現在102歳!作家・佐藤愛子最後のインタビュー。施設に入る前に語った「ぼけていく」ことについて〉から続く

 施設に入る前のインタビューでは、佐藤愛子さんの自他を見る目は冷静で、全体にそこはかとないおかしさが漂い、ぼけかけているというのは“リップサービス”かのようでした。しかし、体調を崩したと娘の響子さんから連絡があり、継続が不可能に。そこで娘の響子さん、孫の桃子さんに「作家・佐藤愛子」のありのままの姿を語ってもらいました。『ぼけていく私』からその一部を抜粋してお送りします。

【写真】この記事の写真を見る(3枚)

◆◆◆

百二歳の母と娘と孫の距離感

響子 母は自分の子育てのことを話題にする時、「呵責」という言葉を使うんです。私にすまないことをした、と。だけど母が呵責を感じているところと、私が母に「謝ってくれよ」と言いたいところは、全然違うんです。

桃子 その話、よく聞いてます。

響子 夜中まで母が原稿を書いている机の横で、幼い私が寝ていた。寂しい思いをさせたと何度も書いたり話したりしているけど、そんなことより当時の私にはサンタクロースが来なくなったことが一番の問題で。

桃子 九歳で終わったんでしょ。

響子 八歳までは朝起きたらあったんですよ、プレゼントが。だから「なんで?」「なんでうちにはサンタさん来ないの?」って聞いたら、「大人になったってことでしょ」って突き放された。サンタさん、信じてたのに。


 

桃子 与えないのが美徳って発想なのかな?

響子 いや、単に忙しいとか買い忘れたとかだと思う。そのくせ「小学校の担任のN先生が笑ってたけど、クラスでサンタクロース信じてるのあんたとあと一人いただけだって」と言ってる時、すごく微笑ましそうなんだよね。

桃子 祖母には自分なりの子育て像があって、そこにはすごく自信があるんだけど、自分自身があまりに特殊な育ち方をしたから、実際の娘の気持ちは全然わからないんです。すごく印象的なのが、乳母という人の言葉。「私を作った言葉」の一つとしてあげていて。

〈〈私の母は母乳の出が悪くて、私は乳母に育てられました。(中略)私が小学校に行くのが嫌だ、あれは嫌だこれは嫌だと、今でいう登校拒否になっている時にこう言ったんです。

「お嬢ちゃん、なんぼお嬢ちゃんやかて、大きゅうなったらどうしてもせんならんということが、世の中にはおますのやで」〉

(『それでもこの世は悪くなかった』文春新書)〉

響子 きょうだいの中で自分が一番可愛がられたって何度も書いてますからね。母は今、認知症が進んで、私と姉の早苗を混同していますが、「申し訳なかった」と言って泣く時があるんです。紅緑はおいしいおかずの時はいつも「愛ちゃん、これお上がり」って母にだけくれたそうなんですよ。母はそれを当たり前に食べていたって。姉ちゃんに可哀想なことをした、って泣くんです。でも早苗さんにしたら、妹だからと割り切っていたかもしれないじゃないですか。勝手に母が自分のフィルターを通して可哀想がっているだけかもしれない。

桃子 ストーリーを組み立てているんです。

自分の考えを疑わず単純で行きあたりばったりな母への諦め

響子 私を不憫がる「母の横で寝ながら本を読んでいた」というのも、私は嫌いじゃなかった。外から入って来る夜の気配が好きだったし、そこらへんにある本を適当に開いて、『ウンコによる健康診断』とか面白かった。

桃子 よりによってその本かよ。

響子 とにかく母は、自分の考えを疑わない人なので。

桃子 一度こうだと思ったら、それが祖母にとっての正解。人間は変化するものだけど、そこには気づかないし、矛盾には向き合わない。まあ、その方が楽ですから。

響子 単純な人だと思うんです。行き当たりばったりで、深みがあるようでないというか。

桃子 だから考えない人でしょ。

響子 そういう人だから、いろいろ言ったところでしょうがないと諦めてる。

桃子 私は、響子さんが可哀想だと思ってるんです。結婚するまで佐藤愛子から与えられる幸福や不幸以外を知らなくて、祖母のせいでそういう人生を送らされた。

響子 この子と私の見方が違うのは、この子は「先生」になってからの母しか知らない。私は「先生未満」の、借金(夫で作家の田畑麦彦氏が事業に失敗し、債権者から逃れるための偽装離婚のはずが、田畑氏はすぐに別の女性と再婚)を返すのに必死だった頃から、母とずっと一緒でした。そこが大きいと思います。

〈〈年も押し詰ってから債権者会議が開かれた。その日、私は一日中「おせっかいの季節」という少女ユーモア小説を書いていた。桃子は私が仕事をしている机の前で、ケシゴムを刻んでママゴトのおかずを作っていた。

「あーあ、ここの家ときたら、いったい、一家団欒ってことを何と思ってるのかねえ」

 突然、桃子は呟いた〉

(『戦いすんで日が暮れて』講談社文庫)〉

桃子 え、何? 『戦いすんで日が暮れて』では響子さんが「桃子」なの? 読んでないから全然知らなかった。

響子 本が出たのが小学四年生の時で、私は自分が出ているページを開いて「あたしだ」って喜んでいました。「桃子」という柔らかい感じがいいなと思って、その時から娘が生まれたら「桃子」にしようと決めてたんです。

桃子 サルとかチンパンジーにつけられがちな名前だけどね。

響子 響子という名前が硬い感じで好きじゃなかったから、母に「なんで私を桃子にしなかったの?」と聞いたら、「パパが響子がいいって言ったんだよ」と言ってました。

支配の根底にあるのが「この子のため」

響子 就職準備には乗り遅れて、母に相談したら、「就職なんてせんでいいわ」でそのまま。「大きな会社の駒になったってしょうがないんだよ」と言ってましたね。ぶらぶらしてるなら私の秘書をせよ、となりました。

桃子 給料はどうだったの?

響子 もらっていたけど、いくらだったか。大学の時のお小遣いは三千円だったけど、それよりは多かったと思う。

桃子 少な過ぎる。いつの時代の話?

響子 バブル前夜で、母はバンバン書いて、儲けてました。「娘と私の部屋」から始まった「ノンノ」の連載とかね。つらかったのが、お勤めなら九時から五時だけど、母とだと一日、二十四時間なんですよ。

桃子 身の回りにいる人間はこき使って当たり前という考え方だからね。

響子 「あんたは別に何にもしてないんだから、十万円なんてあげられない」とか、すぐそういう計算になる。

桃子 そういうのを、響子さんはなんだか飲み込んじゃうんですよ。

響子 確かにそうだね。

桃子 祖母は働くことで自己実現をしていくという発想は全くない。

響子 自分のしたいことはしなさい、とは言うんだよね。

桃子 だけど実際にやろうとすると、止められる。母さんが芝居を上演した時もそうだった。

響子 自分で脚本を書いて上演したんです。経費を生前贈与として母から譲られたお金で賄ったら、「こんな道楽して。もう二度とするな」という反応でした。

桃子 つまり何もするな、と。

響子 支配の根底にあるのが、「この子のため」だとはわかるんです。だから逆らえなかった。母の中では支配欲と愛情が、どこで分けていいかわからないほどくっついてしまっている。しかも活火山の人だから、心配を始めるとどんどん大きくなる。でも、そういう形でしか愛せない人だという可哀想さも、私にはすごくあるんです。

桃子 私が祖母をクールに見ているのは、十代の頃の体験があるんです。痛いオタク少女だった私は精神的に不安定で、いろいろ苦しんだけど、当時の母はそんな私を受け入れられなかった。それはそういう人間を育てた祖母のせいだ、と思っていました。

響子 あの頃は母との関係、娘との関係、その間に挟まれていました。私は母に言われたことは割ときっちり守ってきて、それが正しいと思っているから、娘にも言うわけです。だけどある時、それはもう母と私の代で終わりにしようと考えるようになりました。

親が作家なんてしんどい以外の何ものでもない

桃子 響子さんは自由なはずの若い時代に、夫である私の父に出会うまで佐藤愛子の方だけを見させられた。それって可哀想だって思います。

響子 他人の意見を伝えても、「そんなもんを相手にしてどうするんだ」って反応をされる。その迫力に、だんだんと「母は法律なんだ」と思うようになるわけです。

桃子 家庭に父親がいなかったというのもあると思います。でも母から父親を奪ったのも祖母だと思うんで。

響子 いやいや、あの親父がいたらいたで大変だからね。作家は、男も女も子どもを作るなって思ってましたから。生まれてきた子からすると、親が作家ってしんどい以外の何ものでもない。あなたたちには作品という子どもがいるじゃないですか、って言いたかった。

桃子 いつからそう思うようになったの?

響子 二十五歳過ぎた頃からかな。私が十五の時に母が北海道の浦河町に別荘を建てて、それ以来夏には必ず行っていたけど、夏休みに行くのが浦河町だけっていうのは変だな、って思うようになったのがその頃で。

桃子 北海道に行っても、空港と浦河町の往復だけだったね。

響子 桃子が生まれてからは私たち家族も浦河町に行っていました。ある時、浦河しか知らない私たちを見かねて町の人が釧路旅行に誘ってくれたんです。母がちょうどお友達と札幌に競馬を見に行く予定があったから、同じ日に私たちは釧路に行きたいって言ったんですよ。そうしたらだんだんだんだん機嫌が悪くなっていって「私が留守の間に楽しもうっていうのか」。

桃子 そうすると、アワアワしちゃうんですよ、響子さんは。「はい、そうです」って答えればいいだけだと、私は思うんですけど。

構成 矢部万紀子

佐藤愛子(さとう・あいこ)
1923年大阪府生まれ。甲南高等女学校卒業。小説家の佐藤紅緑を父に、詩人のサトウハチローを異母兄に持つ。69年『戦いすんで日が暮れて』で第61回直木賞、79年『幸福の絵』で第18回女流文学賞、2000年、65歳から執筆を始めた佐藤家3代を描く『血脈』の完成により第48回菊池寛賞受賞。15年『晩鐘』で第25回紫式部文学賞を受賞。17年旭日小綬章を受章。

響子(きょうこ)
杉山響子 1960年生まれ。玉川大学文学部卒。両親の離婚後、母の佐藤愛子と暮らす。著書に『物の怪と龍神さんが教えてくれた大事なこと』『憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ』。

桃子(ももこ)
杉山桃子 1991年生まれ。立教大学文学部卒。「青乎(あお)」名義で、映像や音楽作家として活動する。著書に『佐藤愛子の孫は今日も振り回される』。

(佐藤 愛子,杉山 響子,杉山 桃子/ライフスタイル出版)