撮影・内外タイムス

写真拡大 (全4枚)

2月9日に不同意わいせつ容疑で逮捕された羽賀研二。このニュースに「またか」と思った人も少なくないだろう。後に不起訴処分となったが、逮捕は今回で4度目となる。

過去には2007年に詐欺と恐喝未遂の容疑で最初の逮捕、2019年には強制執行妨害容疑で逮捕され、いずれも実刑判決が確定し、沖縄刑務所に収監されている。これまでの罪に対する懺悔(ざんげ)の思い、そして芸能界での栄華、未練などについて赤裸々に語った。

哀川翔、柳葉敏郎らとスターを目指した路上下積み時代

――沖縄のスター、まだまだお若いですね。

羽賀 1961年の7月21日生まれなので今年で65歳ですね。棺おけにまた近付いたかな。日々年齢を感じています。

――芸能生活は長いですね。何年目になりますか?

羽賀 デビューして47年ぐらいですかね。でも、実際に芸能活動をやっていたのはそこから10年差し引いたぐらいで、今も少しずつだけど、またやっています。できることはとにかく何でもトライしていこうという毎日ですね。

――羽賀さんを知らない世代も多くなってきたのでは?

羽賀 街を歩いていても20代、30代前半ぐらいは僕のことを知らない人が多くて。いろいろ騒動があって、ここ最近もニュースで見て「あれっ?」っていうことはあると思うんですけどね。見た目と名前が一致して僕を認知している人は、たぶん30代半ばぐらいから上の人だと思います。

――芸能界に入ったきっかけは?

羽賀 もともと沖縄で生まれ育って、父親がアメリカ人、母親が沖縄の人間です。家は貧しかったのでずっとアルバイトをしながら、スポーツばかりやっているという日々でした。中学生の頃に、芸能界にはスカウトというものがあることを知りました。でも、田舎者だから「どこかに連れていかれるのでは」って怖がっていましたね。

沖縄とは距離があってやっぱり遠いんですよ、芸能界が。これが同じ陸続きの関西にいるとか、せめて九州、四国にいたならばもう少し芸能界が近い気がします。沖縄だとあまりにも遠くて、「スカウトって何?」という感じでした。

たまたま、スターダストプロモーションの社長、副社長が沖縄に来た時、ジーンズショップで買い物をしていた僕に声を掛けてくれたんです。「東京に来ないか」ってスカウトしてもらって、(東京に)行ったのが芸能界に入るきっかけですね。バスケットボールの推薦で福岡大学に入学が決まっていたので、もしスカウトがなかったら今頃、体育教師になっていたのかな。

撮影・内外タイムス

タモリの横で初代いいとも青年隊に

羽賀 上京してから牛乳配達を1年半くらいやっていましたね。社長の家に居候しながら、原宿の歩行者天国でギターを弾いて、歌を歌っていました。当時は「タケノコ族」とか「ロックンローラー族」っていうのがものすごく流行っていました。ロックンローラー族は代々木体育館のあたりに1000人、2000人ぐらい集まって、リーゼントに革ジャンを着て、踊っていました。タケノコ族っていうのはカーテンみたいなひらひらした服装をまとい、男性も女性もメイクをして踊るんです。

僕はというと代々木体育館の横にある長い階段で、「『いちご白書』をもう一度」とか「20歳のめぐり逢い」なんかを歌っていましたね。そこで仲良くなった仲間たちと「劇男零心会」っていうグループを作ったんです。そこには哀川翔や柳葉敏郎、風見しんご、野々村真もいました。それが後に「一世風靡」と名前が変わっていくんですね。

そこから僕と(野々村)真は「(笑って)いいとも!」(フジテレビ系)に出るようになって、風見しんごと柳葉敏郎は欽ちゃん(萩本欽一)の番組に行って、そこからみんなメジャーになっていったと思います。

僕はミュージカル「ザ・ファンタスティックス」(1981年)で正式にデビューしました。本当は役者方面に進みたかったのですが、なぜか「いいとも!」というお笑いのほうに行ってしまった。

――でも、「いいとも!」で知名度が上がったのでは?

羽賀 そうですね。「いいとも青年隊」になって、タモリさんの横で3人で歌って踊って、笑えないギャグを言ったりして。それがメジャーになれた一番大きなきっかけです。もう本当に人生が変わりましたね。「いいとも!」に出るようになってからは、街を歩けなくなりました。外を歩くにしても付き人やマネージャーが2、3人一緒でないと歩ける状況じゃなかった。今の芸能界はYouTuberがいたり、ティックトッカーがいたり、そういう時代じゃないですか。だから、どこからが芸能人なのかという境界線がないですね。

僕も今も芸能界でやらせてもらえて、もうこんな年になっちゃいましたけど、順風満帆かと思ったら事件に巻き込まれたりして、本当に波乱万丈っていうのかな。2度、3度繰り返して驚くような人生ですけど、こうやってまた声を掛けていただいて、取材を受けるなんて思いもしなかったので感謝しています。

芸能生活は40年以上、うち10年は「中落ち」

撮影・内外タイムス

――「いいとも青年隊」はスターを多く輩出しましたね。

羽賀 僕らが初代で、後にもう何組も出ているので、たまに仕事でご一緒するんです。この間も三社祭に行った時に「僕もいいとも青年隊でした」って声を掛けられました。いいとも青年隊はディレクターや女性もやったりしたので、もう十何組にもなるんじゃないかな。でも、やっぱり初代っていうのがありがたい。60歳を過ぎた今でも「いいとも!」のことは言われるので、やっぱり国民的なテレビ番組だった気がします。

もう芸能生活は40数年。さっきも言いましたが事件等があって10年くらい芸能活動を休んでいた時期があったので“中落ち”していますが、今でも街を歩いていると「サインお願いします」と声を掛けられ、元気をもらっています。だから諦めずにずっと、まだやれるのかなって。

友だちには「もう辞めたらいいんじゃない」ってよく言われます。今、会社を経営していて、「この事業をやっていけば普通に食べていけるんだから、そっちをやっていけば」とか、時には「いつまで(芸能界に)へばりついてるんだよ」って厳しいことも。

だけど、ファンの人たちから日々、エネルギーをもらってるっていうのが本音です。例えば、僕は声優もやっていて、「アラジン」(1992年)の声は、三十何年以上前にやらせていただいた仕事。あと「ストリートファイターⅡ」(1994年)のケンの声をやったことなどをみんな覚えてくれているんです。

芸能の仕事だけでは食べていけない

羽賀 声優のことをいまだに覚えていてもらえることは本当にありがたいです。芸能界にへばりついているんですかね。できるならもう一度頑張りたいのでYouTubeを仲間と一緒に手作りでやっています。フォロワーは多くないし、本当に趣味程度なんですが、少しずつ仕事につながっていっているかなと思っています。

ほかには、祭りのゲストでのトークショーや、知り合いの企業から会社の大きなパーティーに呼んでいただいたりとか。今はやっていないんですが、以前、ジュエリーのデザインを自分でしていて、わりと大きくやっていたんです。今も1、2カ月に1回くらいのペースで展示会や企画があれば呼んでもらえています。

あとはYouTubeのコラボで呼んでもらえたりだとか。テレビで華々しく活躍している人たちからすると小さな仕事かもしれないけど、今の僕にとってはものすごくありがたい。自分の大事な仕事になっていて、感謝しかないです。

――今はさまざまな分野のお仕事をやられているようですね。

羽賀 やっぱり、食べていかなければならないので。以前は完全に芸能界の仕事オンリーでした。そこにジュエリーの仕事もありました。ジュエリーも僕の中では芸能界の仕事という認識でしたし、すべてそこ一本で食べていけたのですが、今はそれだけの仕事ではとても食べていけるような状況ではないですね。芸能活動はほぼやれていないです。なので、友人と立ち上げた会社を2つ3つ、本当に小さな会社なんですけど食べるためにやっている感じです。

羽賀研二単独インタビュー(後編)「消えろ」「何回目?」終わらない誹謗中傷 出所後の民泊生活から会社経営の現在 に続く

撮影・内外タイムス

《プロフィール》
羽賀研二(はが・けんじ)タレント、実業家。1961年生まれ、沖縄県出身。高校卒業後に上京し、路上パフォーマンス集団「劇男零心会」に所属。1981年のミュージカル「ザ・ファンタスティックス」で芸能界デビュー。1982年「森田一義アワー 笑っていいとも!」の初代いいとも青年隊に選ばれる。2007年に知人男性に未公開株を知人に効果で売りつけた詐欺と恐喝未遂の容疑で最初の逮捕、懲役6年の実刑が確定し、沖縄刑務所に服役した。2019年には不動産の一部を元妻に譲渡し、これが偽装離婚による財産隠しとみなされ強制執行妨害容疑で逮捕。2020年に強制執行妨害の罪で懲役1年2カ月が確定し、再び同刑務所に服役した。