【写真で振り返る】印象的なクルマのカラーリング ガルフ、マルティニ、レナウン、555
印象的なカラーリングとは?text:by Al Suttie(アル・サティ)
レースにおける成功で記憶に刻まれることもあれば、映画に登場するクルマとして有名になったものもある。いずれにせよ、クルマの歴史で人々の印象に残っているカラーリングは数多い。今回はレーシングカーからロードカー、ラリーカーなど、様々なクルマの印象に残っているカラーリングを挙げてみよう。あなたのお気に入りはどれだろうか?
ガルフオイル・カラーのフォードGT40
ブリティッシュ・レーシング・グリーン
モータースポーツの人気が高まった20世紀初頭、国籍を表すナショナル・レーシング・カラーというものが採用されるようになった。英国がグリーンを選んだ理由は、1903年にアイルランドで行われた国際レースに由来する。当時、アイルランドは大英帝国に属していた。そこで英国の出場車であるネーピアは、開催地に敬意を表し、アイルランドのシンボル・カラーであるシャムロック(クローバー)グリーンに車体を塗装したのが始まりとされている。
当初は明るいグリーンだったが、後にマニュファクチャラーによって様々な色調のグリーンが用いられるようになった。1920年代にはベントレーが使用した深緑が有名だ。続いて第二次大戦後にジャガーも濃いグリーンを車体色に採用した。一方、アストン マーティンはより明るい色調のメタリック・グリーンを好み、DBシリーズのレーシングカーに用いた。
ブリティッシュ・レーシング・グリーンのベントレーガルフ・レーシング
ブランドにとって、ひと目でそれとわかることが大事な世の中になると、米国のガルフオイルは青とオレンジ色を組み合わせたカラーリングをレーシングカーのボディに採用。この有名なガルフ・レーシング・カラーは、すぐに耐久レースにおける成功と同義になった。特にル・マンでは、このカラーリングを初めてまとったフォードGT40やポルシェが活躍を見せ、24時間レースを青とオレンジ色で彩った。
しかし、このガルフ・レーシングのカラーは、実はウィルシャー・オイル・カンパニーが発祥だ。1960年代当時、ガルフオイル自身のコーポレート・カラーであるダークブルーとオレンジ色は、サーキットでは目立たないと同社の経営者が判断し、買収したウィルシャーのカラーを使用するようになったのだ。このカラーで塗られたレーシングカーの歴史には、フォード、ミラージュ、マクラーレン、アストン マーティン、ポルシェが名を連ねる。
ガルフ・レーシング・ポルシェフェラーリ・レッド
赤いフェラーリの伝統は、同社がレース活動を始めた初期にまで遡ることができる。しかし、それから数十年の間に、フェラーリはこの赤の色調をたびたび調整している。特にカラーテレビが普及すると、フェラーリはもっと画面で映える赤にしたいと考えた。
それが、ロッソ・コルサ(レーシング・レッドを意味するイタリア語)と呼ばれる赤だ。以来、フェラーリのファクトリー・レースカーは、すべてこの色をベースにしたカラーで塗られている。テレビの普及に合わせて、より明るく、オレンジ色に近い色調になったが、2007年のモナコ・グランプリでフェラーリは、より濃いオリジナルの色調に回帰。それから現在まで、同じ色調にこだわっている。例外的に、F1では何度かノーズコーンを黒く染めたこともある。一度目は2001年9月、同時多発テロ事件の犠牲者に対する哀悼の意を込めて。そして二度目は2005年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世の崩御により、喪に服した際のことだ。
真っ赤なフェラーリF40アラン・マンのフォード車
ロータス・コルティナが白と緑のカラーで有名になったように、アラン・マン・レーシング・チームのフォード車も独特のカラーリングで人々の記憶に残っている。同チームから出走したGT40やエスコート、コルティナなどのクルマは、すべてゴールドと赤で塗りわけられていた。
アラン・マン(1936-2012)は航空会社を経営する片わら、1960年代から70年代にかけて自身のレーシング・チームを運営していた。しかしながら、なぜか彼は所有するヘリコプターを、サーキットで彼の名前を有名にした赤と金ではなく、黒、白、黄色で塗っていた。
アラン・マン・レーシングのフォード・エスコートアウディ・クワトロ
1980年に登場したアウディ・クワトロは、4WDでラリーの世界に衝撃を与えたのみならず、そのカラーリングでも鮮烈な印象を残した。様々なスポンサーのステッカーで飾り立てるのではなく、アウディはシンプルな白をベースに、赤、黒、グレーを組み合わせたストライプをボンネットやルーフ、Cピラーに施していたのだ。
このカラーリングは明らかに人目を引き、アウディの意図どおりクワトロという全輪駆動の宣伝にも確かな効果を発揮した。後にこのカラースキムはスポンサー・ロゴと組み合わせて用いられ、後期のラリーカーでは太いイエローのストライプがサイドに入れられた。しかし、当初の最も高潔なカラーリングは、1988年に米国のSCCAトランザム・シリーズを席巻した200クワトロ・トランザムのレースカーで復活した。
アウディ・クワトロフォード・マスタングのハイランド・グリーン
映画『ブリット』のマスタングほど、1つのクルマに映画が多大な影響を及ぼしたことはあまりないだろう。スクリーンの中でこのクルマのステアリングを握った主演のスティーブ・マックィーンから、サンフランシスコで繰り広げられた見事なカーチェイスまで、あらゆる要素がマスタングに脚光を浴びさせた。その控えめなメタリック・グリーンのカラーが、また完璧に似合っていた。
映画が封切られると、すぐにハイランド・グリーンはマスタングの人気色となった。とはいえ、映画に登場するGT390ファストバックは希少なモデルだ。2001年、フォードは当時のマスタングをベースにブリットという限定モデルを設定し、このカラーを復活させる。2008年と2009年、そして2019年にも、ブリット・マスタングは発売されている。
映画『ブリット』に登場したフォード・マスタングBMW CSLのゲッサービール・カラー
オーストリアのゲッサービールがスポンサーを務め、アルピナが走らせたBMWのレースカーは、1976年の欧州ツーリングカー選手権で圧倒的な強さを誇った。鮮やかなグリーンにストライプを入れたカラーリングによって、このBMW3.0CSLはサーキットで最も目立つクルマでもあった。
最終的にBMWはポルシェに敵わなかったものの、ディーター・クエスターとロニー・ピーターソンが駆るCSLは、ファンの記憶に焼き付いている。シンプルなカラーリングと最小限に留めた文字は、テレビ映りを考慮したものだ。その一方で、仰々しく壮観な姿もサーキットでは目を引いた。
ゲッサービール・カラーのBMW3.0CSL※ 記事初出時は英国版の原文通り「シュニッツァー」としていましたが、「アルピナ」の間違いです。読者・関係者の皆様にご迷惑おかけしましたことをお詫び致します。
ランチア・デルタのマルティニ・カラー
マルティニの赤と紺と水色のストライプをまとったクルマは枚挙にいとまがないが、世界ラリー選手権を戦ったランチア・デルタほど強く印象に残るクルマは少ないだろう。悪名高いグループBの時代から、その後に続くグループAにわたり、デルタの角張ったスタイリングはスポンサー・カラーを施すのに最適だった。
初めてマルティニ・カラーでラリーに出場したクルマはデルタではない。1978年のポルシェが先だ。しかし、イタリアのブランドあるランチアは、同国からグローバルな展開に向けた宣伝を求めていたマルティニと契約を結ぶ。両者が最初にタッグを組んだ037に続き、デルタは数世代にわたり大きな成功を収めた。その活躍は、ディディエ・オリオール、ユハ・カンクネン、マルク・アレンなどの名前と共に記憶されていることだろう。
マルティニ・カラーのランチア・デルタランチア・ストラトスのアリタリア・カラー
ランチア・ストラトスがラリーにデビューした時、アリタリア・カラーはこのクルマと完璧にマッチしていた。イタリアで最高のラリー・チームと同国の航空会社の組み合わせだったのだから、それも当然と言えるだろう。しかし、実はこのカラーリングをデザインしたのは、ドイツ人のウォルター・ランドー(1913-1995)だった。ランドーは1967年からアリタリアのコーポレート・アイデンティティを手掛けていた。
白をベースに緑と赤を組み合わせたこのカラーリングは、ストラトスのウェッジ・シェイプに施されるとすぐに強い効果を発揮した。異なる型式の航空機にも容易に適用できるようにという要求に応えたランドーのデザインを、ストラトスのボディに施すことは簡単だった。そしてそれは、世界中を転戦するラリーにおいてランチアの成功を印象づけることにも貢献した。
アリタリア・カラーのランチア・ストラトスロータスのJPSカラー
初期のブリティッシュ・レーシング・グリーンにイエローのストライプから、1960年代後期のゴールドリーフ・カラーなど、ロータスのレースカーに施されたカラーリングは印象深いものが多い。だが、中でも傑出しているのが、1972年から1978年までロータスのF1マシンがまとっていたジョン・プレイヤー・スペシャルの黒と金だろう。
タバコ会社の資金がF1グランプリ界に大量に流れ込んでいた時代、ロータスはファンに強烈にアピールするまったく新しいレベルの宣伝を展開した。同社の所有する飛行機まで黒と金で塗られ、F1マシンと同じチーム・カラーが施されたロードカーのエスプリさえ販売されていたのだ。このことは、ロータスを率いるコリン・チャップマンが、いかに先見の明を持っていたかを示している。チャップマンはこの時、モータースポーツにおいて優れたカラーリングが人々に強い印象を与え、効果的なブランディングになるということを理解していた。
JPSカラーのロータス72ル・マンを制したマツダ787B
マツダのグループCレースカー、787Bには特別な点がいくつもある。1991年のル・マン参戦車に施されていた鮮やかなカラーリングもその1つだ。服飾メーカーのレナウンによるそのカラーリングは、布地に見立てた緑とオレンジ色を白いステッチで縫い合わせたチェック柄を模したデザインだった。
幸運にも恵まれ、個性的なカラーリングのマツダ車は、1991年のル・マン24時間レースで総合優勝に輝いた。これによって緑とオレンジ色のカラースキムも世界中から注目を浴びた。日本車として初めてのル・マン制覇であり、ロータリー・エンジンを搭載した唯一のル・マン優勝車でもある。これを記念して、英国マツダは同じカラーリングを施した24台のMX-5を製作。優勝ドライバーの1人であるジョニー・ハーバートは1台ずつ、そのすべてにサインを書き入れた。
レナウン・チャージ・カラーのマツダ787Bマクラーレンのマールボロ・カラー
F1でタバコの広告が禁止される以前、1974年から1996年のマクラーレンは最も印象的なカラーリングを採用していたチームの1つだった。モータースポーツに詳しくない人でも、シンプルな赤と白で大胆に塗り分けたカラーリングはすぐにそれとわかったはずだ。テレビが白黒からカラーに変わっていった時代、マクラーレンのマールボロ・カラーは完璧に際立っていた。
マクラーレンはマールボロと契約していた23年の間、カラーリングを大きく変えたことはほとんどなかった。しかし、1986年のポルトガル・グランプリでは、ケケ・ロズベルグのマシンが黄色と白を組み合わせたマールボロ・ライトのカラーで塗られたこともある。1980年代初頭にはアルフォ・ロメオのF1マシンもマールボロの赤と白を使用したが、マクラーレンとはレイアウトが異なっていた。
マールボロ・カラーのマクラーレンMP4/2BMGメトロ6R4のコンピュータビジョン
好戦的なMGメトロ6R4には、多くのユニークなカラーリングが施されていたが、それらの中でも最も記憶に残っているのは、青と白のコンピュータビジョン仕様だろう。これはMGブランドでラリー参戦を計画した当時のオースティン・ローバーが、6R4に多くのハイテク素材が使われていることをアピールするため、コンピュータ支援デザインという先駆的分野からスポンサーを見つけたと言われている。
このカラーリングと結びついて思い出されるのが、ドライバーのトニー・ポンドの活躍だ。ポンドは非常に才能豊かなラリードライバーで、1985年のスキップ・ブラウン・グウィネズ・ラリーではアウディ・クワトロを抑え、メトロ6R4に初優勝をもたらした。アウディ・クワトロは6R4の開発における着想の基となったクルマだった。
コンピュータビジョン・カラーのMGメトロ6R4ミニ・クーパーSの赤と白
ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)は、オースティン・ヒーレーのラリーカーで、赤いボディと白いルーフを組み合わせたことがある。しかし、これが伝説的なラリー・マシンとなったミニ・クーパーSに使われるのは、しばらく経ってからのことだ。最初にこのカラーリングをまとったミニ・クーパーSは、攻撃的なドライバーとして知られるビル・ロジャースの手によるものだった。ロジャースは、友人に貸したミニがダメージを受けて戻ってくると、赤いボディとは別の色でルーフを再塗装したらどうかというペイントショップの提案に、それなら白で塗ってくれと頼んだ。車内にこもる熱を少しでも反射できると考えたからだ。
BMCは1962年からミニに赤と白のカラーリングを採用。この時には、赤いボディと黒いルーフを組み合わせた車両もあった。ボディに赤が選ばれた理由は、ラリーで走り抜ける欧州の国々では、赤いクルマは警察官に優先してもらえる可能性が高いからという伝説がある。
赤/白に塗り分けられたミニ・クーパーSオペル・マンタのヒート・フォー・ハイヤー
この力強いカラーリングは、オペル・マンタ400だけでなく、そのドライバーだったラッセル・ブルックスと結びついて思い出される。2度の英国ラリー・チャンピオンとなったブルックスは、1974年にアンドリュース・ヒート・フォー・ハイヤーと契約を結ぶ。その関係はブルックスが引退するまで続いた。
17年以上にわたり、ブルックスと彼のスポンサーはラリー・ステージで常に人気の高い傑出した存在だった。その間にブルックスが巧みに操るオペル・マンタ400は、ラリー・ファンにとって1つのアイコンとなっていった。1985年にブルックスが英国ラリー選手権チャンピオンに輝くと、黄色、赤、青を組み合わせたカラーリングはエンスージアストの心に深く刻まれた。
ラッセル・ブルックスのオペル・マンタ400ブラバムのパルマラット・カラー
イタリアの食品会社であるパルマラットは、F1の世界に多大な影響を及ぼした。その青と白を組み合わせたカラーリングは、他の多くの優れたカラーリングと同じく、シンプルで目を引くデザインだ。とはいえ、この印象的なカラーリングが採用されたのは、パルマラットがブラバム・チームのスポンサーとなってから2年後の1980年のことだった。
この年、チームはアルファ ロメオ製エンジンを失ったものの、ゴードン・マレーがデザインしたBT49と、それに乗るネルソン・ピケが大活躍。テレビの画面に映る時間が増え、青と白のカラーリングはすぐに効果を発揮した。1982年にBMW製エンジンを獲得すると、ノーズコーンがBMWのロードカーの特徴であるキドニーグリルを模したデザインになった。
パルマラット・カラーのブラバムBT52Bプリマス・ロードランナーのSTPカラー
ピンチに陥っていたリチャード・ペティ(1937-)と彼のNASCARレーシング・チームには、最後の瞬間に幸運が転がり込んだ。1972年、ペティのチームはメインスポンサーが決まらないままシーズン開幕戦を迎えようとしていた。そこでペティは最後の賭けに出る。米国のオイルと燃料添加剤メーカーであるSTPと交渉に臨んだのだ。賭けは見事に当たり、白、赤、青のSTPのロゴは、すぐにペティのレースカーと同義になった。
STPにとっても同様にこの契約は成功だった。プリマス・ロードランナーに乗るペティは開幕戦でいきなり優勝。その後も7勝を挙げ、自身4度目となる選手権タイトルを獲得したのだ。両者の深い結び付きを示すように、STPはスポンサーしていた他のレースカーもペティのレースカーと同じカラーリングに変更した。ペティは現役を引退する1992年まで、STPのロゴが描かれたマシンに乗り続けた。
リチャード・ペティのプリマス・ロードランナーポルシェのピンク・ピッグ
レースの歴史において最も風変わりで楽しいクルマのカラーリングの1つは、ジョークから生まれた。噂によると、ポルシェの耐久レース・チームをスポンサーしていたマルティニは、1971年用マシンの917/20を見たとき、その不格好さに嫌悪感を示し、同社の象徴的なカラーリングの使用を許可しなかったという。そこでカラーリングのデザインを一任されたアナトール・ラピーヌ(1930-2012)は、「ピッグ」と呼ばれる視覚的な遊びを、このポルシェに施した。
豚肉の部位を示す図表から着想を得たラピーヌは、917/20のボディワークを切り分けるように破線を入れ、豚肉の各部位を表す言葉を書き込んだ。遊び心から生まれたこのカラーリングは思いがけず、コース上で最も識別しやすいポルシェのカラーとなった。クルマ自体の速さもなかなかのもので、1971年のル・マン24時間レースでは一時、総合5位まで順位を上げたものの、事故によるダメージを受けてリタイアに終わった。
ピンク・ピッグと呼ばれたポルシェ917/20スバル・インプレッサの555カラー
スバルの世界ラリー選手権参戦車ほど、モータースポーツからロードカーに転移されたカラーリングも少ないだろう。そのダークブルーをベースとしたカラーは、1995年シーズンにコリン・マクレーとカルロス・サインツがチームメイト同士の激しい闘いを繰り広げたクルマの雰囲気だけでも手に入れたいと願うファンの間で人気が高い。
ボディに描かれたタバコ銘柄のロゴに加え、もう1つの特徴はゴールドに塗られたホイールだ。他のクルマではまず間違いなく野暮ったく見えてしまうものだが、インプレッサにはこれ以上ないほどクールに決まっていた。これより前の時代には、同じカラーリングを施したレガシィRSがラリーに参戦していたものの、コンパクトなインプレッサほどカッコよく見えなかった。
555カラーのスバル・インプレッサ
