「悲劇のヒロイン」でもあった″アジアの歌姫″テレサ・テン - 渡邉裕二
※この記事は2017年05月08日にBLOGOSで公開されたものです
テレサ・テンさん死去から22年
台湾・台北市から車で1時間。最北端・金宝山墓地に〝アジアの歌姫〟として人気だった台湾の歌手、テレサ・テンさん(本名=蠟麗筠)は眠っている。台北市内と太平洋が一望できる墓地で、その入口の地面にはCDを形取ったモニュメントがあり、テレサさんの曲が日本語と北京語、そして英語の3ヶ国語で1時間毎に流れる。多くのファンは、そこで在りし日のテレサさんを偲ぶ。テレサ・テンさんが亡くなったのは1995年5月8日夕刻のことだった。タイ北部のチェンマイに休暇で滞在中、気管支ぜんそくの発作による呼吸困難で急死した。まだ、42歳という若さだった。
「テレサ・テン急死」。
ショッキングなニュースは日本中を一気に駆け巡った。しかも、その亡くなった日は90年に死去した父親の命日でもあった。
…それから22年という年月が経った。
「時の流れに身をまかせ」「つぐない」「愛人」「別れの予感」…。テレサ・テンさんの作品は、今でも「記録」と共に「記憶」の中に残り、歌い継がれている。
テレサさんはチェンマイに、亡くなる1ヶ月ほど前--4月2日から「保養のため空気のいい土地」という理由から滞在していた。宿泊していたホテルは一泊1200ドル(当時の日本円で約10万2000円)の最上階プライベートルーム。恋人だった(フランス人の専属カメラマンの)ステファン・ピエール氏(当時32)と一緒だった。
ピエール氏は7年来の恋人だったと言う。過去に香港やパリに滞在していた時も同棲生活を送っていたそうだ。ある情報では、テレサさんは1000万円以上もするカメラ機材を買い与えていたとも。
憶測が飛び交ったテレサ・テンの死因
訃報を知ったピエール氏は救急搬送されたチェンマイ市内のラム病院に駆けつけ、テレサさんの亡骸から片時も離れず付き添っていたという。そこで台湾や香港の芸能記者がテレサとの関係を質問したところ「突然に殴りかかってきた」と言われる。「テレサの急死で情緒不安定になっていたのかもしれない」。そんなこともあってか当初、死因については「さまざまな憶測が飛び交った」と現地芸能記者は振り返る。亡くなる前の旧暦の正月(2月上旬)頃から風邪で体調を崩していたという情報もあった。現地芸能記者がラム病院で担当していたスメット・ハンタクン医師に問い質すと「94年12月にも激しい発作を起こして危篤状態に陥っていた」ことを明かしていたという。
いずれにしても国民的歌手だったテレサさんの急死は台湾、香港の放送や新聞は連日トップ項目で扱われ、日本以上の過熱ぶりとなった。現地の音楽関係者によると、その内容は「アジアの歌姫の急逝を悼む内容がほとんどだった」と言うが、その一方で5月10日付の台湾「民生報」や香港「電視日報」などが、テレサさんに「愛滋病(エイズ)」の噂があることを大々的に報じたことから大騒ぎとなった。
「急死だったことからタイ当局が司法解剖を求めたんですが、親族がその要求を拒否したんです。そういったこともテレサさんのエイズ説に拍車をかけたようです」(週刊誌記者)。
「電視日報」は、テレサさんは香港の女性映画監督と同性愛関係にあったと伝え、「これまでもエイズの噂が頻繁に出ていた」と、何と女性監督の顔写真入りで報じていた。また、同紙によると、テレサさんはかつてこの件の取材に関して「否定も肯定もしなかった」と言う。
そういった噂に対して、テレサさんの実兄のフランク・テン氏は一蹴。「テレサは9歳の時からぜんそくを患っていた」と、死因がぜんそくによる発作だったことを強調した。
ところが、台湾でテレサさんの音楽や思想面で相談に乗ってきたと言う左宏元氏が「彼女は練習の時はマイクを口につけて歌っていたが、ぜんそくなどに見られるような呼吸声は全く聞いたことがなかった。ぜんそくなんかで死ぬなんて信じられない」と語ったと言われ、疑惑を一段と深めた結果となった。
結局、エイズ説については、スメット医師が「100%、気管支ぜんそくの発作が原因だ」と断言したしたこともあって、次第に「死因に疑問を呈する記事は消えていった」(芸能関係者)。
テレサさんの遺体は、遺族の要請で5月11日深夜に台湾・台北松山空港へと空輸された。
前述した通り、台湾では国民的歌手だったこともあって、急遽「台湾政府葬儀委員会」が発足、5月28日に台北市第一殯儀館で国葬並みの葬儀が行われた。参列者は台湾はもちろん日本をはじめアジア各国からファンが押し寄せた。その人数は3万人以上にも及んだというから、日本でいうと石原裕次郎さんや美空ひばりさん…、さらに尾崎豊さんやX JAPANのhideさんと同等だったかもしれない。
テレサさんの遺体は火葬ではなく土葬となった。
「土葬は手続きが面倒な上、厳しい。しかも台湾は狭い土地柄から土葬用の土地を取得するのは相当の資金を必要とする。功績のあった人物や高官、財閥などしか土葬をおこなってこなかった」(現地の関係者)。
棺は台湾の旗と国民党旗に包まれていた。
インドネシアの偽造旅券で日本へ入国し強制送還
ところで、テレサさんは〝アジアの歌姫〟として知られる一方で、不遇もあった。1979年のこと。当時、日本と台湾とは国交を断絶していたこともあって台湾のパスポートでは入国は困難だった。そこで、テレサさんはインドネシアのパスポートを使って入国しようとしたため旅券法違反で国外退去処分を受けてしまった。もっとも、パスポート自体は偽造ではなく正式なものだったことから「事件とはならなかった」と言うが、再来日を許可されたのは、それから5年後の84年のことだった。そして、翌85年には「つぐない」のヒットで「第36回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。
それだけではない。中国でも人気だったテレサさんは政治的にも利用されるようになった。
中国における反中国共産党政府感情を駆り立てる宣伝に利用され、中国政府はテレサの楽曲を不健全なものとして国内での販売、所持を禁止したこともあった。
もっとも、中国国内で起こっていた民主化要求デモを支援する目的で香港で行われたコンサートには積極的に参加した。そこで歌ったのが平和をテーマにした作品「私の家は山の向こう」だった(有田芳生の著書に「私の家は山の向こう~テレサ・テン十年目の真実」がある)。
いつの間にか、テレサさんは中国の民主化運動の中心に立っていた。89年6月4日に起こった「天安門事件」では、香港で行われた民主化デモ弾圧に対する抗議集会にも参加、中国の民主化実現を訴えるなど、中国の一党独裁を否定した。こういったテレサさんの行動は「台湾の広告塔」とも言われるようになった。
ちなみに、この天安門事件で中国政府に失望したテレサさんは中国国内ではコンサートを行うことが一度もなかったという。
今振り返ると、テレサさんの人生の後半は台湾、香港、中国の政治の渦に巻かれた悲劇のヒロインだったようにも思える。その台湾は昨年、中国からの独立志向の高い野党・民進党を率いる蔡英文氏が女性としては初めて当選した。「一つの中国」を認めない蔡氏は有権者から圧倒的な支持を得て総統就任となった。
10年、15年、20年…。テレサさんの節目の命日には、日本をはじめ台湾やアジア各国で追悼の催しが行われてきた。その15年目の時だった。台北市内のホテルで大々的な追悼イベントが行われた。会場のホテルにはアジア各国から700人を超えるファンが集まった。
その中で、各国のファンの盛り上がりを映像で紹介したが「シンガポール」「インドネシア」「マレーシア」「香港」、そして「日本」と紹介されたが、「中国」だけは「大陸」と表現されていた。一瞬、違和感を感じたが、あるいは、これがテレサさんの抵抗を示していたのかもしれない。
そして…。テレサが亡くなって14年目の2009年5月11日。「時の流れに身をまかせ」や「つぐない」など、テレサの数々のヒット曲を手がけてきた作曲家の三木たかし氏が、療養中だった岡山市内の病院で咽頭癌のため死去した。64歳だった。
