計画の後押しになったのは第一子の「早すぎる死」…ドイツを作った男「オットー大帝」を襲った終わりの見えない「身内の不幸」

写真拡大 (全2枚)

ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第76回

『「実の母の死」が計画の追い風に…ギリシア正教への対抗策としてオットー大帝が熱望した「マクデブルク計画」の達成』より続く。

息子ヴィルヘルムの死

しかしそれにしてもそのきっかけの一つが息子ヴィルヘルムの死であるとは、なんとも皮肉な話である。

ヴィルヘルムはオットーが最初の妃エドギタと結婚する直前、捕虜となったスラブの君侯の娘に産ませた庶子である。彼の母はスラブのヘヴェル族の君侯トゥグミールの姉もしくは妹と推定されている。

享年38歳もしくは39歳。早すぎる死である。彼は庶子に生まれた運命を甘んじて受け入れた。父に弓を引いたことのある異母弟リウドルフが異郷の地イタリアで亡くなった後、その亡骸を自身が大司教を務めるマインツの市壁外にある聖アルバン修道院に埋葬する仲介の労をとったのも彼である。父がイタリア遠征で長期にわたって留守をしたとき、オットーの息子のオットー2世の摂政として東フランクをよく統治したのも彼である。

ヴィルヘルムはオットーの母、つまり自分の祖母マティルデが重病であると聞き心痛めたが、なんとその祖母より12日早くこの世を去ってしまった。

これでオットーは第1子ヴィルヘルム、第2子リウドルフ、第3子ハインリヒ、第4子ブルーノと4人の男子を失ったことになる。

度重なる身内の不幸

ロートリンゲン大公赤毛のコンラートに嫁いだ長女リウトガルトは早くも、953年にはこの世を去っている。そしてヴィルヘルムの死のわずか12日後に母マティルデが亡くなっている。

弟ハインリヒと末弟ブルーノも先立っている。翌年のことになるがやはりオットーのイタリア遠征中の969年5月5日、前西フランク王ルイ4世海外王と再婚し、現西フランク王ロテールの母后におさまっていた妹ゲルベルガもこの世を去っている。ユーグ大公に嫁いだもう一人の妹ハトヴィヒはすでに958年に亡くなっている。西フランク王ロテールの後見になっていた弟ブルーノの死と2人の妹の死により、オットーが築いた西フランクとのネットワークがかなり疎となっていく。

要するにオットーの兄弟、子供たちで生き残っているのは息子のオットー2世と次女でクヴェドリーンブルク女子修道院長のマティルデだけである。

オットーは56歳にしてすでに、7人の子供のうち5人、さらには、2人の妹と2人の弟に先立たれたのだ。それにたった一人の異母兄タンクマールも、938年にオットーに反乱を起こし非業の最期を遂げている。

こうまで続く身内の不幸! オットーの心中いかばかりか? 推察するしかない。

こちらの記事もおすすめ<『ハプスブルク家の華麗なる受難』が描く「ヨーロッパの中心で輝き続けた一族」の物語』>へ続く。

<もっと読む>『ハプスブルク家の華麗なる受難』が描く「ヨーロッパの中心で輝き続けた一族」の物語