還したが、昨季までの3年間のリーグ戦通算出場数は18試合。2年目は大怪我でシーズンを棒に振ったが、なかなか出場機会を得られなかった。悔しさを乗り越え、輝きを放ちつつある25歳DFの胸の内に迫った。

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 2022年10月22日、舞台は聖地・国立競技場(現MUFGスタジアム)。ミヒャエル・スキッベ体制1年目の広島は、ルヴァンカップ決勝でセレッソ大阪を2−1で破り、大会初制覇を成し遂げた。

 10年と14年に二度、広島は決勝に進んだが、いずれも準優勝。C大阪との一戦も試合終了間際まで1点のビハインドだった。しかし、後半アディショナルタイムにピエロス・ソティリウ(現APOELニコシア)が2ゴール。劇的な大逆転劇に、スタジアムが揺れた。

「次は自分がピッチに立って、タイトルを獲りたい」

 翌年からの広島加入内定を勝ち取り、特別指定選手に認定されていた山粼は、大卒ルーキーで主力を張っていた満田誠(現・神戸)らのプレーにも刺激を受けながら、「プロ1年目からガツガツやっていきたい」と想いを強くした。
 
 広島県廿日市市出身の山粼がサッカーを始めたのは、小学2年の頃。空手を習っていたなか、幼馴染が始めた野球にも興味を持ったが、1歳上の兄の「サッカーがしたい」という言葉に感化され、サッカーを選んだ。

「当時はあまり考えず、夢中になってやっていましたね」

 ボールを蹴る楽しさを知り、サッカーの魅力にのめり込んでいった。広島ビッグアーチ(現ホットスタッフフィールド広島)にも度々通い、華麗なテクニックとパスで魅了する郄萩洋次郎らのプレーに目を輝かせた。

「プロになりたい。よりレベルの高い環境でサッカーがしたい」

 山粼にとって広島というクラブが、憧れになった。そして小学6年の時、広島ジュニアユースのセレクションを受け、見事合格。初めて紫のシャツに袖を通した。元々攻撃的なポジションだったこともあり、中学2年までFW、その後はシャドーやアンカー、SBなども経験し、プレーの幅を広げていった。
 
 中学3年次の15年には年代別代表に初招集され、翌年には広島ユースにステップアップ。そこでポジションをCBに変えたが、順調な成長曲線を描いていた。ところが、高校1年の時に大きな落とし穴が待っていた。左膝の前十字靭帯を痛め、長期離脱。リハビリは約1年に及んだ。

「何よりもサッカーができないことがきつかったです」

 当時をそう振り返る山粼だが、一方で有意義な時間にもなったという。

「今振り返れば、その1年がなかったらユースの3年間が充実した日々にならなかったと思います。怪我をして、自分自身と向き合えた。技術面の成長はできなかったけれど、メンタル面などいろんな部分で成長できた。その1年は決して無駄じゃなかったです」

 地道なリハビリを経て復帰した山粼は、トレーニングに打ち込み、自分の武器である空中戦や対人守備の強さ、ビルドアップ能力に磨きをかけた。17年にはU-17ワールドカップを経験し、18年には広島のトップチームに2種登録された。ユースの沢田謙太郎監督(現・広島育成部長兼ユース監督)をはじめとしたスタッフ陣と、実際に昇格するかどうかの相談もしたという。憧れのクラブでプロになるチャンスだったが、選択したのは順天堂大への進学だった。

「僕のトップチーム昇格と荒木隼人選手の加入のタイミングが同じで、ポジションが被るのもあったけれど、それ以上にトップチームの練習に参加させてもらって、あまりやれている実感がなかった。自分の活躍する姿が想像できないまま昇格して、試合に出られない日々が続くのも嫌だった。それだったら大学で経験を積んで、もっと大きくなって、サンフレに戻ってきたい。そう思って大学を選びました」