「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第1回 土橋正幸・前編

 平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませてくれた。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。初回は、「魚屋からプロ野球へ」「草野球から球界の大エースに」という昭和ジャパニーズドリームを体現した土橋正幸さんの軌跡を語り継ぎたい。


東映フライヤーズ時代の土橋正幸投手。1958(昭和33)年6月16日 写真=共同通信

 土橋正幸(どばし まさゆき)さんに会いに行ったのは2012年4月。前年のオフ、田中将大(楽天/現・ヤンキース)が沢村賞を受賞したことがきっかけだった。

 1955年に東映(現・日本ハム)に入団した土橋さんは、プロ4年目から7年連続で二桁勝利を挙げた間に20勝以上が5回、そのうち1回が30勝。実働12年で通算162勝を記録したエースだった。現役引退後はヤクルト、日本ハム監督を歴任するなど指導者として各チームに貢献した一方、野球評論家・解説者としても活躍。そして、2007年からは沢村賞の選考委員長を務めていた。

 沢村賞は球界OBで構成した選考委員会によって選出される。当時の委員は村田兆治(元・ロッテ)、平松政次(元・大洋)、堀内恒夫(元・巨人)、北別府学(元・広島)と錚々(そうそう)たる名前が並び、選考基準は登板試合数から防御率まで7項目ある。11年の田中はすべての基準をクリアし初受賞となったのだが、選考後の記者会見において土橋さんが田中に要望を出していた。

「打者をバカにするような派手なガッツポーズをしたり、マウンドで吠えたりするのは、来季から控えてほしい」

 ピンチで三振を奪ったあとなど、田中はマウンドで拳を握りしめ、雄叫びを上げていた。沢村賞には参考基準として品格も加味されており、要望は土橋さんだけでなく全委員から出たという。往年のエースたちも田中には何も文句のつけようがないはず、と思っていた僕には意外だった。

 田中は当初、要望には「ノーコメント」だったが、のちに「雄叫びとかガッツポーズは自然に出ちゃう。ピンチの場面で、叫ばないとか考えていると打たれてしまいます。来年も自然とやっちゃうと思います」と発言。当時の楽天監督・星野仙一も「パフォーマンスがあってこそ盛り上がる」と擁護した。逆に、土橋さんに同調する意見は目立たなかった。要望はこのまま消えてしまうのか……。

 そう思ったとき、僕は、土橋さんの求める投手像、エース像が知りたくなった。〈軟式野球からプロ入り〉という異色の球歴にも、改めて興味が湧いた。何より代名詞の”江戸っ子投法”、ちぎっては投げ、ちぎっては投げでテンポよく相手打者を抑えるピッチングは、いかにして生まれたのか。

* * *     

 午後1時、東京・港区の赤坂サカスから程近いカフェテリアで土橋さんと待ち合わせた。大きな眼鏡が印象的な風貌、上体の幅広さはテレビ番組で見慣れているが、初めて間近にした全身は想像以上に大柄で迫力がある。半面、チャコールグレーのジャケットを合わせたシャツの高い襟に上品さが漂い、77歳(当時)という年齢を感じさせない。「今日は土橋さんの野球人生を一からうかがいたいと思いまして」と僕が切り出すと、しゃがれて鼻にかかった東京弁がその場に響いた。

「いやねぇ、野球人生といえばね、自分で言うのはおかしいんだけどさ、わたしのようなプロセスで野球選手になって、そこそこの成績を挙げたの、ほかにいないでしょ? 軟式からプロっていうのもあるけど、わたしの場合、魚屋からプロっていうプロセスもあるんですよ」

 東京・浅草は雷門の生まれで、生粋の江戸っ子の土橋さんは家業が鮮魚店だった。戦時中は千葉の幕張に疎開していたが、戦後、東京に戻った中学時代、水泳部に所属するかたわら野球と出会ったという。土橋さんは運ばれてきたカフェオレを一口飲み、隣の椅子の背もたれに右腕をかけて言った。


プロ入りの経緯を振り返る、取材当時の土橋さん

「あの頃はまだテレビもない、なんかやるったら野球なんですよ。で、水泳はね、気合い入れてやってないと竹竿でぶん殴られたり……。それで野球をやったんだけど、幕張にいる頃から、都市対抗、親と後楽園に観に来てたんです。当時の藤倉電線とか大昭和製紙とか強いとこが好きでね。だから、子どもの頃から見よう見まねで誰にも教わんないんだけど、キャッチボールだけは上手にできたんです」

 幸いにして、父親の弟、土橋さんにとっては叔父が運動具メーカーに勤めていた関係で、疎開中でも革製のキャッチャーミットが手に入った。当時、プロ野球で捕手といえば「タイガースの土井垣武(どいがき たけし)」で、土橋という苗字にも同じ「土」があり、ミットもある。そんな単純な連想で土橋さんは捕手になり、かつて社会人野球でプレーしていたという人に誘われ、チームに入った。中学野球部ではなかった。

「草野球です。当時は台東区の上野の界隈で軟式のチームが20以上あって、春先からずっと早朝野球。うちのチームは雷門サンダースっていう名前で、選手には勤め人もいました。で、その中でうちの隣にいた2つ上の先輩、日大三高で野球やってた船戸っていう人に『おまえ球速いからね、キャッチャーよりピッチャーやれ』って言われてピッチャーになった。それでそのあと、フランス座ね」

 浅草のストリップ劇場、フランス座が野球チームを持っていて、土橋さんがそこで投げていたことは以前から知っていた。しかし雷門サンダースとの関係はわからない。

「あのとき、読売新聞が主催する23区の軟式野球の大会があったんだけど、われわれのサンダースは『エントリー費が高い』ってんで出ないことになった。そしたらフランス座の社長がね、『サンダースが出ねえなら、うちのチームを手伝ってくんねえか』と。わたしとさっき言った船戸さんと笠原っていう人、3人が呼ばれたんですよ。たぶん、サンダースがフランス座と試合をやると、勝ち負けは別にしてわたしが結構やっつけてた。それで社長が目ぇつけてたと思うんだ」

 都市対抗の補強選手のような──と相槌を打とうとしたが、話は間断なく続いた。

「母親にはね、『フランス座を手伝う』って言っただけで、『そんなおまえ、ストリップの片棒なんか担ぐんじゃないよ』って怒られちゃった。そしたら社長がうちへ来て、親父に『息子さんをお願いします』って。言われても親父は知らないから、『おまえ、頼まれるほど野球うまいのか?』ってなっちゃった。『いや、うまいかまずいかは別だけど、手伝ってくれって言ってんだからやらしてくれよ』と言ったら、『まぁしょうがねえな』って。それで手伝ったんですよ」

 草野球にして、プロのスカウトが選手の親を説得に来たようなシーン。本格的というか、普通に真剣になるほど野球が盛んで生活の一部だったということか。ともかく、補強されたフランス座は台東区の予選で優勝。後楽園球場での本戦に進出して第一戦、前年度優勝チームの府中刑務所を破った。

「その試合、社長が踊り子を呼んでね。まぁ、ヘソこそ出さないんだけどさ、ベンチの上でフラダンスみたいな応援、出したんだよ。ほら、ストリップはお手のもんだから。そしたら読売新聞がね、〈府中刑務所は踊り子を見て野球に集中できない〉って、だーんと記事になって。それがまず第一戦。そのあと、どんどんどんどん勝って優勝した。ほんでわたしは投打に活躍だよね。そしたらさっきの船戸さんが、『おい、正坊。プロのテスト受けようぜ』って言ってきた。でもわたしは魚屋手伝って忙しいし、『23区で優勝したぐらいで受かるほどプロなんか甘くねぇよ』って言ったんだよ」

 ときに1954年、高校を卒業して19歳。そもそも高校野球をやるという道はなかったのだろうか。

「いや、高校は一応卒業になってるけど、魚屋がものすごい忙しくなって、店を手伝ってるうちに学校行けなくなって。で、ちゃんと商売を覚えたら支店を出してやるって母親に言われてね。ということで、『俺はもう魚屋をやる』って決心しちゃったんだ。だからプロのテストなんてまったく考えもつかなかったんだけど、船戸さん、履歴書も出しといてくれてさ、なにしろ行こうって」

 ある文献資料には、〈高校卒業後に家業を手伝っていたなかで東映のテストを受けた〉とあった。が、実際には「卒業」以前から鮮魚店の支店開業を目指していたのであって、土橋さんにとって、いかにプロ野球が縁遠い世界だったか思い知らされる。だからこそ「魚屋からプロへ」なのだ。

「それで雷門の『フジキッチン』っていう洋食屋。タイガースが東京に遠征に来ると、それこそ土井垣、別当薫とかが飯食いに来てたんだけど、その関係で店のオヤジが『東映だったら紹介してやるよ』って。当時、土井垣さんは東映にいたんですよ」

 全480名が参加したテストに、土橋さんはフランス座のユニフォームを着てチームメイトとともに受験。チームメイトは落選したが、100m以上は投げた遠投をはじめ、土橋さんは全部門で1位の記録を出し、合格者7人のうちの1人となった。ただ、慣れない硬球で体は大丈夫だったのか。

「テストが決まってから、うちの近所で兄貴とキャッチボールしたりした程度で、未経験でしたよ。でもね、硬いボール握っても、わたしは手がでかくて肩も強かったから、そんな違和感なかったね」

 現役時代の土橋投手を評する往時の野球雑誌に、〈タフ〉〈底なしの体力〉〈ファイトマン〉といった言葉があったのを思い出す。持って生まれた丈夫な体が軟式から硬式への転向をスムーズにし、魚屋からプロ野球への道も開きやすくしたと言えそうだ。

「受かったあと、当時の監督に『一生懸命やったら、おまえはものになるかもしれねぇ。やらねぇか?』って言われた。それから両親にね、『俺は家の状況で大学も行かなかったし、3年だけやらせてくれよ』って頼んだ。そんで月給5000円で入ったんだけど、最初は二軍でね。ストライクは入らないわ、ランニングやればケツ走ってるし、ノックバットでぶん殴られたりね。

 まだ二軍専属のコーチもいないし、先輩も教えてくんない。仕方ねぇから外野の塀に丸書いてさ、ボール1個でそこに投げてるって、そんなんですよ、あの頃のプロは。でも、わたしはなんにも知らないから、こんなもんだと思ってやってた。暴投を投げてスタンドに入れちゃうと、自分で上がって取りに行くんですよ」

 55年、土橋さんの入団年にイースタン・リーグ、ウエスタン・リーグが結成されているが、前年まで二軍専用の球場を持つ球団は皆無。まして指導体制も整っておらず、自ら努力、工夫するしかなかった。

 「なんとかコツをつかもうと思って、フリーバッティングでたいてい1時間は投げた。それから二軍の試合に投げて、そのあと、コーチの指示で2時間ぐらいピッチングしたときもありました。アウトコース、インコースにね、10本続けてストライクが入りゃあ終わりなんだけど、5つぐらいまで行くと暴投でやり直し。7つぐらいまで行ってまたやり直し。のちにはもう目ぇつぶったってストライクの10本ぐらい投げられたけどさ、当時は終わりませんよ。だから2時間。厳しかったですね」

 想像以上の練習量でも心身がつぶれなかったのは、もともとの〈タフ〉さがあったからなのか。

「きっかけは相撲なんです。わたしは子どもの頃から相撲が大好きで、戦前からしょっちゅう祖母と一緒に国技館に観に行ってた。母方の親戚に関取がいたこともあって、相撲取りになるんだっていうぐらい好きだったんです。それで東映に入って2年目、わたしが憧れた横綱の栃錦。魚河岸にある伝手(つて)を通じて栃錦に会えることになったんですよ」

 都市対抗、相撲と、本物を間近に観る環境に恵まれていた。好影響があったはず、と思える。

「それで春日野部屋に行ったらね、横綱に会う会わない以前にさ、稽古を見たら15、16の子が裸で地べたを転がり回ってる……。わたしはそれを見て、俺たちの野球の練習なんてこれに比べりゃ屁のようなもんだ、と思ってね。それまで嫌だった練習を自分で進んでやるようになった。そしたら、コツがわかってきたんです。ボールを離すコツがね。力で投げるんじゃないんだってことが」

 取材当初からずっと椅子の背もたれにかかっていた右腕が、ゆっくりと動かされた。

「ちゃんと腕が振れて、指先にボールがかかる。それまでは肩に力が入っちゃうからダメだった。投げるときに余分な力が入らなければ、勝手に球が行っちゃうような感覚になる。そしたら1時間投げてもなんでもない。両親とは3年の期限で約束したわけだけど、なんとか3年目に勝てたんです」

 自己流でなんとかピッチングのコツをつかんだ土橋投手は、そのあと、驚くべき実績を積み重ねていくことになる。

(後編につづく)