尾形光琳「徳川秀忠像」(写真=宮内庁書陵部蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

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 権威を残して利用する……江戸初期の幕府は朝廷にこうした合理的割り切りを突きつけた。「禁中並公家中諸法度」や「元号」決定の主導権、天皇をその“影”に追いやった仕組みとは(以下、倉山満著『噓だらけの日本近世史』より一部抜粋)
◆天皇は徳川秀忠に私信で敬語を使っていた

 基本的に禁中並公家中諸法度は、それまでの慣習法の成文化です。たとえば第二条では、「天皇、三公(現職摂関、大臣)、親王、前官三公、諸親王(世襲親王家の三世以下)、前官清華家大臣」の序列とされます。摂政(関白)、太政大臣、左大臣、右大臣は、皇族よりも宮中序列が上なのです。いわば「准皇族」とも言うべき存在です。准皇族とは、実質は皇族と同じような存在ですが、皇族の形式は与えられません。皇族の形式が無いので、もちろん皇位継承権はありません。

 ちなみに後水尾天皇は私信で秀忠に「秀忠公」などと敬語を使っています。天皇も敬語を使うような貴人は、実質的に准皇族なのです。形式的には、「准三后」という称号がありました。皇后・皇太后・太皇太后に准じるから、准三后(准后とも准三宮とも)です。

 そもそも天皇の代行者である摂政など、古代では皇族しかなれませんでした。しかし平安以降に運用が変化し、人臣摂政が常例となりました。人臣最初の摂政とされる藤原良房は、准皇族のような存在です(『嘘だらけの日本中世史』十八頁)。五摂家の「皇族にはなれないけど、他の公家とは違う」との意識は、歴史に根拠があるのです。

◆禁中並公家中諸法度は朝廷を徳川の支配下に置く目的の定め

 と言う風に、禁中並公家中諸法度の中身は、皇室の伝統を踏まえています。しかし禁中並公家中諸法度は、朝廷を徳川の支配下に置く目的の定めです。いかに立派な美辞麗句も、本音が邪悪だと悪用しかされません。そして尤もらしい言葉を並べても、内容は皇室をコケにする条文のオンパレード。

 めぼしい条文を拾い出すと……。第八条は、「改元は漢朝の元号から吉例を選ぶこと。ただし、儀礼に習熟したら、日本の先例に習って良い」です。また、第十六条は、「(高貴の証である)紫の衣を天皇が乱発しているが、よく考えて与えるべきである」です。

 一事が万事、この調子です。こんなのは「ロボット説」の序の口。押し付けられた後水尾天皇も、今は従うしかありません。

◆元和偃武(げんなえんぶ)は徳川の元号

 一六一五(慶長二十)年七月、改元が行われ、「元和」とされます。元和は唐の元号です。幕府が押し付けた元号で、知識層からは不評でした(久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院、一九九八年、五九〜六五頁)。戦国の終わりを「元和偃武」と言いますが、まさに「徳川の元号」です。

 そう言えば最近も、ことごとく皇室の先例を無視し、「国民の元号だ」と大威張りだった総理大臣がいました。改元寸前の平成三十一(二〇一九)年に『週刊SPA!』で毎週のように批判していた人がいたような気がしますけど、どうしても名前が思い出せん……。く、く、く、くら……。

◆江戸幕府にとって「潰すと面倒臭いから残す」朝廷

 それはそうと、一六一六年二月、家康が病気になります。朝廷は家康に見舞いの意味で、太政大臣の位を送ります。しかし、四月に死去。家康の弔いは念入りに行われたのですが、その中で大事な儀式が神号宣下。秀吉が「大明神」だったので、それより格上にと「大権現」とされました。江戸幕府にとって、朝廷は利用価値があるのです。

 まさに「潰すと面倒臭いから残すので、利用するところだけは利用する」です。

 一六一七年、天皇と仲の悪かった父、後陽成上皇が崩御。即位の際に嫌がらせをされて以来、険悪な関係だったのですが、天皇は父に「後陽成院」と追号します。『後陽成天皇実録』第二巻には、「殿下より勧進せらるるを定めて」とのみ記されます。殿下とは後水尾天皇のこと。