「今日からお前が母親だ」18歳で父に人生を変えられた町亞聖「今も教室に1人はいる」逃げられないケアラーの現実
「前日まで、普通の女子高生だった」。元日テレアナの町亞聖さんの日常は、母の入院で一変しました。父から「今日からお前が母親だ」と宣言され、家計、家事、きょうだいの世話…逃げ場のない孤独な奮闘を18歳で強いられます。36年前、支援もヤングケアラーという言葉もなかった時代に彼女が背負わされた過酷な現実。しかしそれは決して、過去の出来事ではありません。今なお続く「ケアラー」の現実とは。
【写真】「この明るい笑顔の裏で」日テレのアナウンサー時代も家事や介護をしていた20代の町亞聖さん(4枚目/全8枚)
普通の女子高生が…「今日からお前が母親だ」
── 高校3年生のとき、お母さんがくも膜下出血で倒れ、重い後遺症を負ったため、その後、町さんが家事やきょうだいの世話をすることになったと伺いました。
町さん:3学期の始業式の日に母が入院し、父から「今日からお前が(きょうだい)ふたりの母親だ」と告げられました。当時、弟は中3で15歳、妹は小6で12歳でした。お弁当配達の仕事をしていた父は、毎朝5時前には家を出ていて。父は仕事を言い訳にすべての家事ときょうだいの世話を私に押しつけたんです。
── 1日で生活が一変したんですね。
町さん:それまでの私の関心事といえば、髪型やスカートの丈くらいでした。女子高生のなかで短いスカートが流行し始めたら、友達と一緒に学校で先駆けて短くするようなタイプ。先生から「なんだそのスカートは!」と注意されて。家事はおろか母の手伝いをしたこともありませんでした。
── 急に家事をすることになって、生活はうまく回ったのですか。
町さん:まず家のどこに何があるかがわからず、お米の研ぎ方も知りません。最初はうまく食事が作れませんでした。今の野菜ではあまりないかもしれませんが、料理をする前にきちんと野菜を洗わなかったために、白菜の味噌汁を作ったら虫が浮いてきて…。「母の手伝いをしておけばよかった」と心底、悔やみました。
母が家にいた頃は、乾いた洗濯物が畳んであって、何もしなくても食事が出てくることが当たり前でした。「食べ終わった食器くらいさげなさい」と言われていたのに、空返事をしてそのまま部屋に。それがもう、私がやらないと台所は洗い物でいっぱい。父の作業服に、育ち盛りのきょうだいの洗い物、入院中の母のパジャマなど、毎日山盛りの洗濯物があって、いくら洗っても終わりません。家のなかもグチャグチャでした。
── 突然の環境の変化に戸惑いはなかったのですか。
町さん:逃げ出すこともできず、毎日必死でした。持ち前の負けず嫌いが影響したのもあって、この状況を変えることはできないなら「私がやるしかない」と思っていました。
家事に家計のやりくり…大学受験は全部落ちた
── お父さんは家事をいっさいしなかったそうですね。
町さん:時代もあったと思いますが、家のことは何も。お湯を沸かすことすらしない父でした。高圧的な言い方をする父と私はケンカばかり。でも、そんな父も、母のことを思う気持ちだけは強かったんです。容態が急変し母が人工呼吸器に繋がれていたときは、寝袋を持って病院の待合室に泊まって。仕事が終われば母の病室に通う生活を毎日続けていました。
── お母さんが入院したのは、高3の大学受験を控えていた時期だったと。
町さん:母の代わりにやることがありすぎて、その年は受験に集中できず全部落ちました。家事に加えて家計のやりくりに、家賃や光熱費の支払い、役所で母の医療費の手続き。裕福な家庭ではなかったので、高額な医療費に目が飛び出そうでした。きょうだいの学校の面談にも行き、卒業式や入学式にも出て、生活にかかわることすべて私がしました。
父から、「どうしても大学に行ってほしい」と言われていたので、浪人して勉強は続けました。母は予断の許さない状況が続き、脳梗塞を併発して心肺停止になったことも一度あったのですが、なんとか一命を取り留めました。手術前に医師からは告げられていましたが、右半身の麻痺と言語障害という重い後遺症が残って。当時の母はまだ40歳。容態が安定してからリハビリが始まり、入院から1年1か月後に退院して家に帰ってきました。
車椅子の母の退院も「手放しでは喜べない」本音
── お母さんが帰ってきたあとの生活はいかがでしたか。
町さん:母が退院したのは翌年の受験の真っただ中でした。一度は死も覚悟した母が生きていてくれたことは何にも変え難いほど嬉しかったのですが、家に帰ってくることは正直、手放しでは喜べませんでした。子ども3人での暮らしに慣れてきたなかに、車椅子で言葉を話すことが難しくなった母が帰ってくる。母専用に塩分を抑えた食事が必要ですし、バリアフリーの病院とは違って、段差だらけの家での生活に慣れてもらわなくてはならず、それと並行して受験勉強もあります。
複雑な気持ちでいる私とは違って、「お母さん良かったね!」と妹はものすごく喜んでいて。その姿を見て「そうだよね」と反省しました。寂しい思いをしていたのは私たちだけではなく、母も同じ。入院する前の元気な頃の母とは変わってしまいましたけど、家に帰って来られたことを喜ばなきゃ。置かれた状況の中で、できることをやっていこうと思いました。
介護する家族が頑張りすぎることで奪う「可能性」
── 努力が実って無事に大学に合格したそうですが、学生生活はお母さんの介護と共にスタートしたそうですね。
町さん:介護というと、まるで私たちがすべての世話をしていたように聞こえますが、実際はそうではありません。母は右半身が動かせませんが、それならば麻痺のない左手でできる家事は何でもやってもらおうと考えました。
火を使うような料理をするのは難しかったのですが、パンを焼くなどの簡単な朝食は用意できましたし、車椅子で掃除機をかけ、お皿洗いは私が洗うとカチカチの米粒が残っていたのに母が洗うとツルツル。左手で畳む洗濯物も、「どうやったら片手でこんなに綺麗にできるの」というくらいでした。家事のやり方が体に染み付いていたんだと思います。時間はどうしてもかかりますが、母も家族の役に立ちたいという思いがあったと思います。
── 長年の母業の成果ですね。きっとお母さんも、なるべくこれまでのようにしたかったんでしょうね。
町さん:ヤングケアラーに限らず、大人のケアラーも同じなのですが、介護をする家族が頑張りすぎてしまうと、本当はできることがあるのに、その可能性を本人から奪うことになってしまいます。障がいがあっても、「お母さんは、元気だった頃のようにはできない」と思い込むのではなく、ひとつでもできることを増やしていきました。
当時はまだヤングケアラーという言葉はなかったので、家のことをするのも、母の世話も介護と思っていたわけではなく、家族で協力するのが当然だと思っていました。それゆえ、相談もできなかったんですけどね。誰かをお手本にしていたわけではないのですが、当時の私は、母に少しでも家事をしてもらえたら自分が助かるという思いでした。でもこれが、のちに母の自立支援に繋がっていたことを知りました。
医療や介護の取材を続ける理由
── 自宅に戻ってから8年後にお母さんが子宮頸がんと診断されます。しかも、すでに骨盤やリンパに転移していて手術ができない状況で、49歳で亡くなられたと伺いました。
町さん:ある日、大出血をした母を病院に連れて行ったところ「なんでこんなになるまで放っておいたの」と先生から言われてしまいました。かなり進行した子宮頸がんで余命は半年と告げられました。当時まだ在宅医療は普及していませんでしたが、唯一母が自由に過ごせた我が家で看取りたいと思いました。
たまたま近所に訪問診療をしてくれる緩和治療科を立ち上げた病院があり、母は最期の1か月半を家で過ごすことができました。「親孝行したいときに親はなし」と言われるなかで、その時間は決して長くはありませんでしたが、母の命の灯を家族で見守りながら、濃密な時間を過ごせたことはよかったと思っています。
「障がいがある方の生きづらさを伝えたい」と就職の自己PRで話し、アナウンサーになりましたが、母はどんな状況に置かれても、家族の前で涙を流すことはなく自分の運命を受け入れていました。でも、言葉が不自由になった母がどのような思いでいたのか聞くことはできなくて。私が医療や介護現場の取材を続けているのは、「もしかしたら母もこういう気持ちだったのかな」と、様々な当事者の方の話を聴くことで、母の気持ちの答え合わせをしているような感覚があります。
── 国や自治体などの調査では、クラスに1~2人の割合でヤングケアラーが存在しているそうで、実態はそれ以上とも言われています。学校でヤングケアラーの経験を話してほしいという依頼も多いと伺いました。
町さん:早く大人にならざるを得なかった当時の私の経験は、大変ではあったものの決して無駄ではなかったと思っています。ですが、家族のことを考えて自分のことを後回しにしているヤングケアラーは少なくありません。私もそうでしたが、本当は誰かに話を聴いてほしいと思っていても、簡単に人を頼ることもできません。1人で抱えずに誰かを頼っていいということを伝えたいですし、気にかけてくれる大人が誰かいるだけで救われることがあります。1人でも多くの人に関心を持ってもらえたらと思いますし、必要な支援が必要なタイミングで届くように、これからも発信を続けていきたいです。
取材・文:内橋明日香 写真:町亞聖

