32年前に完全試合を達成した槇原寛己氏(本人の公式インスタグラムより)

写真拡大

 槇原寛己(巨人)が完全試合を達成したのは1994年5月18日。早いものでもう32年が経った。この快挙をリアルタイムで知らないプロ野球ファンも随分増えているのではないだろうか。

 9回2死、1塁ファウルフライを落合博満が捕って快挙を達成した直後、サードのポジションから駆け寄って槇原に抱き付いたのは長嶋一茂だった。あの光景は、その後何度も放映されているせいもあるだろうが、くっきりと瞼に焼き付いている。【小林信也(作家・スポーツライター)】

【写真】32年前、巨人・槙原が完全試合を達成した福岡ドーム(現・みずほPayPayドーム福岡)の姿

完全試合の中の完全試合

 槇原の記録達成以来32年、セ・リーグでは完全試合がまだ1度も達成されていない。
一方パ・リーグでは、2022年4月10日の対オリックス戦で佐々木朗希(千葉ロッテ)が達成した。この試合も異様な雰囲気に包まれていた。過去に今井雄太郎の完全試合もあったが、佐々木朗希ほど完璧に相手打線を封じ、「打てる気がしない」中での記録達成はほかにどれほどあっただろうか。

32年前に完全試合を達成した槇原寛己氏(本人の公式インスタグラムより)

 空振り三振15、見逃し三振4。奪三振19は日本タイ記録。1回2死から5回終了まで13連続三振。いまはMLBで活躍する吉田正尚が3三振を喫し、成す術なしといった表情でベンチに戻る姿が印象に刻まれている。佐々木朗希の快挙はまさに「完全試合の中の完全試合」だった。

 しかも佐々木は次の登板(17日)でも8回まで“完全”に日本ハム打線を抑えていた。試合が両チーム無得点、佐々木に疲労の色が見えたことから首脳陣が本人と話して途中降板を決め、「2試合連続完全試合」という世界にも例のない快記録は幻となった。高校まで投手だった私はいまでもあの時の降板を無念に思っている。続投すれば、記録達成の可能性は高かった。投手出身の監督なら迷うことすらなかったのではないだろうか……。

 2試合連続どころか、完全試合を2度達成した投手さえ、日本はもとより、MLBの長い歴史の中にもいない。しかし、目前まで迫った選手なら、佐々木以前にも実は存在していた。

でっちあげだった「親不孝伝説」

 1955年6月19日、武智文雄(近鉄)が対大映戦で日本プロ野球史上二人目の完全試合を達成した2ヵ月後の8月30日、同じ大映戦で9回1死まで無安打無走者。そこで八田正にセンター前ヒットを打たれ、偉業達成はならなかった。奇しくもこの日、武智には長女が生まれている。「奥さんが無事女の子を出産した」との連絡が球場に入り、考えた末にベンチが伝令を飛ばし、マウンドの武智に朗報を伝えた。その直後、武智は八田に痛打を浴び、快記録が消えた……。後にそんな伝説が語り継がれる。

「私は父の完全試合をダメにした娘です」

 武智文雄の長女・武智美保さんに会った時、初対面の彼女はそう自己紹介した。いまから10年前。彼女の話を中心に私は『生きて還る 完全試合投手となった特攻帰還兵 武智文雄』(集英社インターナショナル刊)というノンフィクションを出版している。

「生まれた時から親不孝だったんですね」

 自嘲気味に彼女は続けた。それを聞いて、返す言葉がなかった。完全試合にまつわる人生には様々なドラマがある……。だが後に私は、美保の親不孝伝説が、でっちあげられた濡れ衣だと突き止めた。当時の雑誌記事によれば、美保が生まれたのはその日の午前中だ。父・武智文雄は長女誕生の知らせを受け、弾む思いでマウンドに上がり、快投を演じたのだ。2試合連続はならなかったが、決して長女誕生の報せが記録を砕いたのではなかった。

完全試合って、やっぱりすごいんだなあ

 槇原寛己が完全試合を達成し、福岡から東京に戻った翌朝、私は雑誌「Number」の取材で槇原に会った。記録達成の興奮や余韻が槇原の明るい表情にあふれていた。

 自宅に近い世田谷美術館前、砧公園のベンチがインタビューに指定された待ち合わせ場所だった。公園を散歩する人たちが槇原を見つけ、「完全試合、おめでとうございます!」と声をかけて行く。槇原は、明るく応えながら呟いた。

「いつもとは違いますね。完全試合って、やっぱりすごいんだなあ」

 天下の巨人のエース投手、その前年には通算100勝を達成している槇原だから、見知らぬファンに声をかけられるのは日常茶飯事。だが、完全試合達成後の周囲の笑顔、その喜びようは格別だと、槇原自身も実感したようだ。

 インタビューで槇原は、こんな話をしてくれた。

「先発する少し前に、亡くなった広島の津田投手のドキュメンタリーを見たんです。すごく感動して」

 福岡で先発マウンドに上がる槇原の中に、特別な感慨があった、という。

 その番組は、《NHKスペシャル もう一度投げたかった 炎のストッパー津田恒美の直球人生》。前年の7月、脳腫瘍のため32歳の若さで亡くなった元広島カープの津田恒美の闘病生活を追ったドキュメンタリー。

 津田は1986年、血行障害などを克服し4勝22セーブを挙げて広島5度目のリーグ優勝に貢献、カムバック賞にも輝いた。89年には7年ぶりの2ケタ勝利も挙げ(12勝)、28セーブでファイアマン賞も獲得した。槇原にとっては3年先輩、眩しく背中を追いかける存在だった。その津田の無念と執念が、槇原に特別な力を与えた……。

投手の永遠の夢

 一方で、後に槇原は登板の二日前、福岡の繁華街・中州で痛飲し、深夜1時ころに堀内投手コーチ(当時)に見つかって「罰金5万円と外出禁止1ヵ月」を言い渡されたと、二宮清純さんのインタビューで告白している。外出禁止1ヵ月は厳しすぎる、マネジャーに抗議したら「次の登板の結果を見てから」と言われた。つまり、18日の登板は、その意味でも背水の陣だったというわけだ。

 ノーヒットノーランは過去10年間で14人が達成している(クライマックスシリーズで達成した菅野智之も含む)。MLBでも2020年以降だけで16人が達成。

 だが完全試合となるとMLBでも過去24回。2012年に1シーズン3人が達成という珍しい記録はあるが、それ以後は2023年の一度しかない。

「無安打無得点」に加えて「無走者」が完全試合。つまり四死球もエラーなどによる出塁もなし。投手の永遠の夢。この記録をMLBに渡った日本人で初めて達成するのは、誰だろう。

 日本で2度のノーヒットノーランを達成している山本由伸(ドジャース)か、日本で一度、MLBでも3人の継投でノーヒットノーランを経験している今永昇太(カブス)か、あるいは佐々木朗希(ドジャース)か大谷翔平(ドジャース)に、いつだって完全試合の夢を描いて試合を見るのが、投手出身者の習性だ。

スポーツライター・小林信也

デイリー新潮編集部