ALSに罹患した津久井教生が振り返る母の思い出「母はALSの検査入院中に天国に旅立ちました」

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“リハーサルの合間を使って、母に会いに来ました♪(^o^) 久しぶりに職員の方に車椅子に乗せてもらったようです♪ 容体が安定していてホッとひと安心です♪ もうすぐ誕生日なのでがんばれ〜っ♪“

これは2019年6月に声優の津久井教生さんがXにしたポストだ。津久井教生さんが自身の体に異変を感じたのは、2019年3月のこと。突然足がもつれて派手に転んだという。徐々に歩きにくさを感じ、5月にかかりつけの整形外科に行っても「画像的には何の異常も認められません」と告げられ、神経内科への紹介状をもらったころと重なる。

その後、津久井さんは検査入院をし、2019年9月に感覚はあるままに体が動かなくなっていく難病「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」だと告知をされた。ちょうどこのころ、津久井さんは母親との別れをむかえたのだという。

2020年4月より2022年12月まで、最初は手でタイプして、手が動かなくなったら口に割り箸をくわえて打ち込んで連載をしていた。2022年12月には呼吸困難となり、気管切開を決断。その後は視線入力で原稿を寄せてくれた。その膨大な原稿を加筆修正し、さらに「声の出し方」や「あとがき」などを視線入力で書き下ろしてまとめたのが『ALSと笑顔で生きる。 声を失った声優の「工夫ファクトリー」』だ。

「ALSになるとはどういうことなのか」「介護される人の本音は」「気管切開や胃ろうをした人の感想」といったことは、なかなか当事者の生の声を聞くことができない。本書はそういう生の声に加え、声優養成所で長く教えてきた津久井さんが「声の出し方」のノウハウも詰め込んだ、実用エッセイでもあるのだ。

2026年5月10日「母の日」に、本書より津久井さんが母親についてつづった箇所を抜粋してご紹介する。

2019年9月1日

2019年9月1日に母が85歳で天に召されました。また腫瘍の摘出手術から退院した年は(編集部注・ALSの告知後、腫瘍がみつかって同年12月に摘出手術をした)、2016年4月5日にスキルス胃がんにより51歳の若さで天に召された弟の4回目のお盆でもありました。 津久井家は霊園にお墓があります。親父が宗派のないお墓を希望していて、ともすると 「散骨」してくれても良いというようなことを言いかねない人でした。親父に似ていると言われた私の考え方の根底はここにもある気がします。

母は2018年12月に誤嚥性肺炎で病院に搬送されて、人工呼吸器を装着して治療を行っていただき、生還しました。実はそれ以前の2015年くらいから入退院を繰り返していて、それでも病院に併設の介護老人保健施設に入所して穏やかに過ごしていました。

老いていく人間の生命の道筋をそのまま私に見せてくれていたような母でした。病院に運ばれて、昏睡状態から目覚めることが数度あって「これじゃあ死ぬ死ぬ詐欺よね」という名言を残したお茶目な母でしたし、この詐欺ならば何度されても良いと思いました。

しかしながら、この肺炎から一気に体力が落ちてほとんど寝ている状態になっていきました。2019年の私の検査入院をもう少し早くしても良かったのですが、母の状態が落ち着いていなかったので8月まで引っ張っていました。でもそんな母に私の体調不良のことを話すと「私にかまってないで自分のことをやりなさい」と気丈に私を病室から追い出したのです。

手の動きが不自由になっても編み物をしていた

母には小さいころから「人様に迷惑をかけるようなことはするな」とよく言われていました。自宅で編み物教室を開き、多くの生徒さんを編み物講師に育て、また詩吟の名取で、書道の師範でもありました。個人の技術を磨くやり方については、幼いころから母を見て影響を受けていたのだと思います。

少し手の動きが不自由になったときも、リハビリも兼ねて「孫のためにマフラーを編 む」と、二目ゴム編みという技術で見事に編んでいて、長年体が覚えた技術はすごいものなんだなぁ〜と感心したものでした。

そんな母も意識が行ったり来たりするようになり、無意識のうちに手が動いて点滴などをはずしてしまうのを防ぐためにミトンをつけるときが多くなっていきました。私はギリギリ七月まで車に乗れていたので、空いている時間はなるべく母の病室に行こうと頑張っていました。寝ていることが多くなった母ですが、病室に行って声をかけると目を覚ましました。そこで私は、行ったり来たりの記憶の話をするのです。

検査入院中にあちらに行ってしまうのでは…

口からご飯が食べられなくなり、鼻からの栄養と点滴だけになりながらも、昔話や私の仕事の話を穏やかに聞いていた母。私の検査入院中にあちらに行ってしまうのではないかと思っていた予感が、当たってしまいました。私の妻と息子に看取られて、私に迷惑をかけない母らしい旅立ちでした。

亡くなった二日後の明け方、ふと気配を感じて薄目を開けると、いつも病室にお見舞いに行った帰りに必ず笑顔でかけてくれた「じゃあね っ」という母の声が聞こえた気がしました。

◇手が不自由になっても編み物をし、人様に迷惑をかけたくないとひょうひょうとしている様子は、津久井さんそのものではないだろうか。津久井さんの「できなくなってもやりたいことを諦めない」「いつもユーモアを忘れない」姿は、このお母さんがあってのものなのだと改めて感じる。津久井さんが胃ろうや気管切開のことを考える際にも、大きな影響をうけていたのだという。

「2018年12月に誤嚥性肺炎で病院に搬送されて、人工呼吸器を装着して治療を行っていただき、生還しました」と書いている。そのときの会話は、「大きな影響を受けた」一つだといえる。そのときのことを抜粋記事2「ALS罹患の津久井教生が振り返る母の最期。「胃ろう造設・気管切開・人工呼吸器」の選択に影響した言葉」にてお伝えする。

【母の日記念2回目】ALS罹患の津久井教生が振り返る母の最期。「胃ろう造設・気管切開・人工呼吸器」の選択に影響した言葉