【城彰二の転機】フリューゲルスではなく、「ジェフに行く」と決断した運命の選択

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意外なことに、城彰二はずっと冷静だった。

選手は持ち上げられると天狗になって足下を振り返らず、いざ引退してから困ることになってもおかしくない。

Jリーグでの華々しいデビュー、1996年アトランタ五輪、さらに1998年フランスワールドカップへの出場と日の当たる場所を歩きつづけた彼ならば、そんな危険性は大いにあった。

ところがプロ入り前のチーム選びから引退後のことまで、常に前もってしっかりとしたイメージがあったのだ。

それぞれの「転機」で城は何を考えていたのか。

ヤンチャそうに見える姿とは裏腹の、鋭い目で己を見つめてきた彼の本当の姿を聞いた。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平, (c)J.LEAGUE】

「プロ生活は1、2年で終わりだろう」


1994年に鹿児島実業高校を卒業するとき、一応プロからのオファーはたくさんいただきました。たぶん、4クラブからいただいたと思います。

でも実は、先輩の前園真聖さんや、もっと先輩たちから横浜フリューゲルスへのラインが強くできてましたね。みんなフリューゲルスに行くという流れができていたので、僕も最初「フリューゲルスに行け」みたいな感じだったんです。

高校生のときには、フリューゲルスの何かの祝勝会というかパーティーに参加させられました。そのパーティーでは、よくわからないまま挨拶もさせられて、レールが敷かれる感じになっていたんです。

ただフリューゲルスは当時、元日本代表の前田治さんや、他にも外国籍選手のいいFWがたくさんいて、「まぁ自分が試合に出られるような枠は絶対ないだろうな」と思っていました。

それであるとき、何の気なしにJリーグの選手名鑑を見てたんですよ。各チームのFWとか見てたら、たまたまジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)のところで目が止まって。

FWの1人はオッツェこと、元西ドイツ代表のフランク・オルデネビッツがいたんです。1993年のシーズン途中からジェフに入って大活躍してました。

けど、他のFWの選手の中に、まだチームの核になっているような人がいなかったんです。

新村泰彦さんは大学4年連続得点王だったんですけど、まだ苦労してらっしゃいました。他のチームのFWを見ると2桁得点の選手がざらにいて中心になっていました。

それで、ジェフのそういう状況を見た瞬間にインスピレーションだけで、「もしかしたらオレ、このチームに行ったら試合に出られるんじゃないか?」って。それだけ思って。

選手名鑑見ただけなんですけど、何か、自分の中でなんか……。ジェフのことはホントに知らなかったんですけど……、でも何か感じるものがあったんでしょうね。

それに何か、うーん、あの当時、よくわかんないんですけど、「ジェフに行けば試合に出られる」って自信があったんですよ。

それで松澤隆司監督(故人)に話しに行ったんですよ。

ジェフからのオファーって全くなかったんですけど、監督に「僕はジェフに行きたいです」って話をして。監督は「何を言ってるんだ?」みたいな感じになって。

でも僕には強い思いがあって、監督に「ちょっとジェフと話をしてほしいんです」とお願いしました。

監督も「お前はバカじゃないのか?」って言いながらジェフに連絡を取ってくれて。それで千葉県の舞浜のホテルでジェフの人と監督に時間を取ってもらって会いに行ったんです。

その場で僕は「実は僕、ジェフに入りたいんです」ってこっちから切り出して。

すると向こうは、「いやいや何を冗談言ってるんだ」みたいな。それから「うちはもうこれ以上、選手を取れない」って言われてしまって。

「いろんな選手にお金を使ってしまって予算がもうないので、あなたを取るような余裕はないです」って言われたんです。

完全にお断りの言葉ですね。

それで僕は「いやぁもうぜひジェフに入りたい」って力説して。「お金なんてそんな問題じゃないんです」って話をして。

他のチームからのオファーは年俸1000万円から1500万円だったんです。

ところがそのとき「別にお金じゃない」って言ってしまったもんだから、そうしたらジェフからは「本当に予算も終わったから、まぁ本当に出せるんだったら500万円ぐらいです。それだったら考えます」って言われて。

交渉に同席してもらった監督はビックリしてました。「お前、何を言ってるんだ?」みたいな感じになって。

でも僕はジェフの人から言われて「ぜひお願いします」って。それでジェフに決まったんです。ジェフに決めたことについて、親は別に何も言ってなかったですね。

それでジェフに入ったんですけど、プロの世界って厳しかったし、練習はついていくのも大変でしたし、ずっとBチームでプレーしてたんです。

契約メーカー(シューズのスポーツメーカー)は僕がそんなに活躍するとは思ってなかったんで、契約金なんかなかったんですよ。物品提供してもらっただけで。

ところが開幕戦の前日にレギュラーの人がケガをするというアクシデントがあって、偶然試合に出られることになって。そこでゴールを挙げて、4試合連続でゴールして。ホントに運があったというか。

チームもフロントも僕が試合にそんなに出られるとは思ってなかったでしょうから、コストパフォーマンスはよかったでしょうね。

2年目からはクラブも考えてくれて、プロですから年俸に反映してくれて、もう一気に何倍という金額になりました。契約メーカーも慌ててて、お金じゃないですけど、置時計や腕時計をくれました。

ただホントを言うと、「試合に出られるかもしれない」と思ってジェフに入ったけど、開幕戦から出られるとは思ってなかったんです。

本当に選んだチームがよかったというか。これがフリューゲルスや他のチームに行ってたら、きっと出られなかったと思います。ジェフに行ったことがついていたというか……そうですね。

それに、僕は「プロの世界に飛び込んでいきたい」という思いはあったんですけど、そこで通用するとは思ってなかったんです。

うちの父親は会社の経営者で、「お前はプロでは通用しないだろう。そんな甘い世界じゃないから会社を作っておいたほうがいいぞ」ってアドバイスしてきて、僕も「そうだね」って。

だから自分の今の会社をプロ1年生のときに立ち上げました。「プロ生活は1、2年で終わりだろう」と思ってたんで、リスクマネジメントで他の仕事ができるように株式会社だけ設立しておいたんです。

現役をやめた後、どんな分野でも仕事ができるように会社だけ作ったって感じです。当時って、新卒の選手は3年間面倒見ようという育成の枠みたいなのはなくて、若手からベテランまでみんな1年契約ばっかりだったんで。

プロ生活を経験させてもらう中で、1年、2年でクビになる選手も見てきて、いつも明日は我が身だと思ってました。だから自分の感覚と世間の評価が反比例してたというか、そんなことはずっと感じてました。

【(c)J.LEAGUE】

「ウィース」から「こんにちは」へ


引退したとき、それまでとは生活ががらりと変わるんですが、まぁでもやっぱり引退する1、2年前から「そろそろなのかな」という感覚もありましたから、心構えはしてて。

自分は、昔から言ってるんですけど、「サッカーバカ」になりたくないと思ってました。サッカーだけやってればいいとは思ってなかったんで。

とにかくサッカーを終えたときに何をするのかというプランをよく自分でも考えてましたね。

狭いサッカーの世界の中では、あいさつひとつ取っても、一般社会のように「こんにちは」っていう業界じゃない。「ウィース」とか、そんな感覚で話をしますよね。

そういうところから違うと思ってましたし。現役を引退した瞬間から「もうサッカー選手じゃない」という割り切りはハッキリできたと思います。

確かに現役時代のままの感覚で引退後もやってる人はいますけど、僕は「サッカー選手はサッカー選手で、それはそれで終わり」「もう新しく社会人1年生としてどうしていかなければいけないか」ということを考えちゃって。

今までのサッカーの経験とかプライドとか、いろんなもの、実績も含めて、全部ゼロにして、社会人1年生として新しいスタートを始めるという感覚でした。それが当たり前だと思いましたから。

腰を低く頭を下げるというのも当たり前です。

現役が終わっても上から目線っていう人もいますけど、僕はそういうのがなくて。自分はこれから社会人として成長しなければいけないと思いましたし。あいさつして頭を下げるのは当然です。

テレビの世界のお仕事をいろいろいただいて、その中で自分もちゃんと勉強しなければいけないということで、日本テレビさんに勉強したいとお願いしたら、日テレ学院のアナウンススクールに誘っていただいて、通ってました。

僕がこういう考えを持てたのは、サッカー界の中でいろいろ経験したからだと思います。

ワールドカップもそうだし、いろんなことで揉まれて、挫折を味わって自分はどうならなきゃいけないんだとか考えました。

だから本当にサッカーはサッカーでやったけれども、それは過去の、うーん、栄光というか、それだけであって、今、自分としては、ひとりの社会人として次はどうしなければいけないかというのを考えなきゃいけないと、そう思わさせられたことがたくさんあったので。

だからこそ気持ちの切り替えが、自然にできたんじゃないかと思います。

「過去にすごい栄光のときがあったかもしれないけど、今は違うでしょ」って言いたい人がたくさんいますけど、僕の中ではちょっとどうしてそうなるのがわからないですね。

ワールドカップの時期が来るたびに、僕もメンバーだった1998年フランスワールドカップの話が出ますが、自分はあそこにいたんだぞ、ということではなくて、そういう経験をさせてもらったという形で思っています。

だから「あのときはすごかったですね」って言われるんですけど、「あのときはあのときですから。今はこうですから」ってよく言いますよ。現役選手生活はたまたま13年、プロの世界でやらせてもらったんです。

会社はおかげさまでいろいろこれまでにもやりました。現役のときも、レストラン経営をやったり、他のチャレンジをやったりしました。

現在、会社の業務のメインは一応、僕のマネジメントみたいな形です。でもこれからいろいろ展開したいと思ってます。

結局誰も助けてくれないですから。そういうのもプロの厳しい世界に揉まれてきたんで、身に染みました。ダメになればみんな離れていくし、よければみんな付いてくるし。

そういう酸いも甘いもみんな経験できたんで、だから冷静になっていろんなことが見られるんだと思います。プロ生活もそうですけど、ある時期、本当にいろんな体験をさせてもらったからこそ今があるので。

だから逆に恩返しがしたいというか。

日本のサッカーには盛り上がってほしいし、たくさんの人に注目してほしいと思います。(了)


城彰二(じょう・しょうじ)

1975年6月17日、北海道生まれ。高卒ルーキーとして開幕から4試合連続ゴールを挙げるなど、日本を背負って立つFWとして注目を集めた。日本が28年ぶりに出場を決めたアトランタ五輪でもエースとしてプレー。さらに初のワールドカップ出場を決めたイランとの試合では同点ゴールをヘディングで叩き込んだ。