二度のJ1タイトル、代表デビュー。偉大な指導者や強烈な仲間と共に駆け抜けた日々【田中隼磨の生き様|前編】
これで松本は1−0で勝利。2014年から9シーズンにわたって「山雅の流儀」を示し続けた40歳の大ベテランの現役ラストマッチを飾ることができた。
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「高校3年だった2000年12月の天皇杯の福岡大学戦が僕のプレデビュー戦でした。天皇杯では準々決勝の鹿島アントラーズ戦にも出場した。この年に3冠を獲った鹿島に対し、(横浜F・)マリノスは俊さん(中村俊輔)がトップ下にいて、俺と(上野)良治さんがボランチを組む形。2人についていこうと必死に走り回った覚えがあります」
田中隼磨は2種登録選手としてプロの舞台に立った頃のことを鮮明に記憶しているという。正式なトップ昇格は2001年だが、足掛け23年間に及ぶプロキャリアのスタートは高校生の時だった。山口智や稲本潤一、阿部勇樹など当時は複数の高校生Jリーガーがいたが、彼もその中の1人だったのである。
この時、横浜を率いていたのは、オズワルド・アルディレス監督。ご存じの通り、清水エスパルスの黄金期の土台を築いた名将である。百戦錬磨の指揮官のもとで約1年半プレーした後、2002年途中から東京ヴェルディにレンタル移籍する。ここで指導を受けたロリ・サンドリ監督にボランチから右サイドバックへとコンバートされたことが転機となり、持ち前の走力やアグレッシブさが一気に開花することになったのだ。
そして2004年に横浜に復帰。師事したのは98年フランス・ワールドカップで日本代表を率いた岡田武史監督だった。岡田体制の横浜は強固な守備をベースに強度の高いサッカーを志向。第1ステージを制覇し、浦和レッズとのチャンピオンシップにも勝ってJリーグ優勝を果たす。隼磨にとっても大きな節目の年になったのは間違いない。
「岡田さんからは、褒められたことがほとんどないですね(苦笑)。それは僕が大きな影響を受けた監督である(イビチャ・)オシムさん、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)、反町(康治)さんに共通することです。
岡田さんから唯一、ポジティブな声掛けをしてもらえたのが、2006年夏に日本代表に初招集された時。オシムさんの初陣(トリニダード・トバゴ戦)に向けた合宿で、最初に選ばれたのは13人だったんですけど、僕もリスト入りして、試合にも出してもらえた。その翌日の練習時に呼ばれて『このまま続けていたら新しい光景が見えるから』と言ってもらえました。そのことは今も鮮明に覚えています」
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岡田監督が隼磨を認めたのも、オシムという偉大な指導者の琴線に触れたことが大きかったのかもしれない。それだけオシムという人物の存在感は圧倒的だった。
当時のオシムジャパンは2006年ドイツW杯を機に若返りを図るべく、田中マルクス闘莉王や鈴木啓太、駒野友一らアテネ五輪世代を大量招集。新たなチームを作り始めた。その初期に名を連ねた隼磨は9月のサウジアラビア・イエメン遠征にも帯同。そこで驚きの出来事に遭遇したという。
「サウジのジェッダに到着する10〜15分前だったかな。機内で練習着が回ってきて、『え、これから練習するの?』とビックリしたんです。現地はもちろん深夜。まさかとは思ったんですけど、『散歩くらいかな』と軽く考えていました。そうしたら、今度はスパイクも回ってきてグラウンドに直行。ガチで対人練習をすることになりましたね(苦笑)。
オシムさんは『休みから得るものは何もない』と口癖のように言っていたけど、本当にその通りだと痛感させられた。僕はそこから自分を徹底的に追い込んだし、オフシーズンもほぼ休むことなく、カズ(三浦知良)さんと自主トレに行って、朝昼晩の3部練もやった。40歳まで現役を続けられたのは、オシムさんのもとでやれたのが大きいと思っています」
隼磨の向上心をかき立ててくれたオシムジャパンだったが、定着は叶わなかった。加地亮や駒野といったライバルの存在に加え、自身のパフォーマンスも安定しなかったからだと彼は分析する。
所属の横浜は岡田監督が2006年途中に辞任に追い込まれ、水沼貴史、早野宏史、桑原隆と毎年のように指揮官が交代するなど、チーム状態が落ち着かなかった。隼磨自身もコンスタントに試合に出ていたものの、どこか不完全燃焼感を拭えずにいたようだ。
迎えた2009年。彼は名古屋グランパス移籍という大きな決断を下すことになる。
「2008年にピクシーが来たタイミングで、GMだった久米(一正)さんとピクシーの両方から熱烈なオファーをもらったんです。その時はマツ(松田直樹)さんのようにマリノスを背負って立つつもりでいましたから、いったんは断ったんです。でも、2008年の年末の天皇杯準決勝でピクシーに会って、『お前の力でグランパスを優勝させてくれ』と言われたことで、心に火がついた。年末に決意を固めて、新天地に赴きました」
すでに楢崎正剛、玉田圭司、川島永嗣といった代表クラスが揃っていた名古屋だが、あと一歩、タイトルには届いていなかった。そこで2009年には隼磨、ジョシュア・ケネディ、ダヴィらを補強。夏に三都主アレサンドロも加わり、選手層が厚くなった。さらに翌10年には闘莉王、ダニルソン、金崎夢生も加入。盤石の体制ができ上がり、ついに頂点に上り詰めたのである。
「名古屋に行って最初に感じたのは、“ぬるい雰囲気”というか……。何か“練習のための練習”をしているかのように感じてしまった。練習中もガチガチ来ないし、言い合いもない。マリノス時代とは全然違っていたし、『万年中位』と言われているのが悔しくてしょうがなかった。
ピクシーは『練習で100%を出さなくても本番でやればいい』という考え方だったんで、正直言って、練習の強度は決して高いとは言えなかった。自分がフルスプリントやスライディングタックルをするたびに『Why?』と言われました。ただ、それを試合で実践できないと『Not enough(不十分)』と厳しく苦言を呈されるんです。
メリハリのあるピクシー流を理解しつつ、緊張感ある雰囲気を作るのは簡単じゃなかったけど、僕は僕なりにストレートに周りに注文をつけたつもり。闘莉王やアレックスもそういう想いだったから、チーム全体が大いに刺激を受けたと思う。それでチームが前向きに変化し、タイトル獲得につながった。2011年も最後の最後で柏レイソルに優勝をさらわれたけど、すごく良いチームだった。僕はそう感じています」
そんな“隼磨イズム”に触れた1人が、若かりし日の吉田麻也である。2009年のキャンプで同室になった際、21時に就寝する先輩の姿を見て、18歳の大型DFは目を丸くしたという。だが、そこまで徹底的に自己管理し、ストイックにサッカーに向き合う姿勢を先輩から学んだからこそ、代表キャプテンとして奮闘する今があるはずだ。
このように10〜20代の隼磨は、偉大な指導者や先輩たちから多くを学び、飛躍を遂げたが、自身も若い世代にプロとしての矜持を伝える存在になった。二度のJ1タイトル、代表入りも含め、彼は日本のトップ・オブ・トップを力強く走り続けていたのである。
※後編に続く
取材・文●元川悦子(フリーライター)
