没後17年、再び脚光 「津軽海峡・冬景色」「時の流れに身をまかせ」5000曲を遺した三木たかしさんの素顔
中学も通えなかった
石川さゆり(68)の「津軽海峡・冬景色」(1977年)やテレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」(86年)など約5000曲を遺した作曲家の三木たかしさんが64歳で他界してから17年が過ぎた。今、三木作品があらためて脚光を浴びている。三木さんの人物像と名曲誕生の裏側を探った。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】
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三木さんは1945年に東京都調布市で生まれた。家は貧しく、中学にすら満足に通えなかった。ずっと新聞配達をやるなどして働いていた。作曲は独学。音楽雑誌のおまけとして付いていた紙製の鍵盤を使い、子供のころから作曲を始めた。

「紙の鍵盤を指でこすると、どこからか音が聞こえてきたそうです」(三木さんの作品の著作権を管理する「空ミュージック」の花畑秀人代表)
実妹で歌手の黛ジュン(77)も幼いころから働いた。8歳の時からキャバレーで歌った。そのまま歌手になり、1968年にリリースされた「天使の誘惑」がミリオンセラーとなる。第10回日本レコード大賞の大賞にも輝いた。音楽的才能に恵まれた家系だった。
三木さんも歌手を志し、美空ひばりさんの「みだれ髪」(1987年)などをつくった作曲家の船村徹さんに弟子入り。だが、三木さんの適正を見抜いた船村さんの強い勧めによって、作曲家に方向転換。流行歌の作曲家として初めて文化勲章を受章した船村さんは面倒見の良い人格者だった。
三木さんは1967年に作曲家デビューを果たす。後にタレントに転身した泉アキ(76)が歌った「恋はハートで」をつくった。まだ22歳だった。作詞はなかにし礼さん。なかにしさんが三木さんの才能と実直な人柄を買い、作曲を任せるよう推薦した。作詞、作曲家は匠のようだが、実際には人柄も問われる。
1969年には森山良子(78)のためにつくった「禁じられた恋」(作詞・山上路夫)がヒットチャートの1位になる。その年の「NHK紅白歌合戦」でも森山によって歌われた。
ほかの曲も売れた。傍から見ると、若くして作曲界の第一線に躍り出た成功者だった。ところが、実際の三木さんは苦難の日々を送り始める。26歳だった1971年、突如として曲がまったく浮かばなくなった。スランプだ。
「そのときの感覚を本人は後に『ドラキュラに血を吸われた後の感じ』と振り返りました。焦った三木さんはインプットに努めようと、月に30冊の小説を読み、アルバムを30枚聴きましたが、スランプは脱けられなかった」(花畑代表)
阿久悠さんのやさしさ
そんな三木さんの窮状を心配したのが、のちに「津軽海峡・冬景色」を一緒につくる阿久悠さんである。三木さんより8歳年上。仕事においては厳しいが、普段はやはり人格者で、情の深い人だった。実直な人柄で才能ある三木さんを阿久さんは放っておけなかった。
阿久さんはまず自分が審査委員長を務めていた日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」(1971年)の審査員に三木さんを加えた。気分転換になると考えたらしい。阿久さんは同じ創作者として三木さんの苦悩がよく分かったのだろう。
三木さんがなんとかスランプを脱したのは約2年後。復帰第1作として「コーヒーショップで」(1973年)をつくった。あべ静江(74)のデビュー曲だ。これも「阿久さんがお膳立てしてくれた」(花畑代表)という。
最初はレコード会社から阿久さんに詞の依頼があった。そのとき、阿久さんは「たかしちゃんが曲をつくるなら、書きますよ」と即答する。レコード会社は別の作曲家を考えていたが、先にこう言われては従わざるを得ない。
結局、この作品はヒットチャートで9位にランクインするヒットとなり、今も聴き継がれている。学園紛争の季節が終わった当時の大学周辺の情景が浮かんでくる名曲だ。あべの2曲目「みずいろの手紙」(同)も2人でつくり、これもヒット。三木さんは長いトンネルを脱けた。
それから3年後の1976年、歴史的名曲が生まれた。当時18歳だった石川さゆりによる「津軽海峡・冬景色」である。<上野発の夜行列車おりた時から−−>。津軽海峡を越えて故郷の北海道に帰る女性を描いた作品だ。
「石川さんにとって1学年下である山口百恵さんや森昌子さん、桜田淳子さんが脚光を浴びていた時期でした。三木さんは努力を惜しまない石川さんの真っ直ぐな姿に心打たれ、彼女の個性を生かせる作品を阿久さんと一緒につくろうと懸命になった」(花畑代表)
シングル盤3枚が生まれた。しかし、いずれもヒットと結び付かなかった。それでも三木さんと阿久さんは石川を成功させることをあきらめなかった。今度はアルバムをつくる。少女が大人の女に変わるまでをコンセプトにした「365日恋もよう」(1976年)である。
収録された全12作品のうち、前半6作品は阿久さんが先に詞を書いた。詞先と呼ばれる方式だ。後半6作品は三木さんが先に曲をつくった。曲先である。「津軽海峡・冬景色」はアルバムの最後の作品。曲先だった。
「阿久さんから三木さんへのリクエストはたった1つ。この作品は1番と2番がありますが、どちらの最後にも『津軽海峡・冬景色』という歌詞が入るようにしてほしいというものでした。三木さんの頭の中では自身が16歳の冬に経験した北海道への旅が蘇ったそうです」(花畑代表)
この作品は最初、シングルカットの予定がなかった。初披露の場は同年10月に大阪・新歌舞伎座で開かれた石川のワンマンショー。この作品が歌い始められた途端、観客たちの表情が一変した。驚いた顔、あっけに取られたような面持ちになった。
石川が歌い終えた途端、嵐のような拍手と大歓声が起こる。その日のうちからシングル盤の発売予定を尋ねる電話がレコード会社に相次いだ。急きょ1977年1月のシングル盤発売が決定する。
見抜いたテレサさんの本質
9年後の1986年、三木さんは「時の流れに身をまかせ」(作詞・荒木とよひさ)をつくる。台湾生まれでアジアの歌姫であるテレサ・テンの作品だ。「つぐない」(84年)、「愛人」(85年)も三木さん、荒木氏の作品である。
三木さんとテレサさんが初めて会ったのは1984年。当時のテレサさんは79年の不正パスポート問題の影響で日本に自由に入国することが出来なかった。
この問題はテレサさん個人の不祥事として語られることもあるが、実際には複雑。1972年に日本と中国の間で国交が樹立されたため、テレサさんの台湾のパスポートでは入国が難しくなった。このため、周囲がインドネシアのパスポートを用意してしまう。これが問題化した。
「当時のテレサさんが日本滞在を許されたのは1年のうち3、4週間。だからテレビなどに出るのは難しく、プロモーションは有線放送に頼るしかなかった。そこで三木さんは有線放送の特性を考え、何度聴いても飽きられない作品をつくった。『時の流れに身をまかせ』もそう。地味とも受け取れる曲なので、レコード会社から何度もつくり直すよう言われましたが、本人は頑として応じなかった。『これは静かな情熱の歌なんだ』と訴えた」(花畑代表)
三木さんはテレサさんの人物評をこう語っていた。
「おびえと情熱、謙虚さと信念が同居していた。あんな目をした人はほかにいなかったそうです」(花畑代表)
三木さんと荒木氏による3作品は中国語版もリリースされた。それもあり、1980年代のテレサさんは中国本土でも絶大な人気を誇った。ただし、その歌声を放送で流すことは禁じられた。理由は「精神汚染の源」だから。しかし、テレサさんが台湾出身者で、強い影響力があったからというのが定説だ。
やがて三木さんのテレサさん評は正しかったことが分かる。中国本土で自由を求める機運が高まった1989年、香港で中国民主化運動に加わった。「軍管反対」という主張を体に貼り付け、デモで先頭に立った。
身の危険や歌手活動への悪影響を心配する声も上がったが、本人はまったく怯まなかった。香港で開かれた民主化運動を支援するチャリティーコンサートには「民主萬歳(万歳)」と書かれたヘッドバンドを巻いてステージに上がった。
6年後の1995年、三木さんはテレサさんのための新曲をつくっていた。もうすぐ完成だった。そんなとき、テレサさんがタイで病死したとの連絡が入る。テレサさんが歌うはずだった新曲のタイトルは図らずも「忘れないで」。まだ42歳だった。
三木さんはテレサさんの没後、こう漏らしていたという。
「テレサさんは歌わないと生きられない人だった。彼女にとって歌は仕事ではなく、体の一部だった」
三木さんも同じだったのではないか。趣味はゴルフと囲碁、数独くらい。歌手と世間が喜ぶ曲をつくるのが生きがいだった。
三木さんの遺した曲はあらためて評価されている。昨年6月、代表曲61作品が収められた3枚組みCDアルバム「三木たかしソングブック」が発売されると、同年のレコード大賞の企画賞に輝いた。この記事に書いた作品のほか、1977年に岩崎宏美(67)が歌った「思秋期」(作詞・阿久悠)や88年発売の「アンパンマンのマーチ」などが収録されている。
作品のカバーもいまだ絶えない。花畑代表によると、年10曲程度の申し込みがある。
「時の流れに身をまかせ」は実に約50人がカバーした。桑田佳祐(70)や夏川りみ(52)らが歌った。
花畑代表の役割は三木作品の輝きが失われないようにすること。音楽業界は若いころから音楽一筋という人が多いが、花畑代表は56歳まで毎日新聞社のビジネス部門に勤務していた。このほど単行本を上梓したが、そのタイトルも自分が音楽界の人間ではなかったことから『部外者の流儀』(JTBパブリッシング)である。
「三木さんの名前が常にどこかで語られているようにしたい」
三木さんはそれに見合う仕事をした人だろう。存命なら81歳だった。
花畑秀人(はなばた・ひでと)
1985年、毎日新聞社入社。事業やデジタルメディアなどを担当する。2019年、早期退職。現在は三木たかしさんが設立した「空ミュージック」の代表取締役。『部外者の流儀』には音楽ビジネスの収益構造の現状なども書かれている。
高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。
デイリー新潮編集部
