「比叡山焼き打ち」の犠牲者の慰霊法要(大津市の比叡山延暦寺/2021年9月撮影、写真:共同通信社)


 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第16回「覚悟の比叡山」では、浅井の忠臣・宮部継潤の調略を請け負った藤吉郎だったが、「子どもを人質に寄越すなら織田につく」と条件を出されることに……。今回放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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姉川の戦いの真実と、秀吉が近江で見せたフットワークの軽さ

「この横山城を死守せよ。戦支度が整い次第、またすぐに浅井を攻める」

 今回の放送では、織田信長が藤吉郎(のちの豊臣秀吉)にそう命じる場面があった。

 元亀元(1570)年「姉川の戦い」では、浅井・朝倉の連合軍に勝利した織田・徳川の連合軍だったが、徳川家の影響が色濃い江戸時代の史料によって、その勝ちっぷりがやや誇張されたらしい。
(前回記事「大河『豊臣兄弟!』で際立つ藤堂高虎の勇猛さと、腰が引けた朝倉義景の安全策が招いた「名門・朝倉氏」滅亡の必然」参照)

 もし、それだけの大勝利ならば、浅井や朝倉は壊滅的なダメージを受けているはずだが、実際には、両家が信長によって滅ぼされるのは、「姉川の戦い」から3年後のことである。

「姉川の戦い」では勝利したものの、浅井長政が居城とする小谷城(おだにじょう)は山城として堅固で、姉川で勝利した勢いのまま一気に落とすのは容易ではない、と信長は判断したようだ。

 信長は横山城を落とすと、冒頭のセリフにあるように、秀吉を城番(城主代わりに城を預かり守る武将)として配置している。

 横山城は現在の滋賀県長浜市東部、長浜市と米原市の境にある横山丘陵上に築かれた城で、北国脇往還を見下ろす軍事・交通の要衝だった。浅井長政の小谷城から十数キロ圏内しか離れていない戦略上の重要拠点だ。そんな横山城は、墨俣城を除けば、城番ではあるが秀吉最初の城ということになる。大いに張り切ったことだろう。

 そうして横山城の城番を務めながら、秀吉はたびたび上洛し、京を中心とした周辺地域において、所領や年貢に関するものや、そのほかの訴訟にも関係している。秀吉のフットワークの軽さに信長としても期待をかけていたことが分かる。

織田家への忠誠を貫いた森可成の最期、信長が怒りに震えた「信頼できる男」の喪失

 それに加えて、信長は浅井・朝倉に対抗するため、近江国内の諸城に配下の諸将を配置。京都と近江を結ぶ交通の要衝である堅牢な宇佐山城には、ベテランの重臣である森可成(もり よしなり)が置かれた。

 ところが、ドラマにあったように、森可成は浅井・朝倉の侵攻を受けることになる。

 そのとき、信長は何をしていたのか。摂津で勢力を保っていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が、浅井氏と呼応するように野田・福島で挙兵していた。これに対し、信長軍は野田城と福島城を攻撃し、優勢に戦いを進める。ところが、そのさなかに石山本願寺の軍勢が鉄砲隊を先頭に信長軍へと襲いかかった。

 つまり、信長が不在でなかなか援軍に来られないタイミングで、浅井・朝倉が侵攻してきたことになる。森可成は宇佐山城から出て敵を迎え撃つも、討ち死にする。

 ドラマでは、可成が森の中で敵兵と懸命に斬り合いながら、「ひるむな! 殿が来るまで持ちこたえるのじゃ!」と鼓舞するが、腹を突き刺されてしまい、「うう、殿!」と崩れ落ちるシーンが印象的だった。

 史実をひもとくと、可成は美濃守護・土岐家の家臣である森可行の子として生まれた。斎藤道三が台頭すると斎藤氏へと転じたが、信長が家督を継ぐと、まもなくして織田氏に仕えている。まだ信長の権力基盤が脆弱な時期から、ずっと信長を支え続けてきたことになる。

 織田の忠臣として知られる柴田勝家さえも、後継者問題で織田家が二分されたときに、いったんは信長の弟・信勝につき、信長と戦を行った過去を持つ。信長にとって、可成は自分と一度も敵対したことのない、信頼できるベテランだった。

 可成が討たれるときに何ともつらそうな表情をしたのも、織田家に尽くした日々を思えば、その無念さはよく分かる。それは信長にとっても同じで、信頼できる可成の喪失は大きな痛手だった。

 その激しい怒りは、浅井・朝倉をバックアップした比叡山へと向けられることになる。

聖衆来迎寺にある森可成の墓(滋賀県大津市比叡辻、写真:ogurisu/イメージマート)


「味方しなければ焼き払う」信長が僧侶へ送った、焼き討ち直前の「最後通告」

 森可成を討った浅井・朝倉勢だったが、守兵がよく守ったため、宇佐山城は辛くも落城は免れた。やがて摂津国から撤退してきた信長が京に着陣。浅井・朝倉連合軍は合戦を避けて比叡山にこもることとなった。

 信長は比叡山を取り囲むも、浅井・朝倉氏のほか、武田信玄や本願寺勢力、比叡山延暦寺などにじりじりと追い詰められたために、正親町天皇の調停で和睦する道を選ばざるを得なかった。双方の3カ月にもわたった緊張関係がいったん解消することとなる。

 再び浅井・朝倉に延暦寺を軍事的拠点とされることのないように、信長は元亀2(1571)年9月12日、比叡山の焼き討ちを決行する。

 だが、怒りに任せて暴挙に出たわけではない。『信長公記』によると、延暦寺の僧衆を呼び寄せて「このたび信長に味方をすれば、信長の領国中にある延暦寺領を元通り返還する」としている。

 そうはいっても、僧たちにも事情があり、一方に味方をするのは難しいこともあるだろう。そんな配慮もし「味方することはできないというのであれば、われわれの作戦行動を妨害しないでもらいたい」とまで伝えている。

 その上で、自分たちに味方もせず、かつ作戦行動を妨害するというならば「根本中堂・日吉大社をはじめとして、一山ことごとくを焼き払うであろう」と言明。信長は焼き討ちを決行する前に、可能な限り言葉で説明しようとしたことが分かる。

 加えて『信長公記』では、僧たちがいかに堕落していたかについても、こんなふうに書いている。

〈比叡山の山上・山下の僧衆は、延暦寺が皇都の鎮守であるにもかかわらず、日常の行動でも仏道の修行でも出家の道をはずれ、天下の笑いものになっているのも恥じず、天の道に背くことの恐ろしさにも気づかず、色欲に耽り、生臭ものを食い、金銀の欲に溺れて、浅井・朝倉に加担し、勝手気ままな振るまいをしていた〉

 単純に敵方についたからということではなく、僧たちの堕落ぶりが信長に焼き討ちを決意させる要因となった。

「信長様の目は欺けぬ」明智光秀が信長の家臣で最初の“城持ち大名”となったワケ

〈僧・俗・児童・学僧・上人すべての首を切り、信長の検分に供した。一人残らず首を打ち落とし、哀れにも数千の死体が転がり、目も当てられぬ有様だった〉

 比叡山焼き討ちがいかに残酷なものだったかが、『信長公記』の記述からうかがえるが、歴史マンガや読み物では、このときに「明智光秀が比叡山延暦寺の焼き討ちを考え直すように信長に進言したが、聞き入れてもらえなかった」と描かれることがある。

 だが、実際には、光秀は中心人物として関わっていたようだ。焼き討ちが実行される10日前に、土豪・和田秀純に書状で、

「仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候」(仰木のことは是非とも皆殺しにする、すぐにそうなるだろう)

 と伝えている。「仰木」とは大津市の中央部に位置する地名で、比叡山の山麓にあたる。この書簡については解釈が分かれており「光秀は望んで虐殺を行った」という見方もあれば「事前に告知して防ごうとした」との見方もある。

 今回の放送では、光秀自身が信長の命令に従い、女性も子どもも容赦なく虐殺している。女性や子どもを逃がそうとした秀吉に対して、光秀が苦悶の表情でこう告げる場面があった。

「信長様の目は欺けぬ。こうするしかないのじゃ。こうするしか……」

 しかし、事の顛末を聞いた足利義昭が激怒。「なんということをしたのじゃ! 人の所業とは思えん」とし、「光秀! いつからそのような外道に成り下がった!」といって光秀の行為を責め立てた。

 光秀は伏して「申し訳ございません」と言いながら「しかしながら、信長はわれわれを疑っておりまする。公方様ともお約束を果たすために、今は従うほかは……」と弁明。義昭からは、こんな命令を受けていた。

「おまえは織田の中に深く入り込み、毒となれ。決して見透かされてはならぬぞ」

 そんな光秀の弁明に、義昭はこう返した。

「わしのせいじゃというのか。わしのために、罪なき者の命まで、数多奪ったというのか。やはりおまえを織田に送ったのは間違いであった。わしのもとに戻ってまいれ、光秀」

「公方様のために」とやったことだっただけに、誰よりも認めてほしかった義昭に見放されたのは、あまりにつらい出来事だった。

 一方で、信長は焼き討ちを断行した光秀を称賛。義昭から信長へと心が揺れ動く光秀の心情が巧みに描かれていたように思う。

 ドラマであったように、史実においても、信長は光秀に比叡山すぐ近くの坂本がある近江滋賀郡を与えた。この坂本に光秀は居城を構え、信長の家臣としては初めて城持ち大名となる。

宮部継潤を味方に引き入れるために…豊臣兄弟が突きつけられた「残酷な条件」

 一方、信長の命に反して女性や子どもたちを助けようとした秀吉については、信長に切腹を命じられることに……ヒヤリとする展開となったが、秀長が浅井の忠臣・宮部継潤(みやべ けいじゅん)の調略に成功。信長の前に連れてきて「殿、兄は見事、殿のご期待に応えてご覧いれました。どうかこのことをもって、叡山でのこと、お許しくださいませ」と訴える場面があった。

 宮部継潤については、小谷城と横山城の間にある要衝である宮部城を守る武将とあって、信長が秀吉に調略を命じていた。

 しかし、秀吉と秀長がアプローチしたときに出された条件は「秀吉の身内の子どもを養子として差し出す」というもの。秀吉自身には子がいないため、姉・ともの息子である万丸(よろずまる)を養子に出すほかない。

 今回の放送では、息子と離れることを拒否するともを、いかにして説得するかが豊臣兄弟にとってのミッションとなった。高いハードルだったが、これをクリアしたことで、秀吉は切腹を免れるという展開となった。

 実際にも、浅井家の武将・宮部継潤を味方に引き入れるときには、秀吉はまだ幼い甥の万丸(よろずまる)を養子として差し出した。万丸はその後しばらく「宮部吉継」として生きることになる。この宮部吉継こそが、のちの豊臣秀次だ。

 秀吉と家康が直接対決した「小牧・長久手の戦い」では、秀次の軍が惨敗。秀吉の怒りを買うと、秀長が秀次をかばったという逸話も残っている。

 今後、万丸がどう成長するのか、つまり秀次がドラマでどんなキャラクターとして描かれるのか要注目である。

 第17回「小谷落城」では、信長が浅井・朝倉攻めを再開。進退きわまった浅井長政は小谷城に籠城する。

【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『現代語訳 三河物語』(大久保彦左衛門、小林賢章訳、ちくま学芸文庫)
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(竹内理三編、臨川書店)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)

筆者:真山 知幸