兄について語る妹の弥生さん

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 オリックス・バファローズのエースとして活躍し、2大会連続でワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出、さらに3年連続開幕投手となった宮城大弥選手(24)は、「貧困を理由にスポーツを諦めてほしくない」との思いから、一般社団法人宮城大弥基金を2022年に設立。選手としてのキャリアを歩みながら、真摯に野球に打ち込む子どもたちの資金援助を行っている。宮城投手がこのような活動を始めるに至った背景には、壮絶な貧困を味わった幼少期の経験があるという。宮城大弥投手の実父で、基金の理事を務める宮城享(みやぎ・とおる=58=)さん、実母の礼子さん(=57=)、女優として活躍する妹の弥生さん(=20=)の3名に、困窮していた当時の生活を語ってもらった。(全2回のうち第1回)

【写真】オリックスバファローズのエース「宮城大弥」選手の小学生時代の美しすぎる投球フォーム

アニメより高校野球中継を楽しそうに見ていた

 2001年に沖縄県宜野湾市で生まれた宮城投手は、共に再婚同士の両親と、4つ年下で現在は女優として活躍する妹の弥生さんの4人家族で、厳格な父と前向きで心穏やかな母の影響を受けながら、笑顔の絶えない幼少期を過ごした。

兄について語る妹の弥生さん

 まだ物心のつかない1歳の時に「アニメのキャラクターには目もくれず、高校野球中継に見入っていた」という宮城投手は、4歳で地元の少年野球チームの志真志ドラゴンズに入部。卓越した野球センスでいち早く存在感を示すと、5歳の頃には小学生が揃うチーム練習で外野フライを難なくキャッチし、周囲の大人たちを驚かせるほど、その技術を上達させたという。 

 その後も、宮城投手は、野球を通して勝負の厳しさやチームワークの大切さを学びながら実力を伸ばし、捕手以外のポジションを全てこなすユーティリティぶりを発揮。

 小学校4年生の頃には、全国大会の常連チームの小学6年生を相手に好投して勝利に貢献するなど、宮城投手は心身ともに逞しく成長を続けていった。

「幼い頃から感情的になる場面はほとんどなく、試合に負けた時には、すぐに気持ちを切り替えて前に進むように心がけていた姿が印象に残っています」(享さん)

幼い頃から温厚で冷静だった

 享氏は宮城投手の幼少期を「自身とは対照的に温厚でいつも冷静沈着だった」と振り返るが、それでも思わぬ形で宮城投手の感情がむき出しになってしまったことが何度かあったそう。

「僕が印象に残っているのは、大弥が腕を剥離骨折し、投げられなかった小学校時代の試合です。絶対に負けられないゲームだったので、大弥の勝利に対する思いは人一倍強かったんですが、ひどい痛みのせいで本塁までボールが届かないような状態で、誰が見ても投げられるようなコンディションではありませんでした」(享さん)

 大事な試合に出られない申し訳なさや、それでもマウンドに上がりたい気持ちを必死に堪えながら宮城投手はチームの戦いを見守ったが、エースの不在が響いたチームは力無く敗れ、宮城投手は唇を噛んだ。

「お前のせいで負けたんだよ!」

 悔しさと共に試合を終えた後、チームメイトが何気なく口にした一言が、宮城投手の傷心に追い打ちをかける。普段は温厚な宮城投手はその言葉に激昂し、その異変に驚いたチームメイトは、すぐに謝罪。互いの勝利に対する思いの強さを確かめ合いながら、程なく和解に至ったというが、宮城投手の野球に対する真摯な思いが露わになった瞬間だった。

「こんな家に住んでいるの?」と驚かれた極貧生活

 幼少期から野球に魅了され、周囲からも一目置かれる存在だった宮城投手だが、父の享さんが左手に障がいを抱えており、それが原因で安定した職に就くことが難しかった当時の社会状況もあり、宮城家の生活は困窮した。

 夏になると酷暑が続く沖縄県で、一家4人はエアコンすらない6畳一間のアパートに住み、家族全員が足を伸ばして寝ることすらも難しい環境で過ごす日々。暑い季節には、建て付けの悪い自宅のドアにゴキブリとそれを食べようとするヤモリが大量に押し寄せ、今にも地面に落ちてきそうな両者のバトルに怯えながら、団欒を囲むことも珍しくなかった。

「友人に『本当にこんな家に住んでいるの?』と驚かれ、泣きながら帰ってきたこともありました」(弥生さん)

 毎日の衣食住すらままならず、きょうだいの健康を心配する役場の職員が自宅に駆けつけ、「子供達を施設に預けるように……」と説得されるほどの劣悪な環境で過ごしていた。

 だが、「母親は家族の太陽であるべきだと持っていたので、貧乏といえども、持っているお金が少なく、たまに電気や水道が止まるくらいでそれ以外は普通の生活と変わりはありませんから、どんなことがあろうとも1日の終わりに今日を楽しく幸せに過ごせたことに感謝し、明日への希望を抱いて眠る日々を過ごしていた」と話す母の背中を見ていた二人の子供達は、決して現状への不満を口にすることはなく、希望に満ちた日々を過ごした。

沖縄県初の快挙を成し遂げる

 小学校時代は極貧のためユニフォームが買えず、破れた膝を何度も縫い合わせたツギハギだらけのズボンをはいてプレーしていた宮城投手は、中学校入学と同時に硬式野球チームの宜野湾ポニーズに在籍。合宿や遠征が増え年間100万円ほどの費用が必要になった経済的な理由により、宮城投手は軟式野球のグローブでプレーせざるを得ない状況だったが、それでも享さんは、運転手や喫茶店、畑仕事といったありとあらゆる仕事をこなして金銭を工面し、宮城投手の活躍を支えた。

 一方の野球の技術面に目を向けると、中学2年の時に本格的に投手に転向。当初の宮城投手は右投げだったが、左手が不自由で、自身の身体のバランスが崩れていくことを日々実感していた父のアドバイスもあって、日頃から左右双方の手でキャッチボールを続けていた宮城投手は、「左の方が投げやすい」ことに気づき、サウスポーとしてプレーする決断を下す。

 中学2年生で迎えた2015年の夏には、中学野球の日本一を決める第9回ジャイアンツカップに出場。先発として登板し、タイムリー三塁打を放つ活躍を見せたものの一回戦で敗れ、レベルの高さを思い知らされることとなったが……。高いパフォーマンスを見せた宮城投手の元に、一本の電話が入る。

「すぐにU-15日本代表のセレクションを受けさせてほしい……」

 全国の猛者たちが揃うセレクションでは、及川雅貴投手(現、阪神)らと競い合うように、日焼けした小柄なサウスポーが一心不乱にピッチング練習に励む姿や、打撃練習で見せた質の高い飛球に、来場者は一様に驚かされていたそう。

 そこでも高い実力を評価された宮城投手は、見事にU-15日本代表のメンバーに選出。これは沖縄県出身選手としては初の快挙だった。

 家族の全財産が5000円しかない状況で、父から3000円を渡され、食事があるのか不安そうな顔をしながら遠征出かけた宮城投手は、その後も「U−15ベースボールワールドカップ」でキューバ戦を含む3試合に登板。一流のレベルを体感したことで、自身がプロ野球選手に手の届く位置にいることに気付かされることとなる。

「もし、プロ野球選手になれたら、これまで支えてくださった地域の皆さんに一緒に恩返しをしていこう」(享さん)

 その後の宮城投手は、2度の甲子園出場を経て、2019年のドラフト1位でオリックスに入団。エースとして存在感を示し、チームが日本一に輝いたプロ入り3年目の2022年に、父と交わした約束は現実のものとなる。

第2回【「お母さんを必ず甲子園に連れて行くからね」 有言実行のエース「宮城大弥」が家族に目標と明かした「中日レジェンド投手」の名前】では、大弥選手の甲子園への思い、そしてプロになって以降の野球との付き合い方、さらには憧れの選手まで、大弥選手が家族に語った知られざる心の内を伺いました。

デイリー新潮編集部