創作物の世界ではお馴染みの「エース専用機」や「先行試験機」といった機体は、現実には存在するのでしょうか。明確にそうとは言い切れないものの、それっぽい軍用機ならば、実はいくつか存在しています。

創作物だけじゃない「エース専用機」

 アニメやマンガ、特撮などの創作物において、主人公やライバルが搭乗するロボットや戦闘機が、試作型で数機しか存在しない少数生産機だったり、現地カスタムのワンオフ機だったりすることはままあります。こういった特別すぎる機体は、現実に存在するのでしょうか。実はそれっぽい機体ならば、過去に存在していました。


WW1期イギリス軍の単座戦闘機、ソッピース トライプレーン(画像:帝国戦争博物館/IWM)。

主翼が3層の少数生産機「ソッピース トライプレーン」

 イギリスのソッピース社が開発を担当し、第1次世界大戦中の1916(大正5)年12月に実戦投入された「トライプレーン」は、主翼が3層になった三葉機という珍しい構造をしていました。3枚の翼を有しているため、翼面積が大きく、優れた操縦性と高い上昇力を武器に当時のドイツ軍機を圧倒しました。

 しかし、その構造の複雑さなどの影響で、生産数は150機に届かなかったといわれています。ワンオフ機というわけにはいきませんが、かなり少ない数といえます。そして、配備されても問題が頻発しました。デリケートな部分が多く、現場での修理は困難を極め、些細な故障で後方に下げられることも多かったといわれています。

 ただ、降下性能以外は、当時のドイツ軍の主力戦闘機であったアルバトロス D.IIIを圧倒しており、イギリス海軍航空隊向けに、重要な戦場へ配備されました。

 特にこの戦闘機の名声を高めたのが、海軍第10飛行隊のB小隊で、通称「ブラック小隊」とよばれるようになるカナダ人で構成された隊でした。同小隊はその名の通り、尾翼とカウリングを黒く塗っており、3か月で87機のドイツ機を撃墜したといわれています。黒塗りというところが、いかにもエース部隊っぽい感じですね。

 1917(大正6)年6月にはより信頼性が高く、重武装の「ソッピース キャメル」が配備されるようになり、「トライプレーン」の前線での運用は短命に終わりますが、その短い期間に大きく存在感を示しました。

エースパイロット独自のカラーリングで相手を威圧した「フォッカー Dr.I」

「ソッピース トライプレーン」の空戦能力に大きな影響を受けたドイツ軍が、1917年(大正6)に開発した戦闘機が「フォッカー Dr.I」です。見た目は三葉機なのですが、実は独自の改良が加えられています。主脚間に板を渡して4枚目の翼とした、四葉機に近い構造をしているのです。


マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(写真中)とフォッカー Dr.I戦闘機。

 そのため、上昇力と運動性がかなり高く、抜群の空戦性能を発揮しました。しかし操縦に関しては、挙動をコントロールするのが難しく、ベテランのパイロットでないと手に負えないほどでした。創作物によく見られる、ピーキーな機体だけど能力の高いパイロットが使えば無敵の強さを発揮する、というタイプです。

 そのデリケートすぎる構造のため、エース向けに配備されたものが多く、生産数は300機程度に過ぎませんでした。

 同機の搭乗者で一番有名なのは、「レッド・バロン」の愛称で知られるドイツ軍の撃墜王、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵でしょう。なぜ愛称に「赤」がつくかというと、彼の乗機が赤く塗装されていたからです。きっと通常機の3倍速かったことでしょう。

 ちなみに、のちにナチス・ドイツで空軍司令官になるヘルマン・ゲーリングも同機に搭乗しており、白くカラーリングされていたそう。実は各エースが愛機にパーソナルカラーを付けるというネタは、この「フォッカー Dr.I」をはじめとした第1次世界大戦中のパイロットにその源流があります。

大型機関砲を抱えて飛ぶ怪鳥「Ju87 G-2」

 第2次世界大戦期ドイツの、「急降下爆撃機」の代名詞ともいえるJu87「スツーカ」。その数あるタイプのなかでも最末期に開発された「Ju87 G-2」は、両翼に37mm砲とガンポッドを据え付けていたことから「大砲鳥(カノーネンフォーゲル)」と愛称された機体です。おもな任務は敵の車両、特に戦車や装甲車に向かって、装甲が薄い上部を狙い砲弾を叩きこんで撃破することでした。


ルーデル大尉(当時)のJu87G。写真はG-1型だが、翼下にG-2型と同じ37mm砲を搭載している(画像:ドイツ連邦公文書館)。

 重戦車すら一撃で破壊できる攻撃力を備えていましたが、本来、急降下爆撃機であるJu87に似つかわしくないほど大型の砲を装備したことで、発射時の反動などにより操作性は非常にピーキーだったといわれています。

 しかも、各戦線において制空権の確保が困難になって以降の機体なので、重い荷物を背負って戦場を飛ぶだけでもかなりのリスクがあるうえに、携行弾数も、1門で12発、合計24発しかなく、少しでも弾を無駄にしないよう、目標にかなり接近する必要もありました。

 そういった困難な要素が山積しているにも関わらず、凄まじい数のソ連軍車両を撃破したのが、「ソ連人民最大の敵」とまでいわれたドイツ空軍のハンス=ウルリッヒ・ルーデルです。

 全タイプを合わせ6500機以上生産されたJu87のなかで、G-2の生産数は多くても300機に満たないそうです。かなり特殊な機体だったといえるでしょう。しかも、1943(昭和18)年7月に始まったクルスクの戦いで、同機は初めて投入されましたが、そのときに満足に動いていたのはルーデル機だけだったといわれています。まさにワンオフ機の状態だったわけです。

 スーパー兵器のようなワンオフ機は、現実には存在しませんが、熟練者などに優先的に配備された少数生産機ならば、このように歴史上に存在しています。

 ただ、戦争はひとりやふたりの力で局地的な優勢を得られたとしても、大局で満足な兵力が確保できなくては、いずれ覆されてしまいます。やはり万人が扱いやすい、生産性も信頼性も高い量産機を数多くそろえた方が、効率のいいことに変わりはありません。やはり「戦いは数だよ!」ということでしょうか。