「間違いなく自閉症です」息子の違和感から目を背けた母に告げられた現実。25年探し続けた「この子にとっての幸せ」
30代から教育現場で働いてきた立石美津子さんは、38歳で母となったときも、子育てに明確な理想を抱いていました。しかし、子どもが発達障害であることがわかったことで、その理想は揺らぎ、諦めへと変化。その後の葛藤の日々が、立石さんにこれまでとは異なる生き方を与えてくれました。
【写真】「こだわりが強かった」という自閉症の息子・光汰朗さんの幼少期からこれまで(全17枚)
「考えすぎであってほしい」違和感から目を背け
── 立石さんは、38歳のときに第1子を出産しました。大学時代には幼児教育を学び、卒業後、保育園や幼稚園の課外教室を展開する仕事に関わってきた立石さんですが、当時、どのような子育てを思い描いていましたか?
立石さん:優秀な子に育って、有名大学を目指してほしいという理想を強く持っていました。私自身、幼少期から母に厳しく育てられて、「テストは100点以外認めない」という環境だったため、無意識のうちに自分の子にも「高い学力」を求めていたのかもしれません。息子の光汰朗には、赤ちゃんのころから絵本をたくさん読み聞かせたり、クラシック音楽を聞かせるなど、たくさんの刺激を与え、よりよい教育環境を整えようと意識していました。
── 光汰朗さんの発達について、最初に違和感を覚えたのはいつごろだったのでしょうか。
立石さん:光汰朗が1歳になるころ、「ほかの子と何か違うな」と感じ始めました。手を振って「バイバイ」をすることが少ないし、誰かが笑いかけてくれてもほぼ無反応。顔を近づけてみても、目が合いにくく、誰もいないような反応をするんです。
2歳になって保育園にいれたら、ますます違和感を感じて。同じクラスの子たちはおしゃべりができているのに、光汰朗は言葉がまったく出ず、集団行動もできない…。「手を叩きましょう」と先生がうながしても、息子だけ何もしないで座っている状態でした。
ただ、その違和感をすぐに受け止められたかというと、そうではありませんでした。ときどき目が合うときもあったし、笑うこともあったので「考えすぎかもしれない」と。しかしあるとき、アレルギーの治療で大きな病院を受診した際、「2歳になったが言葉が出ない」と何気なく相談したら、精神科への受診を勧められました。そこで息子の様子を見た先生が、「間違いなく自閉スペクトラム症(自閉症)でしょう」と告げたのです。
── 診断を受けたとき、どんなお気持ちでしたか。
立石さん:とてもショックでした。「そんなはずはない」と診断を受け止められず、ひどく落ち込む期間が続きました。さらに、3歳のときの知能検査では「IQ37」の結果で、知的にも遅れがあることがわかり、心がますます引きこもり状態に。これまで関わってきた保育園のお母さんたちとも、「話したくない」と避けるようになっていきました。
── 気持ちを前向きに切り替えられたのはいつごろでしたか?
立石さん:前を向けるようになったのは、光汰朗が7歳になったころでした。障害のある子に対しての支援と教育を行う、特別支援学校に入学したことがきっかけだったと感じています。
保育園では、定型発達の子に囲まれていましたが、特別支援学校では、先生も保護者もみんな「障害がある」ことを前提に話をしてくれる。そうしたら、すごく気持ちが楽になって…。これまでは「ほかの子ができることが、なぜできないのだろう」と考えてきましたが、環境が変わったことで「障害があるのだから、できないものは仕方ない」と前向きに諦められるようになり、光汰朗の障害についても向き合えるようになっていきました。
こだわりが叶わないと大パニックに…
── 光汰朗さんの障害に向き合えるようになるまで、さまざまな困難があったとのことですが、子育てで特につらかった時期はいつでしたか。
立石さん:幼児期から小学校3年生くらいまでがいちばん大変でした。光汰朗はこだわりがとても強くて、「この道しか通れない」「この服しか着られない」「この電車しか乗れない」などの決まりが数多くあり、自分の希望が通らないと、大きなパニックを起こしてしまいます。ほかにも、朝7時の時報とともに「朝食のひと口目」が始まらないと、途端に癇癪を起こしてしまうため、必死にこだわりに寄り添う日々でした。
でも、小学校4年生になったころから、こだわりが緩み始めてきたんです。成長とともに、「できないこともある」ことを学び、理解できるようになったのかもしれません。もちろん、こだわりがまったくなくなったわけではなく、細かいこだわりは今でもたくさんありますが、以前ほどの大パニックは起こらなくなっていきました。
── つらい時期を、立石さんはどのように乗り越えたのでしょうか。
立石さん:正直に言うと、「うまく乗り越えた」という感覚はありません。ただ、途中で「完璧を目指すのをやめよう」と思えるようになったことが、今に続いているんだと思っています。
特性によるこだわりは、「我慢してね」と言って納得できるものではありません。その子の「絶対」なのです。だから私は、こだわりを正すのではなく、こだわりに寄り添うことにしたのです。「これしか食べられない」という食事面へのこだわりがあれば、「それでいいよ」と用意するし、「この靴しか履けない」と服装にこだわるなら、サイズアウトしても同じものが履けるように、事前に買いそろえておく。
そうして、こだわりに寄り添う生活を意識し始めたら、光汰朗が癇癪を起こす頻度が格段に減り、私も穏やかに生活できるようになっていきました。
「こうあるべき」を手放して見えてきた幸せの形
── 現在、光汰朗さんとの日常で、意識していることはありますか?
立石さん:今、光汰朗は25歳になり、会社勤めをしています。今の生活で意識していることは、「息子の世界を否定しない」こと。光汰朗は時折、「このマンションでいちばんゴミが多い部屋はどこ?」とか「次の宅配便は、前と同じ人が配達してくれる?」などの、答えられない質問を投げかけてくることがあります。そんなときは、「わかるはずないでしょ」などと拒絶せずに「どうなんだろうね」と一緒に悩んであげるようにしています。
食事に関しても、光汰朗は毎日、同じメニューを好みます。「飽きてしまうのでは」と思って、ほかのものを出すとかえって心が乱れてしまうようです。たとえ、よかれと思ってやったことでも、必ずしも相手にとって心地よいとは限らないということに気づくことができました。このような経験から、「幸せの形は人それぞれなのだから、押し付けてはいけないな」と感じることができています。
── 子育てを通して、ご自身が変わったと感じる点を教えてください。
立石さん:以前の私は、「こうあるべき」という考えをとても強く持っていました。でも今は、「その人なりの幸せってなんだろう」という視点で考えられるようになったと感じています。
「息子に障害がある」とわかったことは、想定外の出来事でした。その後も思い描いていた通りに進まないことのほうが多く、たくさんの葛藤がありました。でも、想定外だったからこそ気づけたこともあったのはたしかなことです。世間の基準にとらわれず、「この子にとっての幸せ」に集中できるようになりました。そのことが、私の生き方にも豊かな広がりを与えてくれたように感じています。
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子育てを通して立石さんがたどり着いたのは、「正しく育てる」よりも「その子の世界を否定しない」という姿勢でした。その経験から得た学びと気づきを、講演活動や執筆活動で発信する立石さんは、「どうすれば正しく育つか」ではなく、「否定しない子育てを大切にしてほしい」と呼びかけています。
取材・文:佐藤有香 写真:立石美津子

