「人類1000年は生き延びるよ」という作品を作れ! ――富野由悠季監督が憂える世界の危機と、アニメが持つ希望
2020年11月28日から2021年1月24日まで富山県美術館にて開催している「富野由悠季の世界−ガンダム、イデオン、そして今」。その主役である富野由悠季監督に、今回特別インタビューを実施した。アニメ業界の現在と未来についてお聞きした前編に引き続き、後編では富野監督が憂うこれからの世界情勢と、「ガンダムは敗北した」と語るその発言の真意についてお聞きする。

(前編はこちら)

「故きを温ねて新しきを知る」ーー未来を切り開いていける人とは?


――コロナ禍で、沢山の方々が苦しい状況にあると思います。このような世界をどのような心持ちで暮らしていけばいいのか、富野監督からヒントをいただけないでしょうか。


富野 僕のような立場では、改めて特に言うことはありません。人類的なレベルの危機の問題を作品の中でずっと意識してきた人間だから、いまこの場でリアルな発言ができないのは、良い方向での回答を一切持ってない人間だからです。

代わりに富山の話をします。富山県は、展覧会の会場でもある富山県美術館ができる前に、近代美術を対象とする美術館を持っていました。富山県民はみんな「自分たちは絶対保守だ」と自認している(※編注:自民党員の比率は全国一位とされ、「保守王国」と報道されることも多い)のに、革新的な近代美術がテーマの美術館を古くから持っているのはなぜだろう?と考えました。

それは、自分たちは保守の基盤というのを徹底的に持っている自信があるから、“革新とは何か?”を考えるスペアを持っていられるということなんです。自分たちが初めから、時代を開く革新的な風土で暮らしていたら、わざわざ近代美術館なんて作らないでしょ?

そうすると、とても重要なのは「故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る」ということわざにもある通り、保守があるから現代もあるし、近未来があるという“足場”を持っていられるということなのです。この県民性というのはとても大事なことで、革新というのはそういう保守がある地から生まれるんです。

すごくわかりやすい話をすると、日本人が意外と気がついてないことなんですが、東京出身の革新的なアーティストとか美術家、文筆家というのはそんなにいませんからね。明治頃で東京出身の人たちが確かにいるんですが、それは東京人ではなくて、東京に住み着いた「お前元々富山だろう」みたいなのが沢山いるわけで、僕流の言葉でいうと“風土を背負っている人”が、結局革新をやっていて、近未来のものを切り開いていったんだろうと思っています。

だから「今の人はどうすれば良いんでしょう?」という質問に対しては、富山県民に関して言えば、“今までこの5、60年やってきた通りにやっていけばいい”、それだけの話です。「えっそんなこと?」と思うかもしれませんが、“地力”というのはそういうものなのであって、聞いて手に入れられる力なんてたかが知れています。恐らくそういうものって力にならないので、僕に聞くなって(笑)。今言ったとおり、自分たちで分かってやっていることをやれば良いだけのことで、そのために2つの美術館があるってことが面白いことなんですよ。

(初日の夜、富山県美術館では富野監督と細田守監督のスペシャル対談が行われた)

“工芸”が持つ不思議な力と、それを生み出した“風土”の力



――富山県にあるもう一つの美術館というのは「富山県水墨美術館」ですね。

富野 そうです。お前ら「そんな時代遅れのものって最低だ」って思っているでしょ(笑)。富山にいる学芸員とも話したんですが、デジタル時代になった時に、「ひょっとしたら水墨画だけは絶対に生き残るかもしれない」と思うんです。さっき(編注:前編)のプログラマーの話で、理科系のセンスを持っている連中は、水墨画なんて逆立ちしても描けないんですよ。

筆一本で墨一色なのに、百色も千色も表現できるんです。そのグラデーションだけで絵を描ける感度はどういうことかというと、水墨画を描いている人は、みんな総天然色で自分の絵を見ているんじゃないかということです。特に名作と言われている絵は、ほんとに遠近とかに色味があるんですよね。

逆にそういう感度を持たなかったら、絵描きとはいえねぇだろ?という話で、これはプログラムだけで解析できるものではない。総合的なものの見方をするアートというのは、基本的に“工芸”なのね。工芸は作り物なんだけど、よく”工芸作品”という言われ方をするのは、つまり、それぞれが“作品としての力”を持っているということなんです。

どういう力かというと、(机上のスマホを指差しながら)携帯のそういう形は“道具”でしかないよね。それで、(紙コップを取り出して)これが陶器でできたお茶碗だったら、途端に「150万円だって、お前には売れねぇよ」というものになっちゃうのよ。でもその携帯はならない。そういう価値を持つ陶磁器ってなに?という話。工芸とはそういう力を持っている。



「なんであんな茶碗1つがそんな価値なの?」って僕にもよく分からないんだけど、たぶん我々が、道具というものを単に道具と思ってないということでしょうね。「これ使っていると気持ちいいのよねぇ」「なんとかちゃんがここで飲んだから気持ちがいいんだ」みたいなことではなくて、そういうことを心理的に喚起できる我々の心というのは、いったい何なのか。つまり、人の心って本来、工芸を完全に感得できる感度を持っているんです。そして小さい時からいいものに触っている、使っている人はそれがわかっちゃう。その話をした時に、富山は世間にどれだけ良いものがあるかって話です。

重要なことは、富山の地形とか風土がそういうものを作らせたということです。そのことは道具類だけじゃなくて、お米とか農産物のことまで含めて、ひょっとしたら工芸の肌合いとかに持っているサムシングなのだと思います。僕は本当に東京しか知らない人間だから思うんだけど、東京で見るものは商品にしか見えない。つまり、富山でゴロゴロしているものは、商品以前の形がパッと見えているから、触っても食べてもそれで気が済むんです。

ところが東京でものを食べていると、今日生きるため明日生きるため…だから食べているんだというところに直結しちゃうんですよ。この違いは何なのか?と考えたときに、やはり生産物という近代的なものの言い方が、すごく怪しいのではないかと思うんです。食べ物は食べ物なのに、それを商品にした瞬間に“商品”になってしまうんです。実はこの感覚をいま初めて口にするんだけど、食べ物を商品にされたことにすごく抵抗感があって、そういうものを食べなくちゃ生きていけないのが嫌だな…と子供の頃から思っていました。

ほんと富山の空気って変わった空気なんですよ。まさに物も食も住もそうなんだけど、「こうだから生きて来られたんだし、こうだから冬を越せたんだよね」という、東京には無い空気感があります。一番わかりやすい言い方をすると、近代建築の景色が一体どこまで良いのか?ということです。今回確実に意識を持ったのが、富山の駅前がこれ以後街になっていくのが、本当に気持ち悪くて嫌です。今富山駅前でホテル建築をやっているんだけど、あれ全部よそ者がやってるんだから、お前らで追い出せって言いたいぐらいですね(笑)。

どういうことかというと、まさに我々が「ものを考えることが暮らしを立てる」という言葉遣いを忘れ始めているのかも知れないということ。そういうものを取り戻していくような“感性”とか、“そういう言葉遣い”を、我々はこれ以後発明しなくてはいけないのかな…というのが、とても偏屈な富野さんの発言です。今日こういう風に話しててつくづくそう思ったんですが、これ以上はとても書きづらいんでやめましょう(笑)。

(スペシャル対談の前に、記念撮影をする細田守監督(左)と、富野由悠季監督(右))

富野監督が憂う世界「未来というのが人類にあるのか?」



――そういう意味でいうと、現代人は美しいものとか煌びやかなモノに目を奪われがちです。が、風土、文化など昔からあるものに目を向けて、自分の表現したいもの、仕事とは何なのか…今一度振り返りながらコツコツ丁寧にやっていくのが、日常の営みとしては大事なのだ、と感じます。

富野 その通りなんですよ。もう少し穏やかに、当たり前に物事をやっていかなくちゃいけない時代になったはずなんだけど、もう現代人はそれができないところまで来ていることも事実なんです。だから、僕にとって「人類に未来があるのか?」と考えたときに、もうほとんど窒息状態になっているんじゃないのかな…っていうふうに思えている部分はあります。

それは分かりづらいんだよね。分かりづらいからわかってくれる必要もないし、僕の場合はありがたいことにもう来年死んでも不思議じゃない年齢だから気が済むわけ。だけどこれから10年、100年先の人が「気が済むか?」ってときに、ネット環境がこれ以上に発達して人間の感覚がぶれないのかというと、恐らくぶれると思います。

そこで出てくる国家や政権、政治、産業のあり方が、本当に人が当たり前に暮らしていける様な環境を形成できるんだろうか。もう一つあるんだけども金融経済というものを経済だと思っている我々の認識論では突破できないんじゃないかということです。だから悪い方向にしか行かない気がしています。

つまり、戦争がなくてもそうなのに、戦争なんかやったら最後なんです。なのに、経済人と政治家はまだ「核兵器を作ってもいいかも知れない」と思っている。「このすごいくらい底抜けにバカな大人というのはなんなんだ」と考えたときに、バカな理由が一つだけあります。要するに「科学技術を進歩させればなんとかなる」という20世紀以後の考え方、この一本線の思考回路だけが先鋭的になっていれば、そのように考えてしまうんだろうと思います。

僕の気分でいうと50年前からなんだけど、日本が仮に原爆を持ち、周りに対して脅威の国になって平和を保てるかって考えたときに、もしそんなことやったら国際経済交流は無くなるわけです。原爆を持たなかったからこうまでやって来れたのが、まだ「北朝鮮と中国があるから、場合によってはロシアもあるから」という理由で原爆を持ちたいと思っていたかもしれない。100発原爆持っている暇があったらさぁ…っていうことを考えられない政治家って不思議なんですよね。

(スペシャル対談のヒトコマ)

ガンダムは「何」に「敗北」したのか?



富野 そういうことも考えると、知恵が必ずしも人を支配しているとは思えないんです。20年後ぐらいに歪(いびつ)になっている国際環境とか政治環境みたいなことを考えて、今から正常化していかなくちゃいけないときに、中国とか韓国のことを相手している暇はないんですよ。「皆さん方、ちょっと言っていること違うんじゃないの?」という発言をしていく外交姿勢を持たなくちゃいけないんだけど、そういう気配はどこにもないでしょ?

じゃあどうする?ってときに、「こうしましょうよ」という発言をしていくことが可能な媒体が1つだけあります。それがアニメなの。アニメで語れば、リアルなことを言わないで本意を伝えることができる。そういう物語が作れるはずだから…とは思うんだけど、僕は一度「ガンダムで敗北している人間」だから、やっぱりこれ以後はできないなって思っています。

「ガンダムで敗北」というのがどういうことかというと、僕は20年前の∀(ターンエー)でガンダムを作ることをやめているわけです。なぜターンエーでお終いにしたかというと、限界だからやめたんです。僕は少なくともガンダムをやっている間に、優れた大統領なり統率者が出てくるような人類史を手に入れたかったんですよ。だけど結局20年後にそうならなかったわけですから、ガンダムは敗北したということです。

だからこれ以後やるのは、『鬼滅の刃』的な人気とは全く違う、そういう連中を全部“目潰し”できるような物語を作らなくちゃならないと思っています。アニメの仕事というのは実を言うと、それを目指そうと思ったらできるかも知れない媒体です。ただ、申し訳ないですけど仕事が大きすぎるので、僕にはもうできません。だけどアニメの世界にいると、こういうものの言い方ができるようになるんですよ。アニメじゃなくてこんなこと言っていたら、ヤバイ奴だと思われる(笑)。

「僕には作れる体力がない…」それでもアニメを通して伝えたかったメッセージ





――とはいえ最後に、「アニメだったら伝えることが出来るかもしれない」という希望のメッセージをありがとうございます。

富野 アニメ的な媒体を利用して発言していくということで、ちょっと知恵を働かせて、なんとか起死回生…つまり「人類1000年は生き延びるよ」というようなメッセージを送る作品を作って欲しいなと思っています。

だから僕が『鬼滅の刃』がどれだけヒットしようが1つだけゲッソリしないで済んでいるのは、鬼滅はこのテーマには触っていないからです。そういう意味では「鬼滅とは競合しないで作品を作る富野」という可能性はまだあるのかも知れない、でも、やっぱり「これから3年では無理だよね…」という感じもちょっとある。ただ、まさにアニメというのは実写とか小説よりも、こういうことを考えて作品を作ることができる媒体なんです、ということは言えますね。

これはどういうことかというと、「アニメは1人で作るものじゃない」というスタジオワークの話に戻ります。本当にみんなが想定できる作り手が10人ぐらい集まれば、1000年なり1万年なり人類が生き延びるためのメッセージを発信できる革新的な作品を作れる可能性はあります。

国際政治に「世界が全部統合していかなければ我々は自滅しちゃうんだよ」「だからそれはやめましょうよ」というメッセージを発信する物語が作れるかもしれないのです。ただ、今言葉にするとカドが立つんですよ。つまり、キリスト教も仏教もイスラム教もダメで「もうちょっと世界宗教的なものを作りましょうよ」と言った瞬間に、リアルにやったら新興宗教になっちゃう(笑)。ただ、アニメでやると新興宗教にならないかもしれないということです。

まさに物語を伝えることができる媒体はこれができるんだというところを、そろそろ気がついてくれる作り手が出てくれればいいんだけど、細田守監督はまだそこまでいってないかな(笑)。あのくらいの年代はやっぱりそうなんだけど、まだ自分のお話を作るのに一生懸命だからです。

(スペシャル対談には定員60名に対し、小学生から70代まで1,300名から応募があったという)

年齢って妙なもので、元気な時は元気なところでやるだけで気が済むわけ。だけど、60歳をすぎると自分の暮らしはなんとかなるから、世界平和をなんとかしようという観念的なところに少し本気になっていけるんです。でもそうなったときに、この10年ぐらい人類が経験している大変なことがある。それはやっぱり体力なんですよ。いやぁ…そんな大きな目標の物語、僕には作れる体力ないよ(笑)となります。

それで、意思が強いだけだと何が起こるかというと、わかりやすい最近の事例があります。結局キレて、自分が腹を切るしかないという三島由紀夫みたいに、です。「いや、おじさん。それあなたの気が済んだだけでしょう」っていうことになっちゃう。現に三島由紀夫の自死から今年50年目で、やっぱり自分の美意識と言うものに殉じていったときに「結局虚しいよね…」という評論もあるわけです。

他人関係ねぇもん、あいつだけ勝手に死んでって…というような感覚で、あの人はそれで気が済むけれども、残された人がたまったもんじゃないということもある。世間の見方はどうなのかというと「そういう小説家がいたよね」でお終いです。僕はそんなバカなことはしたくないから、絶対に腹を切るみたいなことはしないでメッセージを伝えたい。じゃあどういうふうに伝えるかって考えたときに、仏陀とイエスキリストとマホメット以上に…というのをテーマにすると、79歳になっちゃってるのでもう無理なわけです(笑)。



*そう言いながら、その夜の細田守監督とのスペシャル対談で「死ぬまでに何かを出したいと日夜頑張っているので、新作の声が聞こえてきたら応援してほしい」と明かしてくれた富野監督。

2019年より順次公開されている劇場版『Gのレコンギスタ』の第3部「宇宙からの遺産」が2021年夏に公開される予定など、第一線で精力的に活動を続ける姿に畏敬の念を抱くと共に、僕たちはいつまでも富野作品を楽しみにしています。

・富野由悠季監督×細田守監督 スペシャル対談動画

・富野由悠季の世界/公式サイト



・富山県美術館/富野由悠季の世界