チコちゃんの「なんで?」は最悪の愚問である…「5歳児の罵倒芸」に文化人類学者が本気で怒りを抱いたワケ
■チコちゃんの「なんで?」は最悪の悪問である
2022年10月2日、筆者はTwitterにひとつの投稿を行った。
チコちゃんの「なんで?」という問い。いつ聞いても、あれは「最悪の悪問」だと思います。
- KAMEI Nobutaka (@jinrui_nikki) October 2, 2022
「なぜ」という理由・原因を究明する問いは、「どのレベルの説明に帰着させるか」を想定しておかなければ答えようがないからです。逆に言えば、説明レベルの設定のしかたによって、何通りもの答えがありえます
(実際のツイートは、この後にもう二つ続く)
NHKの番組「チコちゃんに叱られる!」に見られる問題のひとつを指摘した投稿であったが、非常に多くの反響を得る結果となった。その反響を見た本サイトの編集者からの依頼を受け、この短文に込めた問題提起をやや詳しく解説する本記事を執筆する運びとなった。
番組の中でしきりに発せられる「なんで?」の問いが、いかに暴力的であるのか。本記事では、その解題を行う。
■問いかけに潜んだ問題点
「チコちゃんに叱られる!」は、2018年4月に放送が開始された、NHK総合テレビのクイズ形式の教養バラエティ番組である。5歳の少女チコちゃんが、日常のありふれた事象を取り上げ、大人たちに対しクイズを出題する。
当たり前すぎて改めて考えたこともない日常のことがらについて、大人たちがその背景などを理解しておらず、答えに窮したり曖昧なことを答えたりした時、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と罵倒するのが定番となっている。その後、一見分かりにくい短答を示し、その内容を研究者などの専門家がVTRで解説するという構成である。
番組のウェブサイトから、いくつかの問いを引用してみよう。
「いってらっしゃーいってお別れのとき、手を振るのはなぜ?」
「かんぱーいのときにグラスをカチン、なぜするの?」
「温かいみそ汁はなぜモヤモヤしているのか?」
「オセロはなぜ白と黒で争うゲームになったのか?」
「外国語をカタカナで書くのはなぜか?」
「サケが生まれた川に戻ってこられるのはなぜ?」
「サッカーのスローインを両手で投げるのはなぜ?」
「なぜ地球には空気がある?」
「なぜ“だるまさんがころんだ”と言う?」
(NHK「チコちゃんに叱られる!」ウェブサイト)
クイズは、人文・社会・自然の諸科学分野から広く出題されている。問いの多くは、「なぜ?」と、事象の原因や理由を尋ねるものである。
実はこれまでも、この番組にはいくつもの批判が寄せられてきた。事実関係に誤りがあるとの指摘、ものごとを単純化し過ぎているとの指摘、曖昧なことは「諸説ある」といって逃げるとの指摘などである。本記事では、それらの指摘とはまた異なるレベルの、「なぜ」という問いかけそのものに潜んだ問題点を指摘することをねらいとする。
■「なぜ」という異質な疑問詞
そもそも、「なぜ」という問いに、「○○だから」というふうに、唯一の回答で解を与えることができるのかという根本的な問題がある。
「なぜ宇宙は存在するのか」「なぜ人は生き、死ぬのか」「なぜ私たちはものを考えるのか」「なぜ『私』が存在するのか」。これらの問いに対しては、おそらく無数の回答を与えることができるであろう。哲学、倫理学、物理学、生物学、宗教、神話などが多くの回答を与え、説明してきた問いである。
一般に「5W1H」と総称される疑問詞のうち、「なぜ」だけは扱いの難しい「異質な問い」である。5W1Hは、「いつ」「どこで」「だれが」「何を」「なぜ」「どのように」の六つから成り立っている。
たとえば「いつ」について見てみると、それには「時間」で回答するというふうに、説明の地平が特定される。「年」や「秒」で回答するなど、答え方の単位や桁に多少の幅があるとは言え、着地点は常に「時間」である。「どこで」に対しては場所で、「だれが」に対しては人で回答するというふうに、その説明の地平はひとつに特定される。
しかし、「なぜ」が問おうとする原因・理由については、説明の地平が数多くあって、必ずしも特定することができない。「なぜ」に対する説明の地平をどこに置くかを事前に双方で取り決めておかないと、問い自体が成り立たないという特徴がある。
■「なぜ」の問いは科学の原動力になった
むろん、世界の事象について「なぜ」を問うことは重要な営みであり、それが科学の原動力となった側面がある。「なぜ星が動いて見えるのか」という問いに対し、「地面に対して星が動くから」という天動説が唱えられていたが、やがて多くの観察を重ねることにより、「星に対して地球が自転しているから」と説明する地動説が生まれた。
「なぜ世界にはかくも多くの種の生物がいるのか」に対しては、「神が創造したから」という創造説が唱えられていたが、やがて「長い時間をかけて多様な環境に適応してきたから」と説明する進化論に置き換えられていった。
ある事象が成立する背景に関心をもち、さまざまな他の要素との間の因果関係で説明、納得しようとすることは、近代科学成立以前からも、人間社会において広く行われてきた。かつては神話や伝承の中で多くのことが説明、納得されてきたし、近代科学が成立してからは、物理学や生物学における特定の法則に引き付けて説明、納得する流儀が定着した。
■「なぜ」という問いが通用する時、しない時
神話・伝承から科学へという説明の仕方の移行には、メリットとデメリットの両面がある。メリットとしては、少数の法則で多くの事象の原因を説明することで、一定の成果を上げたことである。その成果を、私たちは世界認識の方法のみならず、日常生活の利便性においても享受している。
一方、デメリットもある。それは、説明のスタイルが常に一枚岩であるはずだという幻想を振りまいたことである。普遍性の視点のもと、あらゆることを、万人に共有できる形で平板に説明できるはずだという想定を世に広めてしまったのである。
物理学や生物学のように、特定の法則に説明原理を集約することが共通了解になっている分野であれば、共通のことばとしての「なぜ」という問いが成立する。その説明原理を共有している科学者集団の中では、「なぜ」の唯一解を求めることは可能である。一方、その前提を共有していない人たちとの間では、通用しない問いとなる。
■ティンバーゲンの「四つのなぜ」
さらに、説明原理を特定の法則に集約している自然科学においてさえ、「なぜ」への回答の与え方は複数存在し、それらは相互に独立していて、異なる説明原理をなしているという理論的整理がある。動物行動学者ニコ・ティンバーゲンは、動物の行動について、生物学は四つの「なぜ」に答える必要があると示した。
(1)近接要因:どのような仕組みか
(2)究極要因:どんな機能をもっているか
(3)発達要因:生物の成長に従いどう獲得されるか
(4)系統進化要因:どんな進化を経てきたのか(長谷川、2002)
■「ドライバーが赤信号で自動車を止めるのはなぜか」
理解のために、分かりやすい比喩を引用してみよう。「ドライバーが赤信号で自動車を止めるのはなぜか」という問いに対し、それぞれの立場でどのような回答が与えられるかを例示する(マーティン&ベイトソン、1990=1990)。
(2)究極要因:「赤信号で止まらないドライバーは事故を起こしやすく、少なくとも警官に捕まりやすい」から。
(3)発達要因:「ドライバーは本やテレビや指導員からこの規則を習った」から。
(4)系統進化要因:「交差点で交通を止めるのに赤信号が多くの国で使われるようになった」から。
これら四つの説明は、いずれも「ドライバーが赤信号で自動車を止めるのはなぜか」という問いに対する適切な回答となっている。
ここで注意してほしいのは、「ある行動の要因が複数ある」というように、同一の説明の地平における複数の要因を並列的に挙げている「のではない」ことである。
■説明の方法は複数通りある
たとえば、ドライバーが、「本」と「テレビ」と「指導員」の三つの情報源により赤信号停車ルールを学習したというのであれば、これは同一の説明の地平における三つの異なる要因を並列的に示しているものである。
一方、(1)〜(4)が示しているのは、異なる地平における、それぞれ独立した、別個の世界観における説明のスタイルが存在するということである。(1)〜(4)の説明を与えている人たちは、それぞれ別べつの納得の流儀をもっていて、互いに譲ることなく、どれかを別のどれかに置き換えたり還元したりすることができない、独立した宇宙の解釈者である。
実際、動物の行動をめぐっては、これらそれぞれ独立した説明の地平を念頭に、「なぜ」に複数通りの回答を与えてきた。
「ホタルはなぜ光るか」「クジャクのオスはなぜ羽を広げて示すか」「渡り鳥はなぜ遠距離を移動するか」「親はなぜ子育てをするか」。これらについて、いずれも(1)〜(4)の四通りの回答が伴っている。
どの行動にも「なぜ」に対する説明の方法は複数通りあり、どれも適切である。言い換えれば、説明の地平を事前に確認しておかなければ答えようがないし、回答を一意に定めることは原理的に不可能である。
■一つの原理に基づいた一つの答えを押し付けるべきではない
生物学においてすら、「なぜ」の回答は複数通りあるという例を見てきた。さらに、哲学や倫理学、心理学、宗教などの視点を含めていけば、その説明の地平の数は無数にあると言ってよい。とくに、人文・社会科学における、人間の事象をモノのふるまいに還元して説明するのではない分野においては、その複数性はさらに複雑さを増すことになる。
身近な例を挙げる。研究に携わっている人に対し、「あなたはなぜその研究をするのか」という問いかけがよくなされる。科学のトレーニングを積んだ人であれば、「先行研究がなく、独創的だから」(学術的必要性)という回答が公式見解となる。
しかし、実際の研究活動を見ていると、さまざまな回答を与えうることは明らかである。「個人的に興味がわいたから」(私的動機)、「たまたま適切な調査対象に出会えたから」(環境要因)、「研究を通じて社会貢献できるから」(対外的有用性)、「研究室の指導教員の分野だったから」(研究チームの来歴)、「本を読んでいたら知識が蓄積されたから」(個人の来歴)など、「なぜその研究をするのか」に対する説明の仕方は何通りも存在する。
いずれも「なぜ」に対する適切な回答であり、唯一の回答を選定することはできず、相互に独立した説明の方法となっている。
人文・社会科学の諸課題、たとえば「なぜ戦争が起きるのか」「なぜ円安ドル高になるのか」「なぜ人びとはスポーツに熱中するのか」なども同様で、いかようにも説明の地平を設定でき、それぞれにふさわしい回答を与えることができる。
このような状況において、もし単一の原理での説明を唯一解と指定する認識の姿勢があったならば、それは、特定の世界観と説明の流儀を一方的に選定し、他者に強要している事態に他ならない。
■異文化を「手軽に解説する」という暴力
この問題に深く関わる、20世紀半ばの文化人類学の理論的転換について見てみよう。かつて文化人類学においても、異なる社会の文化について「なぜその文化が存在するのか」を執拗(しつよう)に問い、特定の説明方法を自他に要求するスタイルが横行していた。20世紀前半に流行した「機能主義人類学」は、異なる社会に見出されるあらゆる文化要素について、「当該社会または個人における何らかの機能があるはずだ」と想定して説明しようとしていた。
たとえば、「人びとはなぜ祭りを催すのか」という問いに対し、「個人の快楽のため」「ストレス発散のため」「体力増強のため」などと、個人の欲求・利益に還元する説明を行ったり、「町内の結束のため」「集団のアイデンティティーを強化するため」「国民意識の醸成のため」などと、社会的な効用に還元する説明を行ったりしていた。
異文化についてこうした理解を進めていく機能主義人類学は、一時期、一定の評価を得ていた。ヨーロッパのまなざしで非ヨーロッパの諸社会を観察した時、一見奇異に見える慣習や行動が見出されることがある。それらについても、「劣って後れた文化」などと蔑視、否定することなく、「当該の社会の中においては何らかの役に立っているに違いない」と価値付けることで、その文化要素の存在を肯定するという意味合いをもっていた。
他集団が営む文化の諸要素をばらばらに切り離さず、当該社会の文脈に位置付けて理解し、それぞれの要素が存在する価値を肯定的にとらえようとした点では、確かに功績があった。このような説明は、異文化を解説できる手軽な手法として大いにもてはやされた。
■他者を勝手に説明し、知的に満足してよいのか
一方で、機能主義人類学は、やがて批判にもさらされることとなる。構造主義人類学の創始者レヴィ=ストロースは、アメリカ先住民などの諸社会におけるトーテミズムの研究を踏まえ、機能主義的な異文化理解の問題点を明快に指摘した(レヴィ=ストロース、1962=2000)。
機能主義は、「なぜその文化要素が存在するのか?」「それは○○だからである」と、ヨーロッパ人が納得しやすい説明の地平を一意に設定し、そこに還元させて事象を説明する。物理学のように、文化社会の諸事象を少数の法則に還元して理解しようとしたのである。
しかし、さまざまな文化要素を、あたかも機械仕掛けの時計の部品のように見なし、他集団を自前の特定の世界観で分析、説明、納得するという行為は、ヨーロッパ人の思考が好む説明の地平を他集団に一方的に充てがっているに過ぎない。
そこでは、先住民たち自身がどのような思考様式をもっているかといった点が、まったく考慮に入れられていなかった。
レヴィ=ストロースは、トーテミズムの研究を通じて、先住民には先住民なりの思考様式があること、それはヨーロッパ人のそれよりも劣ったものではないこと、ヨーロッパ人によって機能的に説明されるのをただ待っている受動的な存在ではないことなどを見出した。
こうして、新たに登場した構造主義人類学は、徹底して先住民の思考様式を擁護し、機能主義人類学に代表されるヨーロッパの自分勝手な理解のスタイルを批判したのである。
はたして、ヨーロッパ人は、自分たちの好みのスタイルで他者を説明し、知的に満足していてよいのだろうか。それは、一種の植民地主義的なまなざしではないのか。ヨーロッパ側の知的傲慢(ごうまん)さは、こうして批判や省察の対象となっていった。
それは、人文・社会科学において、「なぜ」という問いかけに対し唯一解を与えられるはずだという機械論的な前提が覆され、「複数の説明の地平における、複数の回答を見出していく」視点へと開かれていった転機のひとつであったとも言える。
■手話を学ぶ人がやりがちな過ち
こうした問題は、決して遠くに存在する異文化の世界の話にとどまらない。私たちの身近な事象の中に、同種の問題を見ることができる。
耳が聞こえる人たちが手話の学習をする時に犯しやすい過ちとして、手話の語の語源となった動作を執拗に尋ねたり、ろう者の慣習や行動、価値観がなぜ存在するのか、その理由や意味をしつこく当事者に問いただしたりするということがある(亀井、2009)。
手話やろう者の文化について、したり顔で「それは○○だからですよ」などと機能主義的に解説する手話学習経験者などもいる。「なぜ」「なぜ」「なぜ」……。聞こえる人たちからの執拗な問いかけが、ろう者たちの日常にストレスをもたらしている(マイクロ・アグレッション)。
ろう者たちは、手話という言語、音を用いない行動・生活様式の体系をもって生活している(ろう文化)。多数派である耳の聞こえる人たちが、その文化の細部について「なぜか」と問いただし、自分たちに理解できる説明の仕方を要求し、納得できる解説がなければ文化の存在や価値を承認しないと圧迫する状況には、「多数派が説明と納得の権限を独占する」、すなわち「少数派に対して知的な支配をする」姿勢がありありと現れている。
ろう者を質問攻めにする聞こえる人は、真面目に手話とろう文化を学ぼうとする人であることも多く、本人には何ら悪意がないこともしばしばである。しかし、自分が設定した説明の地平を、そうと気付かないままに相手に押し付け、さらにはそのように知的な権力を振るっているという自画像にも気付いていないことが多い。
これは、現代における一種の植民地主義的な認識の現れであるとも言える。かつて機能主義を信奉し、手前勝手な説明の地平を要求していた「真面目な文化人類学者」が犯した過ちと同様の現象を、今も日常的に見ることができる。
■チコちゃんが説明と理解の決定権を独占している
話題を元に戻そう。「チコちゃんに叱られる!」は、実証性の甘さ、説明の単純化、「諸説あり」という逃げ方などに対する批判的な指摘があった。本記事が注目したいのは、そのような表層的な「科学の知の正確さ」をめぐる点だけではない。「なぜ」という問いを連発し、すべての事象を特定の説明の地平に還元することを要求し、それ以外をすべて誤答とする「説明と理解の決定権の独占の姿勢」こそを問うている。
そこに見る知的傲慢さは、かつてのヨーロッパが世界を解説する権限をわが手に独占しようとしていた、植民地主義的で暴力的な知のスタイルの再来のごとくである。
チコちゃんによって否定されていたのは、「回答者における知識・情報の不足」のみではない。回答者側がそなえているであろう複数の説明の地平、思考様式、世界観それら自体が否定されていた。私たちは、想定されうる思考様式の複数性を否認されることに対して、強い虚しさと不愉快さを覚えるのである。
■「ボーっと問うてんじゃねーよ!」と言いたい
「なんで?」と執拗に問い、自身の思考様式に合わない他者を「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と罵倒することは、自分が求める説明の地平に服従することを相手に求め、自らの知的優位性と権力を誇示することである。さらに、その傲慢な姿に自ら気付いていないということでもある。このような状況に対しては、むしろ「ボーっと問うてんじゃねーよ!」と、その自画像を質問者側に適切に示してやるのが最善であろうと考えられる。
こうした批判的対話を経て、チコちゃんは、何人たりとも否認することのできない他者の尊厳と思考様式の存在に、はたと気付くかもしれない。そして、自分が依拠していると信じている説明の地平が、その実、普遍的でも何でもなく、数ある世界認識のスタイルのひとつに過ぎないという謙虚な自意識をもつことができるかもしれない。その自覚に至ってこそ、初めて、対等な認識と理解への展望がもたらされることであろう。
20世紀の文化人類学の理論的転換と、「なぜ」という問いを強いることの暴力性をめぐる省察から、現在の教養番組、ひいては私たちの身近な事象への説明と理解の姿勢が学ぶべきことは多いに違いない。
参考文献
NHK「チコちゃんに叱られる!」ウェブサイト(2022年10月12日、11月10日閲覧)
亀井伸孝. 2009. 『手話の世界を訪ねよう』東京:岩波書店
長谷川眞理子. 2002. 『生き物をめぐる4つの「なぜ」』東京:集英社
マーティン, P. & P. ベイトソン. 1990=1990. 『行動研究入門 動物行動の観察から解析まで』東京:東海大学出版会
レヴィ=ストロース, クロード. 1962=2000. 『今日のトーテミスム』東京:みすず書房
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亀井 伸孝(かめい・のぶたか)
愛知県立大学外国語学部 教授
1971年、神奈川生まれ。京都大学大学院理学研究科博士後期課程修了(生物科学専攻)。関西学院大学、東京外国語大学、大阪国際大学での勤務を経て、現職。理学博士。手話通訳士。専門は、人類学・アフリカ研究。著書に、『アフリカのろう者と手話の歴史 A・J・フォスターの「王国」を訪ねて』(明石書店、2006年。2007年度国際開発学会奨励賞受賞)などがある。
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(愛知県立大学外国語学部 教授 亀井 伸孝)