日本の現行刑訴法が抱える「最大の問題点」…検察が都合のよいものだけを出す裁判の理不尽

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約1分の勾留質問で164日間勾留、検事の作文で作られる供述調書、証拠改竄や捏造……。

おどろきの刑事司法 “犯罪者”の作り方』(村木厚子 著)では、冤罪に巻き込まれた著者がみた驚愕の刑事司法の実態が明かされています。

本記事では、〈なぜ日本の裁判は「調書依存」から抜け出せないのか…終戦直後の治安悪化と深刻な裁判官不足が引き金だった〉に引き続き、現行刑訴法の最大の問題点とその歴史について詳しく見ていきます。

(※本記事は村木厚子『おどろきの刑事司法』より抜粋・編集したものです)

検察官手持ち証拠の不開示

現行刑訴法の最大の問題点は、検察が持っている証拠の全面開示制度がないことです。

裁判員裁判の開始を機に導入された公判前整理手続では、弁護側は検察側が取調べを請求した証拠のほかに、その証明力を判断するために重要な証拠と弁護人の主張に関連する証拠について開示請求できますが、公判前整理手続が義務付けられている事件は全事件の約2%にすぎません。それ以外の事件では、開示に応じるかどうかは検察官の任意とされています。仮に、被告人に有利な証拠があったとしても、どんな証拠を相手が持っているのかわからなければ、暗闇の中を手探りで探すようなもので、開示請求しようがありません。

実は、現行刑訴法が制定された時、検察官手持ち証拠のほとんどが開示されないという事態は、誰も想定していなかったということです。戦前は職権主義ですべての証拠が裁判所に提出されていたので、証拠を隠すなどとは思いもよらず、実際に昭和30年代頃までは、少なくとも弁護人が請求すれば、検察はどんどん手持ち証拠を出していたようです。

ところが、新しい刑訴法(現行刑訴法)を読むと、検察官は有罪立証に必要な証拠を提出することになっていて、「すべての証拠を開示せよ」とは、どこにも書いてない。そのことに気付いた検察は、「当事者主義の下では、検察、弁護側双方がそれぞれ集めた証拠で裁判を闘うのだ」と都合よく解釈した、と言う人もいます。

また、時代背景として、当時多発していた公安事件で検察官が手持ち証拠を出すと、それに対する反証を被告人側の団体に組織的に準備されてしまうからだった、と言う人もいます。ここで言う公安事件とは、終戦後、戦前戦中の禁圧が解けて1気に多発した労働争議や、第一次安保闘争(昭和34〈1959〉年から翌年にかけて展開された日米安全保障条約改定に反対する闘争)のような反政府運動に関係する事件です。

公安事件で、弁護側からの証拠開示請求に応じないようにしたところ、検察は「そのほうが裁判を有利に進められる」という手応えを得ました。そこで検察は、このやり方を公安事件に限らず、一般の事件にも広げ、証拠の開示を大幅に絞るようになったのではないか──そう考えられています。その結果、検察は有罪を立証するために都合のよい証拠だけを裁判に提出するようになりました。そして、「刑事訴訟法はそういう仕組みなのだから、弁護側は弁護側で、自分たちで証拠を集めて裁判で出せばいいではないか」という姿勢で、公判に臨んでいるのです。

今の裁判官は、そういう“慣習”のなかで実務経験を重ねてきているので、検察官が一部証拠しか開示しないのを当たり前だと思っています。必要な証拠を検察に徹底的に出させて、法廷でそれをもとに正しい判断をしようという気概が裁判官にないことが、本当に不思議でなりません。

「人質司法」に加担する裁判官

もう1つの大きな問題は、被疑者・被告人の勾留について、裁判所・裁判官が検察官の主張を唯々諾々と認め、結果的に「人質司法」に加担していることです。勾留は、被疑者・被告人の「身体の自由」を奪う強力な公権力の行使であるということを忘れて「人質司法」に加担する裁判官が多いことは、「勾留請求許可率96.2%」という数字に、如実に表れています。

かつて、各地の地裁では、勾留請求を却下した判事に対して、上司や検察から陰に陽に圧力があったと言われています。たとえば、昭和40年代前半に東京地裁の刑事14部(令状部。逮捕状や勾留状を発付する部署)で部総括を務めた環直彌さん(1921〜2017)は、被疑者・被告人の人権擁護の観点から、検察の勾留請求をどんどん却下しました。すると、東京地裁の刑事部の司法行政事務を担当する所長代行の判事が、令状部のどの裁判官が勾留請求を何件却下したかを主任書記官に調べさせ、報告させました。環さんは、すぐにその所長代行に抗議したそうです。ちなみに環さんは、戦中に司法官試補になり、終戦直前に検事任官、その後は裁判官、弁護士と法曹三者をすべて経験したユニークな経歴の持ち主です。

勾留請求をめぐって、検察が裁判所に対して、公然と圧力をかけることもありました。検察官の勾留請求をたびたび却下した元東京高裁判事の下村幸雄弁護士(1929〜)によると、時には、地方検察庁のトップである検事正から、地裁の所長に文句が来て、所長が、却下した裁判官を呼びつけて勾留状の発付を求めたこともあったということです。

上層部にこうした姿勢の人が多いと、判事や判事補たちは、次の人事異動や転任に影響するのではないかと、気にせざるを得なくなります。実際に下村さんは、首都圏の地裁から遠く離れた地方の公証人になるために退官を勧められたり、居住している官舎からは通いにくい地裁支部への転出案を提示されたりしたそうです。断ると、「ほかに適地はない」と突っぱねられ、やむなく退官届を出したとのことです。

さすがに今では、検事正が、地裁の所長に直接文句を言うことはないと思いますが、勾留請求を却下した裁判官に対して、検察官は苛立ちを隠しません。機会をとらえて文句を付けていることは容易に想像できます。それに対して毅然と立ち向かう裁判官は稀で、検察官が勾留請求に付けてくる意見ばかり気にして、「こういうふうに見てあげればいいかな」と、検察寄りで判断してしまう人が多いのではないかと心配になります。

被疑者・被告人の勾留を裁判官があっさり認めてしまう背景には、裁判所側の事情もあるかもしれません。裁判官が検察官の勾留請求を却下すると、たいてい検察官は不服を申し立てます。そうなると、不服申し立てについて審理する裁判官が残業しなくてはならなくなるため、勾留却下の多い令状部の裁判官は、刑事部の裁判長から「この頃は帰りが遅くて困る」とイヤミを言われることもあるようだと、下村さんは著書に記しています。

勾留に限らず強制処分の令状を発付する権限を、憲法・法律が、検察官でなく裁判官にのみ与えていることを考えれば、検察官の請求を鵜吞みにしては、憲法・法律の期待を裁判官が裏切ることになります。その観点から見ると、国際的にも非人道的であるとの批判が絶えない「人質司法」がいっこうに改まらない現状には、検察だけでなく、裁判所の姿勢にも大きな責任があると言わざるを得ません。

裁判所と検察の親近性

前項で紹介した下村さんは、戦後の早い時期から、「検察官に対する親和性が自白調書を鵜呑みにさせてしまう」「裁判官の目は常に検察官の方に向けられ、裁判官が検察官と同化している」「日本の刑事裁判の実態は検察官司法である」などと、裁判所と検察の一体性を、裁判官として批判し続けました。そして、「もともと裁判官は『法と秩序』側に属する人間である。裁判官の心の中には検察官がいる。この内なる検察官の存在を自覚すること、そしてこの検察官を抹殺すること、このことが肝心かなめのところである」と警鐘を鳴らしました。

下村さんの言う裁判官と検察官の一体性は、今も延々と続いています。それはなぜなのでしょうか。

三権分立を認めた日本国憲法ができた時、司法権(裁判所)は検察を含む行政権を抑制して国民の人権を守ることが明確化されましたが、組織内の人は、終戦前とほとんど替わっていなかったからです。

戦前・戦中の裁判所は、司法大臣が監督する組織でした。そして検事局は、裁判所に「附置」(付属させて設置すること)され、司法大臣が監督・指揮していました。検事局には治安維持法などを担当する部署があり、担当検事は「思想検事」と言われていました。思想検事は、検事のなかでも成績がよく、部内の人事評価が高い人がなっていたようです。戦後、パージされたのは「思想検事」の一部だけで、ほとんどすべての司法官は責任を問われることなく職務を続け、高位の裁判官・検察官となりました。判事や検事は、いわば特殊技能者で、数も少なかったため、大量にパージしたら担い手がいなくなり、裁判が動かなくなってしまうからです。

憲法が変わり、刑訴法が変わっても、人員的な実態としては戦前・戦中と同じ人が司法官僚をやっていたという構図は、明治維新の時と瓜二つです。維新の時に奉行はクビになりましたが、実際に調べや裁きをしていた与力や同心などは、維新後もそのままでした。

戦後も残った旧世代の司法官から薫陶を受けた若い人たちが、次代の裁判官や検察官になったのですから、そのなかに、江戸時代の奉行所から延々と続く自白偏重や明治以来の調書裁判の伝統を継ぐ者が、かなりいたことは想像に難くありません。若い裁判官が無罪判決を出しても、上司である昔ながらの先輩が上級審でひっくり返すようなことも、あったと思われます。

また、現行刑訴法が動き出してすぐの頃には、調書をどのように扱うのか、勾留をどの程度認めるかなど、新刑訴法の運用をめぐる争いが頻発しました。その過程で旧世代の裁判官たちは、新憲法が求め、保障した「司法権の独立」よりも、「裁判官と検事は、元は司法官同士。一緒に刑事司法の運用を考えよう」と仲間意識を優先させ、かつ、旧刑訴法になじみきっていたために、現行刑訴法の旧刑訴法的運用にお墨付きを与える結果となってしまいました。

そうした気風や思考法が今も残るために、刑事司法の問題点が解消されないまま続いているように思います。

さらに〈誠実な公務員だったのに突然の逮捕…村木厚子氏が驚き、怒り、絶望した日本刑事司法の「暗部」〉では、村木氏が逮捕された経緯を詳しくみていきます。

●特に言及のない限り、登場人物の所属・肩書、法律や制度の名称・内容は、すべて当時のものである

【つづきを読む】誠実な公務員だったのに突然の逮捕…村木厚子氏が驚き、怒り、絶望した日本刑事司法の「暗部」