避難所で活動する保健師(右)。服用薬の名称が分からなくても色や形で判断できるよう、即席でサンプルが用意された=本人提供

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今野照夫さんの震災日記 3月13日<中>

 宮城県の北上総合支所の保健師は3人いた。

 このうち1人は業務で本庁管内に出ていて不在。もう1人は支所にいて、津波の犠牲になった。

 最年少の女性保健師は入庁7年目で、当時29歳。支所から北上川沿いに5キロほど上流の保健医療センター「ひまわり」で勤務中だった。堤防を越す津波の白波を見てサンダルのまま車に飛び乗り、山あいの追分温泉まで逃れた。住民らも70人ほど続々と避難してきて、大広間に身を寄せた。

 夜になって到着した住民の一人が「支所も消防も警察駐在所も駄目だ。みんな死んだ」と告げ、騒然となった。支所がある月浜地区の惨状を見てきたという。

 私は同僚を全員失ったんだ。保健師は頭が真っ白になった。

 救助がいつ来るかわからない。指示系統も失われている。だが、行政保健師には地域住民の健康を守る役割がある。たった一人になったとしても、生き残った住民を死なせてはならない。そんな思いが湧き上がった。

 保健師は数か月前に県主催の研修に参加し、阪神大震災で活動した保健師の話を聞いた。「遺体安置所で泥だらけの顔を拭くことしかできなかった」という経験談を耳にし、自分たちは何ができるだろうと、4歳上の同僚と話し合った。2人は要援護者や区長、民生委員の家を書き込んだ「災害マップ」を作り、被災下の対策をまとめた「災害活動マニュアル」を準備した。

 避難の混乱の中でも、この二つだけはしっかりつかんで逃げた。

 心強かったのは、橋浦診療所の只野光一医師のほか、歯科医師や栄養士らも追分温泉に避難していたことだ。マニュアルを参照しながら、保健師は翌朝、みんなを集めて役割分担を提案した。「力を貸してほしい」と伝えると、全員が賛同した。救護担当は只野さん。被災者の受け入れや炊き出しは追分温泉館主の横山宗一さん。全体のとりまとめ役は保健師と決まった。

 住民たちも協力を申し出た。米をかき集め、ガソリンや重油を確保する必要がある。「俺の車を使ってくれ」と言う人もいた。

 被災直後は仕事が山積していた。

 避難所の追分温泉や橋浦小学校で、住民の健康状態を尋ねていく。臨月の妊婦、経管栄養の高齢者、透析患者……。重篤なけがはなくても、医療器具や薬のない被災地に長くとどまるべきではない人たちが一定数いる。なるべく早く地区外に移すよう、避難所内で情報を共有した。

 このほか、「学校のトイレが流せない」と相談され、汚物用のごみ袋の用意や消毒液の作り方を指導した。エコノミー症候群予防に1日2回のストレッチも呼びかけた。

 北上中学校にたどり着いたのは12日の夕方だった。そこで支所長の佐藤直彦さんや今野照夫さんと再会したときの安堵(あんど)は、言葉では言い表せない。

 避難からここまでの活動の経過を報告した。うんうんと聞いていた佐藤さんが保健師に言った。

 「保健、医療、とにかく住民の人命に関する全てのことを、あなたに任せたい。もう誰もいねえんだ。頼む」

 保健師はうなずいた。