『ミッキー17』©2025 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

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 残酷な債権者に追われるミッキー・バーンズは地球脱出を図り、「エクスペンダブル」(使い捨て人間)として惑星移住船に乗りこむ。実験対象となって、何度も死んでは生き返るのが彼の仕事だ。移住船のリーダーは、宗教右派と結託している政治家ケネス・マーシャル。何度も死ぬうちに17号となったミッキーだが、ある日手違いから、まだ死んでいないのに18号が複製されてしまう。「マルティプル」(重複存在)は重罪で、見つかればふたりとも死刑だ。はたしてミッキーの運命は--?

参考:ポン・ジュノによるマルチバース的全能感の批判的検証 『ミッキー17』で“取り戻す”第一歩

 『ミッキー17』はポン・ジュノ監督作品中、おそらく最も軽やかな気持ちで観ることができる映画だろう。とはいえもちろん今回も、彼のほぼ全作を貫く、深刻な階級格差の問題は取り上げられている。ひたすら底辺仕事を押しつけられ、人間扱いもされない主人公ミッキーには同情せずにいられないし、自分自身の生活のさまざまな面を彼に投影する観客も多いだろう。また、ポン・ジュノのブラックユーモアは今回も健在だ。ガタンガタンと行きつ戻りつ、複製機から排出されるミッキーの動きには妙な滑稽さとリアリティがあり、すぱっと切断された彼の手首は、科学者たちの笑い声に乗って宇宙空間を飛んでいく。

 そんなことをどうして笑い事にできるのかと怒られそうなのに、『ミッキー17』は--ポン・ジュノ作品の例にもれず、複数のジャンルを横断する作品ではあるものの、基本的には--やはりコメディである。残酷な非人間的状況を描いていながらも、そこにはこだわるまいとするかのように、映画は深刻さを回避して突きすすむ。わたしたちは、気弱で心優しいミッキーが苦境から救われることを望み、個性的なキャラクターたちのやり取りに笑わされ、結末に留飲を下げるだろう。ミッキーを支えつづけるナーシャの強さも印象的で(※1)、ポン・ジュノには珍しい正統派のラブストーリーだとも言える。

 原作はエドワード・アシュトンの『ミッキー7』(日本語訳はハヤカワ文庫から刊行)。映画化にあたり、ミッキーの複製回数は10回も増えたわけだが、それ以外にも彼の設定は変更されている。原作のミッキーが賭博によって負債を負うのに対し、映画版の彼はマカロン専門店の経営に失敗して借金を抱える。これは『パラサイト 半地下の家族』(2019年)の台湾カステラを明らかに引き継ぐものだろう。さらに原作のミッキーは、かなり知的な歴史愛好者であり、しばしば哲学的な思索をめぐらすのだが、ポン・ジュノは映画化にあたり、彼を原作版よりも「もっと労働者階級的で、ちょっと間抜けで、もう少しかわいらしくて、もっと不運で、いい人すぎるくらいいい人」にした。それは彼を「われわれの日常にとってもっと身近な」存在にしたかったからだという(※2)。

 実際、この映画のミッキー17はそのとおりのキャラクターだ。体重を減らしたせいもあるのだろう、いつにもましてかわいらしく、かつ頼りなく見えるロバート・パティンソンが、彼を非常に魅力的に演じている。だがその一方、この変更によって、この映画が持ちえたかもしれない可能性がふたつ失われることとなった。ひとつは「複製される『わたし』はどこまで『わたし』なのか、『わたし』の同一性を保証するものは何か」という、哲学的問いの提起と展開。もうひとつは、ミッキーの苦難と冒険に観客が心情的に巻きこまれ、スリルを感じながら彼の運命に並走する、サスペンス映画、スリラー映画としての魅力だ。

 ふたつめの点には少し説明が必要だろう。わたしたちは『ミッキー17』を、ミッキーの苦しみや痛みをわがことのように体験し、ミッキーがピンチに陥ると自分もハラハラするというのではなく、「風変わりな面白いお話を、安全なところから見物する」ような姿勢で楽しんでしまうのだ(※3)。わたしたちの日常に近づけるための脚色が、皮肉にも、わたしたちを没入から遠ざけてしまっているわけだが、なぜそんなことが起こるのか。原因は、ざっと見たところ大きくふたつある。

 まず、悪役が過度に戯画化されている点。『オクジャ』(2017年)の資本家など、これまでもポン・ジュノ映画の悪役は戯画化されていることがあったけれど、マーシャル夫妻の戯画化は、もはや極限近くまで押しすすめられている。マーク・ラファロとトニ・コレットが楽しそうにのびのび演じているのはいいのだが、あまりに滑稽さが過ぎるせいで、「どうせたいして怖い展開にはならないだろう」と思わせてしまうのは、スリルを高めるという意味ではマイナスだ(※4)。

 第二の、そしてもっと大きいかもしれない原因は、ミッキー17に現状を変える意思がないことだ。階級差を列車の車両に置き換えた『スノーピアサー』(2013年)は、列車内の最初のシーンからすでに反乱の予兆がみなぎっていた。『オクジャ』でも、あるいは階級的下剋上の物語ではないが『グエムル -漢江の怪物-』(2006年)でも、主人公たちは開巻間もなく強大な敵と戦わざるをえない状況におちいる。『パラサイト』で半地下に住む家族も、上流階級を利用し、裏をかくというかたちで階級制度にあらがう。観客は、これらの登場人物たちが戦うのを当然のこととして受け止め、抵抗する彼らの視点で映画を体験していく。

 ところがミッキー17は、すべてをあきらめ、「これは決まっていることだから」というかのように、現状を疑うことなく受け入れている。エクスペンダブルになることは自分で選んだことなのだし、悪友にそそのかされて借金を負ったのも自分の責任だから、不満は言えないと彼は思っている。何よりも彼は、自分の過酷な状況を、母を死に追いやったことへの罰だと思いこんでいる。過去のポン・ジュノ作品に登場していた、反逆者たちの姿から彼はあまりに遠い。

 だが、ここでわたしたちは思い出さねばならない--過去のポン・ジュノ作品では、プロット中盤、または終盤の大きなツイストとして、「底辺だと思っていた場所は、まだ底辺ではなかった」という事実が暴露される瞬間があったことを。『スノーピアサー』のクライマックス、床板をめくったヨナとカーティスは、最下層に押しこめられている人物をそこに発見する。さらに、ふたりが彼を救い出そうとすると、「そうすることが決まりだから」とでもいうかのように、別の人物が代わりにそこに入っていってしまう。『パラサイト』では、半地下よりもさらに下、誰も存在を知らなかった地下室が突如出現する。そこに住む人物は、地上に戻る機会も手段も、もはや見失ってしまっている。

 ここから言えることは、ポン・ジュノ的世界において、ほんとうの底辺に位置する人間、ほんとうに世界のすべてから蹂躙されてしまった人間は、這い上がる力も抵抗の意思も奪われてしまうということだ。そしてこれは悲しいことに、現実世界においてもかなりの部分真実である。

 これを踏まえて『ミッキー17』に立ち戻ると、ミッキー18がいかに偉大な存在であったかが、いっそうはっきりとわかってくる。17号とはあまりに性格が違いすぎる彼は、まったくもってプリントミスの産物としか思えないのだが、この異端児が生まれなければ、すべては変わらないままだったのであり、惑星ニフルヘイムは、あの滑稽極まりないケネス・マーシャルの独裁帝国になってしまっていただろう。

 われわれの日常に近い存在としてミッキーを設定した、とポン・ジュノが言うとき、そこに暗示されているのは、反乱の指導者や革命家、英雄的人物は、わたしたちから遠い存在であるということだ。しかし、ミッキー17とミッキー18を外見的に区別する指標は、ミッキー18の口元に覗く八重歯だけだ。この物語は「無力な人間が、意図せずしてヒーローになってしまう話」だとポン・ジュノは言う。八重歯のようなほんのささいなプリントミスさえあれば、世界は変わるのかもしれないというところだろうか。

注※1. 筆者にポン・ジュノ自身が語った言葉を引くと、「そもそもわたしの映画に登場する男たちというのが、頼りないというか、無能なキャラクターが多い(笑)。いっぽうで女性たちは現実的でしっかりしています」。https://www.gqjapan.jp/culture/article/20190108-parasite※2. https://pocculture.com/interview-mickey-17-director-bong-joon-ho/※3. このことを再度『ミッキー17』という映画に折り返して重ねてみると、事態はさらに厄介になる。極言してしまえばこの姿勢は、クリーパーの群れのなかにミッキー17と18を放り出し、ふたりがどうするのかをのんびりと船内から見ている、マーシャル夫妻の姿勢とさほど変わりがないのだ。※4. ちなみに、ポン・ジュノ自身はケネス・マーシャルのキャラクターを「歴史上のさまざまな独裁者を組み合わせて作ったのであって、現在活動中の政治家モデルにしたわけではない」と、ベルリン国際映画祭の記者会見で語っているが(https://www.screendaily.com/news/bong-joon-ho-robert-pattinson-reveal-how-bad-politicians-and-steve-buscemi-inspired-mickey-17/5202051.article)、いまとなっては、現職の米国大統領を連想せずにいるのは難しい。すると、有色人種の女性が新たなリーダーになるというこの映画の結末もまた、製作時にはまったく意図していなかったことだろうけれど、まるで「いまごろこうなっていたかもしれない米国」を描いているようにも見えてくる。

(文=篠儀直子)