町野修斗〈前編〉想定外の珍プレーで一発退場「ホントに宇宙人なんです」(履正社高監督・平野直樹)【北中米W杯 日本代表選手の恩師を総直撃】
【北中米W杯 日本代表選手の恩師を総直撃】
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FW町野修斗(ドイツ1部 ボルシアMG/27歳)
4年前の前回カタールW杯では追加招集で本大会メンバーに滑り込みながら、結局は出番なしに終わった。誰よりも「次は必ず檜舞台でプレーしてやる」という思いは強いはずだ。教え子の成長過程をつぶさに見てきた高校時代の恩師が語る──。
◇ ◇ ◇
──町野は三重県伊賀市の出身。履正社に来た経緯は?
「僕は2003年から履正社の監督を務めていますが、その1期生が、町野が中学時代にプレーしていたFCアヴェニーダソルでコーチをしているんです。その縁で紹介を受け、練習に来てもらった形です。当時はボランチをやっていたのですが、僕は『この選手はFWで面白いんじゃないか』と感じた。入学当初はコーチたちがボランチで使っていたんですけど、『彼はセンターFWだよ』と伝えて、最前線で育てていこうと決めました」
──なぜそう思ったのですか?
「まだ線は細かったですけど、身長も高いし、左右の足でボールを蹴れるし、センスがあるなと感じました。FWの育成は日本の課題ですし、後ろに下げるのはいつでもできる。そこでトライしたいなと考えたんです。町野が中学までボランチだったのは、ボールをたくさん触れるからでしょうね。お山の大将の選手は『俺にボールを預けろ』というスタンスですし、自ずとそうなっていったのかなと思います。でも15歳の時点では有名ではなかった。東海選抜に入ったことがあったかもしれないけど、割と我が強いタイプだったんで、定着しづらかったのかな、という気がします」
──履正社は越境入学になりますね。
「当時は寮がなかったので、近所のアパートで1人暮らしでした。食事は野球部OBがやっている食堂で食べさせてもらっていましたが、洗濯や片付けを自分でやり、自立心は養われたと思います。彼の両親は凄くしっかりしている人で三重から週末には応援に来ていました。お父さんは三重県国体選抜に選ばれたサッカー選手、お母さんはバレーボール経験者。身長が高いのはお母さん譲りですが、サッカーの基本技術の高さはお父さんの英才教育によるところが大でしょう」
──1年から試合に使ったんですか?
「2つ上に林大地(G大阪FW)と田中駿汰(C大阪MF)がいるチームだったんですけど、高いレベルを経験させようと思ってメンバーに入れました。大地は少年の頃、自転車に乗りながら『俺はサッカーが好きだ!』と叫びながら走っていたというエピソードがあるくらいの生粋のサッカー小僧。その先輩からFWとしての姿勢を学んだ部分は少なからずありますね」
急逝した恩師への恩返し
──1年の町野選手のエピソードは?
「忘れられないのが、15年の高円宮杯プレミアリーグ・ウエストの最終節・大分U-18戦でのレッドカードですね。その年は京都橘の降格がいち早く決まり、ウチも下位だったけど、得失点差で大丈夫だろうと思って最終節を迎えました。ところが、ウチと残留を争っていた名古屋U-18が京都橘に前半6−0でリードしているという情報が入ってきて、勝ちにいく必要性が出てきた。そこで一発に期待して後半途中から町野を送り出しました。ところが、スローインをゆっくりやろうとした相手選手のところに歩み寄り、コツンと足を出してしまって一発退場となった。僕自身、何が起きたのか分からず、『なんでそんなことするの』と目が点になった。ホントに町野は宇宙人なんです(苦笑)。結局、試合は0−0に終わってプリンスリーグへの降格が決まった。帰りのフェリーはお通夜状態でしたね」
──その年は高校選手権も逃したんですね?
「はい。良いメンバーが揃っていたので選手権優勝を目指していたんですが、阪南大高に負けてしまった。気の強い大地が翌日、『先生、今日だけは休ませてください』と言ってきたくらいショックが大きく、その分プレミアリーグに賭けていたところがあったんです。それが最終節で町野が退場して降格というのは本当に残念だった。本人も先輩に申し訳ないという気持ちでいっぱいだったはずです」
──その後、本人は奮起したでしょうね。
「直後の12〜1月にかけて、僕がガンバ大阪ユース時代に教えていた大黒将志(奈良監督)が連日来てくれて、町野にFWとしての動き方やシュートのタイミングなどをアドバイスしてくれました。2006年ドイツW杯に出た元日本代表FWから直々に教えてもらえたことで、町野も学びが多かったと思います。もうひとつ、高2になるに当たって大きかったのは、FCアヴェニーダソル時代の関本(恒一)監督が亡くなったことです。彼は僕の四日市中央工高時代の後輩で、鳥栖でプロをやっていた人間なんですけど、町野に手をあげたことがあったらしく、履正社入学後も時々試合を見に来てくれていました。その彼が16年1月に病気で急逝し、葬儀会場で町野と会った時に『関本が必ず見ているから頑張らないといけないよな』と声をかけました。修斗もじっと聞いていましたが、『プロになって恩返ししたい』と強い決意を抱いたはずです。そのあたりから自覚が芽生えたのかな、と思います」
【後編】につづく
(聞き手=元川悦子/サッカージャーナリスト、絹見誠司/日刊ゲンダイ)
▽まちの・しゅうと 1999年9月30日生まれ、27歳。三重・伊賀市出身。地元クラブのFCアヴェニーダソルから大阪・履正社に進学。卒業後にJ1の横浜M入り。19年J3の北九州でクラブ初のJ2昇格に貢献。21年にJ1・湘南に完全移籍。22年に13ゴールを決めてJ1得点ランク2位(日本人選手単独首位)。23年6月にドイツ2部キールに移籍し、同クラブの1部初昇格の原動力となった。25年7月、1部の古豪ボルシアMGに4年契約で引き抜かれた。22年7月に日本代表初招集。同年東アジアE−1選手権で代表デビュー。22年W杯カタール大会に追加招集されたが、出場機会なしに終わった。
▽ひらの・なおき 1965年11月2日生まれ、61歳。三重県出身。四日市中央工高3年次に高校総体優勝。冬の全国サッカー選手権ベスト4。元ユース日本代表。順天堂大卒業後にJSL松下電器(現Jガンバ大阪)入り。プロ化によってガンバ大阪に移行した92年限りで現役引退。ガンバ、仙台でユース監督など歴任後、03年に履正社高サッカー部創設と同時に監督に就任した。18年には日本高校選抜の監督としてドイツで開催された国際ユース大会でチームを優勝に導いた。
