新海誠と細田守の“作家性”はなぜ差が出た? オリジナルアニメ映画がSNS時代に直面する壁
この連載は、2016年を契機として、この10年に日本のアニメに起きた変化を追うことを主旨としている。連載1回目の前回は、日本の商業アニメには批評の層が薄く、本来的な意味での「作家」が成立しにくいこと、それゆえにヒットが作家性の証明と半ばイコールになっていること、そして、その状況への対抗策として映画祭に代表される、作家をフックアップする仕組みの必要性を論じた。
参考:【新連載】「アニメの時代」を振り返る ポストジブリ史観とアニメ映画にとっての“作家”とは
では、すでに作家として市場で活躍した存在は、この10年でどんな圧力にさらされてきたのか。それをつぶさに見ることで、前回提示した構造の輪郭がはっきりするはずだ。
連載の2回目である今回は、その論点をこの10年を代表する2人のアニメ映画作家、新海誠と細田守の具体的な歩みを通じて深掘りしたい。ともにオリジナル映画を発表し続け、ヒットメイカーとしてアニメ映画市場を牽引してきた2人だが、今その行き先は明暗が分かれ始めているようにも見える。
あらかじめ断っておくが、本稿は新海誠と細田守、どちらが優れた作家かを論じるものではない。本稿の狙いは、2人の作家性がどう時代に適応しているのか、あるいは反目しやすいのかという時代との距離感を通じて、この10年がアニメ作家にとってどんな時代だったのかを明らかにすることだ。
■計画から生成へ 2人の作家を論じる前に、この10年がどんな時代だったのか、やや脇道にそれるかもしれないが、確認しておきたい。
評論家の福嶋亮大は、『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』(blueprint)のなかで、世界を席巻する巨大IT企業の経営理念に着目している。Googleは「ユーザーに焦点を絞れば、他のものはみな後からついてくる」と謳い、Amazonは「地球上で最も顧客を大切にする企業」を掲げ、Metaは「人と人がより身近になる世界」を目指すとする。1兆ドル超の時価総額を持つ企業のミッションとしては、福嶋の言葉を借りれば「拍子抜けするほどに凡庸」で、「無内容で当たり障りがない」(P37~38)。
福嶋は、20世紀は国家や企業が「社会をどう変えるか」を上から計画し、それに向かって人々を導いたが、21世紀はIT企業のふるまいのように、目的を提示せず、それを個々のユーザーに委ねるようになったと語る。この時代の変化を、福嶋は「計画から生成へ」と整理する。
これをエンタメに当てはめれば、ファンが欲し、感想を書いたりファンアートを作りたくなるもの(生成)が最も重要で、作家の見せたいもの(計画)は二の次ということになる。実際、推し活全盛のアニメ市場で勝つのは、ユーザーの欲望に最適化されたIP作品であり、その中核には長期に渡って蓄積されたキャラクターのデータベースがある。
オリジナル映画作家は、「自分が見せたい世界」を計画し発表するわけだから、この生成のサイクルに乗りにくい。
前回指摘した「批評の不在」と福嶋の論理は通底する。批評は、ある種の計画に基づく価値づけであり、それが機能しない場では生成の論理、すなわちユーザーの欲望に応えるものが勝利する。もともと、批評が弱かったうえに、こうした時代の変化に見舞われ、オリジナル映画が苦戦するようになったと筆者は考えている。
この視点を持ちながら、2人の作家を見ていこう。
■一目でわかる新海、文脈を必要とする細田 まず、新海誠と細田守の映像的特徴とモチーフを比較し、作品をまたいで強く刻印される作家性を明らかにしてみよう。
新海誠の特徴は、非常にわかりやすい。光あふれる美麗な風景描写、レンズフレアのようなカメラ効果を強調した映像美は、デビュー当初から定評があった。『君の名は。』以降はそこに躍動感ある物語と音楽が加わり娯楽性が高まったが、ストロングポイントは失われていない。新海の作風はほとんど一瞬で認識できる強固な視覚的インパクトを持つ。かつて写真を新海作品風に加工する違法アプリが出回ったことがその証左だ。
モチーフの面でも一貫性は明快だ。初期は男女のすれ違いと自然描写を重ね合わせ、『言の葉の庭』の雨、『秒速5センチメートル』の種子島のロケット発射といった風景に感情を託してきた。『君の名は。』以降は悲劇を乗り越える運命的な邂逅が加わり、東日本大震災と向き合い、天災が風景を一変させ人に牙をむくモチーフが前景化した。自然の美しさと暴力性を同時に描きながら映像を磨き続けるという軸は、キャリアを通じてぶれていない。
一方、細田守の映像的特徴は新海ほどわかりやすくない。精緻なレイアウトの同ポジションのカットを繰り返す客観的なカメラが特徴で、カメラが固定されるがゆえに、ほんのわずかな差異が強調されやすい。生活の何気ない変化を繊細に捉える。長回しのショットが多いのも生活感を強調する。同ポジションも長回しもそれ自体がすごいのではない。繰り返したり、長く見せても観客を飽きさせないほどに完成度の高い構図と芝居が作れていることに細田のセンスがある。
描いてきたモチーフは一見多彩だ。ネット社会(『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』『サマーウォーズ』『竜とそばかすの姫』)、時間と青春(『時をかける少女』)、家族のあり方(『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』)、そして最新作『果てしなきスカーレット』は死と生の狭間を舞台に据えた。
共通するのは「2つの世界」だ。『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』においては、ネットの世界で大事件が起きていても八神太一の団地では母親が呑気に麦茶を運んでくる。この対比構造は、狼と人間、バケモノと人間、現実と未来と形を変えながら全作品に通底している。
雑多なモチーフを選びながらも一貫性は強くあるが、選ばれる世界が多彩なのでその一貫性は新海に比べて伝わりにくく、人によっては迷走に映るかもしれない。
この可視化の困難さは、新海との決定的な違いだ。新海の映像は一枚絵としてSNSでも拡散されやすく、ユーザーの生成の素材としても使いやすい。一方、細田の映像とモチーフを理解するには、ある程度の文脈を必要とする。短時間でどちらがより多くのアテンションをとれるかは明白だ。
■細田作品のプロモーションと作家自身が推されること この作風のわかりやすさの差は、プロモーションのしやすさに直結する。
かつての映画プロモーションには「予告詐欺」的なものもあった。だが、SNS時代はそうした期待と現実の乖離は、批判の対象となりやすい。新海誠のプロモーションはそうした批判を受けることはあまりないが、細田守の場合はいささか本編と予告編とのギャップを感じることがある。
例えば、『未来のミライ』は7月の夏休みシーズンに公開され、それに見合った「大冒険」を描く作品であると予告ではプッシュされたが、実際は4歳の男の子のわずかな成長を巧みなアニメーションと繊細な日常描写で描く作品で、文芸的な作品と言える(だからこそ賞レースでの評価が高い)。
『果てしなきスカーレット』は、これまでとはビジュアルもガラリと変わり、超大作という貫録を演出するプロモーションで始まったが、途中から過去作のヒロインを登場させるという迷走をすることになった。これまでの作品と違うのか、連続性があるのか、観客はわからなくなり、興行成績は大きく沈み込むことになった。
筆者の視点では、細田守は人の営みのこまやかさを描く文芸作品タイプで力を発揮すると思う。夏の超大作のような作品ではそのストロングポイントが生きない。スケールある大作を求められる商業的ポジションを担うことになったのは不幸なことかもしれない。
アニメは予算がかかるものであり、秋の文芸作品のマーケットサイズで回収を図るのは構造的に難しい。しかし、だからといって作家性と乖離したプロモーションを重ねれば、信頼は損なわれる。この矛盾は、細田守個人の問題ではなく、商業的な要請と作家性のねじれであり、批評が弱い現状の構造的な軋轢である。
そしてもうひとつ、SNS時代の作家には、プロモーションをめぐる別の課題がのしかかる。「推し活」という言葉が定着して久しい。アニメにおいて推される対象は、なんといってもキャラクターであり、だからこそ魅力あるキャラクターを多数有するIP作品の興行が好調なのだ。新海や細田のようなオリジナル映画で勝負するタイプは、ここで商業的なハンデを背負うことになる。このハンデを乗り越えるためにどうすべきか。端的には、作家本人が推されるしかない。
その意味で、新海誠は自身の作品における最大の広告塔として機能している。公開後は国内だけで100を超える舞台挨拶をこなし、インタビューも膨大に受けるし、X(旧Twitter)のスペースで秘話を語るなど、ファンとの接点作りを欠かさない。しかも、それは本人が好き好んでやっていることを公言していて、「やらされている感」がない。
一方、細田守は新海ほど露出は多くない。誰だって新海と比較されれば露出は劣るかもしれないが、Xアカウントも動かしていないし、舞台挨拶の数も少ない。『竜とそばかすの姫』封切り時には、日本におらずフランスのカンヌ国際映画祭に参加していた。コロナ禍で5月開催が7月にずれ込んだために仕方ない部分もあるが、一般のファンには観客よりも華やかな賞を優先したように見えたかもしれない。
■映画祭は現状、どこまで機能しているか 細田守は、近年の国内での一般的評価とは裏腹に、国際的なプレゼンスは高い。『未来のミライ』はカンヌ国際映画祭の監督週間に選ばれ、アカデミー賞にもノミネート。『竜とそばかすの姫』もカンヌプレミア部門に出品された。そんな過去の実績が後押しして、『果てしなきスカーレット』はベネチア国際映画祭に選ばれることになった。
しかし、その賞レースでの実績が興行成績に結び付くことが、日本国内では今のところない(海外セールスの大きな後押しにはなっている)。
これは細田に限らず、アヌシー国際アニメーション映画祭で絶大な人気を誇る湯浅政明にも言える。映画祭の権威と国内興行を接続する回路は、まだ確立されていない。
新海誠の場合は、『すずめの戸締まり』でベルリン国際映画祭のコンペティション部門に選出されたが、このタイミングは国内興行がひと段落した後であり、海外市場へ打って出る局面だったので、海外市場に対してある程度のインパクトを残した。
■作家は誰のために「計画」するのか 前回、本連載では、日本の商業アニメにおいては批評が弱く、ヒットが作家性の承認と結びつきやすいと書いた。今回、新海誠と細田守を並べて見えてくるのは、その条件のもとでどんな作家性が可視化されにくいかという問題である。
新海誠の作家性は、視覚的インパクトの強さ、主題の共有しやすさ、監督本人の公共性を含めて、ユーザーによる「生成」主体の市場環境と相性が良かった。対して細田守の作家性は、作品を観続けること、比較すること、批評的に言語化されることを通じて見えてくる。
だからこそ、2人の現在地の差を単なる個人の明暗として見るべきではない。そこには、2016年以後のアニメ映画市場が何を得意とし、何をまだ支えきれていないのかが表れている。批評も映画祭のエコシステムも十分に機能しない現状では、作家性のわかりやすさと「生成」との相性という偶然に、作家の命運が委ねられすぎている。
この10年が作家に突きつけたのは、自らの作家性を、いまの環境のなかでどう可視化し、どう流通させるかという条件の変化である。オリジナル映画をめぐる苦境を考えるうえで、新海誠と細田守の明暗は、個人の資質以上に時代の構造を映している。(文=杉本穂高)
