(左から)シュスター、ラウドルップ、フィーゴ。いずれもバルサからマドリーへと移籍した。

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 ギジェルモ・アモールはバルセロナの近代史の生き字引的存在である。ベルント・シュスター、ルイス・フィーゴ、ミカエル・ラウドルップとバルセロナからレアル・マドリーへのいわゆる「禁断の移籍」を果たした3選手と接点を持っているのもそんな彼ならではだ。

「いずれもサッカー界に重要な足跡を残した人物だ。バルサを退団した理由は関係なしにね」と過去の禍根を抜きに、現在はクラブとトップチームのリレーションシップディレクターを務めるアモールに、3人の魅力と思い出について語ってもらった。

 まずアモールがカンテラ(下部組織)に在籍し、公式戦ではボールボーイを務めていた頃、ラ・マシアの窓から練習する姿を見ていたのがシュスターだった(訳者注/バルサのトップチームの練習はかつてカンプ・ノウに隣接するグラウンドで行われていた。そこに下部組織の選手寮、ラ・マシアもあった)。

「シュスターは、後の私のキャリアに大きな影響を与えた。バルサに入団した頃、彼はまだ20歳に過ぎなかったけど、すでにベテランのような貫録溢れるプレーを見せていた。特にFK、パス、サイドチェンジとキックの精度が素晴らしくてね。それまで目にしたことのないような蹴り方をしていた。キックと展開力は格別だった」
 
 同じく「特別な選手だった」と振り返るのがフィーゴだ。

「フィーゴはテクニックに加え、身体能力にも恵まれていた。スキルフルかつ重心の低いドリブルは、そんな彼の持ち味が活かされていた。人柄も気さくで、特にカンテラに在籍する選手たちには常に愛情深く接していた。試合中も相手にボールを取られそうになると、『俺によこせ』と真っ先に声を張り上げる選手だった。彼はバルサで幸せだったんだ」

 2000年夏にフィーゴがマドリーに移籍し、その決断が「裏切り行為」として今なおバルサファンから非難を浴びているのは周知のとおり。その6年前に同様の決断を下しながら、そこまで遺恨を生まなかったのがミカエル・ラウドルップだ。

 当時の監督、ヨハン・クライフとの関係は「これ以上我慢できない」と公言するほど冷えて切っていたこととも関係したのかもしれない。いずれにせよ、ラウドルップは、「キャリアの中でもっとも多くのことを学んだのがクライフだった」とも語っており、感謝の気持ちを忘れてはいない。

 その魔法がかったようなプレーで当時の若手選手の間には多くのラウドルップ崇拝者が生まれたが、アモールもその一人だった。ラウドルップと言えばバルサで初めてファルソ・ヌエベ(偽の9番)を確立させた選手でもある。アモールはその役割をこう分析する。
 
「ミカエルは“酸素”と呼ばれていた。チームで果たしていた役割を評してね。当時のバルサのポゼッションサッカーは完成の域に達していた。誰もが右サイドバックから左ウイングに至るまで周囲の選手がどこに位置しているか頭にインプットしながらプレーしていた。それがショートパス主体のスピードのある攻撃の支えにもなっていた。

 でももちろん、攻めあぐむ試合や時間帯はあった。チーム全体の調子が上がらない時や、相手が研究して守りを固めてくる時などにね。そんな場面で、私たちにとって唯一といっていい解決策が、ミカエルを探すことだった。長い時間ボールを触ることができず、突然60メートルのロングパスを受けるような状況でも関係なかった。前線を幅広く動き回りながらパスを引き出し、ワンプレーで局面を打開する機会を常に伺っていた。決して逃げることなくね」
 
 アモールのラウドルップへの賛辞はさらに続く。

「それまでミカエルほど1対1の突破力に長けた選手を見たことがなかった。DFの背後に抜け出してボールを受ける場面と、静止した状態から1対1を仕掛けなければいけない場面では全く難易度が異なる。ましてや相手の守備陣が整っていようものならなおさらね。