研究者・大野裕之さんの執念が実った「チャップリン幻のアウトテイクフィルム」−−歴史を動かした「1回でダメなら2回頼む」大阪スピリッツ
サイレント喜劇の巨匠、チャールズ・チャップリン。人間味と社会風刺の利いた名作は、今なお色あせない。そのチャップリン研究の第一人者が、日本チャップリン協会会長を務める脚本家の大野裕之さんだ。周囲に反対されながらも意欲的に研究をつづけた。そんな中で巡り合ったのが幻と言われたチャップリンの『アウトテイク・フィルム』だった。
前編記事『すべては『独裁者』からはじまったーー脚本家・大野裕之氏が語る「チャップリンの魅力」と「ヤバい」小学生時代』に引き続き、その軌跡を聞いた。
諦めきれなかった"チャップリン研究"
ミュージカルに魅了されてイギリスから帰国し、『ミュージカルを作りたい』と思うようになりました。運よく京都大学の総合人間学部に合格し、ミュージカル劇団『とっても便利』を旗揚げしました。今も劇団は続けていて映画や演劇を作っており、創作活動と研究活動はクルマの両輪だと思っています。
総合人間学部は、なんでも好きなことをやっていい、京大らしい「ええ加減な学部」で、それまで興味を持ってきたことが次々と接続点を見つけて広がっていく感覚がありました。
大学では、浅田彰先生を講師に迎えて開催していた現代思想の自主ゼミに参加したのですが、『チャップリン自伝』をきっかけに読んでいたショーペンハウアーから、ニーチェ、そして現代思想へと、そこでも好奇心のリンクが繋がったように感じました(理解できていたかどうかは別ですが)。
--チャップリンの研究をはじめたのは?
学部では映画学を専攻しました。卒業論文でチャップリンについて取り組んだ後、修士や博士に進んだら、「ほかの映画作家も研究したい」と思っていました。実際、京大の学祭ではゴダールやパゾリーニの特集上映を企画していましたので。しかし、チャップリンは非常に巨大な存在で、卒論だけでは終わらなかった。
そこで大学院で、「もう一回チャップリンについて研究したい」と指導教官に相談したのですが、「チャップリンは世界中で最も知られ尽くされているから、他の作家の研究をしたらどうか」と言われました。実際そうなんですよ。1970年代までにチャップリン関連の書籍は2000冊以上出版されており、研究し尽くされているように見えるわけです。
というわけで、教官からは「京都には2つの撮影所があり、時代劇は研究すべきことがたくさんあるので、日本映画の研究をしたらどうだ」と。その上で、「よほどの資料が見つからないとチャップリン研究はやっちゃダメだよ」と指導されました。つまり、それは京都風に婉曲的に「やめなはれ」と言われているわけなのです(笑)。が、僕は生粋の大阪人。「ほな、よほどの資料を見つけてやろうやないか」と火が付いて、渡英しました(笑)。そこで注目したのが“アウトテイク”です。
まるで撮影所の片隅にいるようだった
--チャップリンの“アウトテイク”とは?
チャップリンは「完璧主義者」で。一つのギャグであっても、20回、30回と取り直すことで知られています。そんなわけで、彼の撮影所では大量の“アウトテイク”、つまり彼がボツにしたNGフィルムが発生したのです。それが1980年代に奇跡的に発見され、その貴重なフィルムをもとにイギリスで『知られざるチャップリン』というドキュメンタリー番組が作られました。
『知られざるチャップリン』は、未公開のフィルムを基に、チャップリンのスタイルが確立されていく過程が描かれており、創作の秘密がよくわかる優れたドキュメンタリーでした。しかし、番組はわずか45分。半世紀以上もスターであり続けた人のアウトテイクが45分のわけがない。『まだどこかに眠っているはずだ』と思ったのです。
じゃあ、どこにあるのか? 当時はまだインターネットも発達しておらず、手がかりはドキュメンタリーを作った制作会社『テムズテレビジョン』の名前だけでした。「『テムズ』やから、ロンドンに行けば手がかりがあるやろ」とまた軽い気持ちで(笑)渡英して、ロンドン中の50箇所以上の博物館を「チャップリンのアウトテイクないか」と尋ねて回りました。
すると英国映画協会にあることがわかったんです!僕は「ぜひ見せてほしい」とお願いしたのですが、当然ながら門前払い(苦笑)。イギリスの宝であるフィルムを23歳の東洋人にやすやすと見せるわけがない。その場で1週間くらい粘ったんですが、ダメ。しかし、帰国後も手紙や電話、FAXなどを送り続けたところ、半年後に相手が根負けしてくれてようやく許可が下りた。というわけで、僕はチャップリンのアウトテイクをすべて見ることができた世界で2番目の人になりました。
アウトテイクの中には、何度も何度も納得がいくまで撮り直す、狂気とも言える天才の苦闘が焼き付けられていました。思い通りにいかずめちゃくちゃ怒っている姿、あるいは演技がうまくいって子供みたいにはしゃいでる姿……サイレントなのに彼の肉声が聴こえてくるように思われて、喜劇王の創造の秘密を垣間見ることができました。それを2年かけてすべて観たのですが、まるで撮影所の片隅でずっと見学させてもらってるような、そんな体験でした。
チャップリンについての初仕事
--大学を出てからはどのように研究を続けたのですか?
次の転機は2003年にやってきました。その年に僕は博士課程を出て、大学の非常勤講師をしていたのですが、日本ヘラルド映画(現・KADOKAWA)がチャップリン作品の権利を買い戻し、『ラヴ・チャップリン』として30年ぶりの大規模なリバイバル上映を行なうと聞いたのです。「スクリーンでチャップリンが見られる!」と喜び勇んで、人づてに「チラシ配りでもなんでも手伝いますよ」と連絡しました。
すると、宣伝会社から「偉い先生が劇場パンフレットを執筆したのですが、万一間違いがあってはいけないので一度読んでほしい」と原稿の確認を頼まれたんです。「事前にパンフレットの原稿が見られるんや!」と嬉しくて二つ返事をし、送られてきた原稿を見たところ……最初の5ページで85ヵ所の事実誤認や修正箇所が見つかったんです。
執筆した先生が悪いわけではないんですよ。当時の日本では、チャップリンの情報は何十年も更新されず、古いままのデータがそのまま流されていたんです。あまりにメジャー過ぎてみんな知ったつもりになっていて研究の対象になっていなかったわけです。結局、入稿まで4日しかなかったことから、「大野君、悪いけど、3万6000円あげるから60ページ全部書き直して」と依頼されました。それが、僕がチャップリンについて書かせていただいたデビュー作となりました。他にも偉い先生はたくさんいらっしゃるのに、まさか大好きなチャップリンについて28歳の若造が仕事をさせてもらえるなんて、夢のような話でした。
その後、宣伝担当者が面白がってくれて、全く無名の若者だった僕が『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に呼ばれるなど、活動の幅が広がっていったんです。本当にありがたいことでした。
チャップリンの歌舞伎『蝙蝠の安さん』
--今ではチャップリン家のご遺族との親交も深いそうですね。
『街の灯』と歌舞伎についての研究がきっかけでした。実は、チャップリンの名作『街の灯』が戦前の日本で『蝙蝠の安さん』という題名で歌舞伎になっていたんです。そのことについて調べて、『From Chaplin to Kabuki』という英語の論文を書いてイギリスの論文集に発表しました。それが次女のジョセフィンさんの目に止まったんです。「あなたの論文を読みました。私のパパは本当に歌舞伎が大好きだったわ」と感激してくださり、そこからチャップリン家とのつながりができました。
そして日本におけるチャップリンの代理店のような位置づけになり、ジョセフィンさんとともに、2005年に『日本チャップリン協会』を立ち上げることになりました。
あるとき、ジョセフィンさんを日本にお招きして、講演やテレビ出演を依頼したことがありました。彼女は非常にプライベートを重んじる方で、表舞台にはなかなか出てこないと知られていました。そんな彼女が気持ちよく出てくれたのを見て、チャップリン研究の世界的権威のデイヴィッド・ロビンソンさん(チャップリン本人とも親交が会った)が、「オーノ、どんな魔法を使ったんだ。彼女があんな風に人前で喋ったのを初めて見た」と驚いていました。僕がジョゼフィンさんに理由を尋ねると「だってあなたが2回頼んだからよ」って(笑)。
なるほど、「2回頼む」って、重要なことなんやな、とその時気づきました。大抵の日本人は、1回頼んで断られたら諦める。それどころか、「頼んだら悪いかな」と「空気を読んで」依頼すらしないこともある。でも、やっぱりやりたいことは素直にお願いしたほうがいい。「素晴らしい歴史的なイベントになります。どうか来てくれませんか?」とダメ元でお願いしたところ、一回目は案の定断られたのですが、僕は諦めきれずもう一回お願いした。そしたらOKしてくれたのです。この「ひつこさ」は大阪人のマインドにして、グローバル・スタンダードな振る舞いだと思いますよ(笑)
世界初となる『チャップリン作品を文楽で』
--物事を掘り下げて、いろいろなことを見つけられて。力業でたぐり寄せてる感じもしますが……
いえいえ、自分ではそんなつもりはなくて、ただ好奇心がリンクしていっただけです。多少しつこいかもしれませんが(笑)。面白いことがあって、もっと知りたいと思っていると、いろんなことに出会えて、たくさんの方に助けてもらえて、本当に幸運だと思っています。たぶん、その背景には、これまでの学校教育の場で好きなことをさせてもらった経験が大きかったと思います。
僕が通ったのは特別な学校ではなく、いずれも公立や国立ですが、「好きなことは後にしなさい」とか「まずこれをやりなさい」とか、強制や否定はなかった。それぞれの進学先で良い先生と環境に出会えたことは本当にありがたく、その恩恵を今も受け続けています。
2026年7月、国立文楽劇場で、チャップリンの『街の灯』を文楽に翻案した『まちの灯』を上演します。私は脚本と演出をさせていただきます。人間国宝の桐竹勘十郎師匠は『黄金狂時代』の「ロールパンのダンス」を観て以来、その身体表現に影響を受けたそうです。
太夫の豊竹若太夫師匠もまた、チャップリンと誕生日が同じ4月16日という不思議な縁もあり、大ファンでいらっしゃいます。大阪が世界に誇る文楽で、何か新作を作りたいということでスタートしたプロジェクト。一昨年から取り組んで僕が脚本も書かせていただきました。文楽は古典芸能ですが、掛け言葉を散りばめた大阪言葉の義太夫のリズム感にはラップのような斬新さがあります。「古典芸能とチャップリンの融合」とかではなく、完全に正統派の文楽で、同時に完全にチャップリンであるような作品にしたいと思っています。
大野さんが手がけた文楽、『まちの灯』の詳細は下記リンクを参照
Bunraku Summer Festival
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