『ばけばけ』写真提供=NHK

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 物語は、トキ(髙石あかり)がヘブン(トミー・バストウ)に『耳なし芳一』を語り聞かせる夜のシーンから始まった。そこから、写真家・川島小鳥が撮影した二人の幸せそうな日常写真がスライドショーのように流れ、ハンバート ハンバートの主題歌「笑ったり転んだり」が哀愁を帯びて響く。多幸感たっぷりの、それでいて切なさの漂うオープニング。明けると松野家一同による丑の刻参り--この落差に、視聴者はこの作品のテイストを瞬時に理解しただろう。

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 NHK連続テレビ小説第113作『ばけばけ』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻・セツをモデルにしながら、ままならない時代に取り残された人たちのうらめしさを土台に描く人間讃歌だ。キャッチコピーは「この世はうらめしい、けどすばらしい」。明治維新で没落した士族の娘・松野トキが生きる世界は、うらめしいことばかりが降り積もる。しかし悲壮感はなかった。「みんなどこか悲しみや切なさを抱えています。でも、その苦しさを何とかしようと真面目に生きている姿が笑えたらいいなと思うんです」とふじきみつ彦はNHK出版のインタビューで語った。どうにもならない日常が愛おしいユーモアに転化される--笑えない大変な時にこそ笑いを盛り込む精神が、この作品の根幹にあった。

 そのテイストを全編にわたって支え続けたのが、髙石あかりの表現力だ。表情筋の柔軟さと自在に照度を変える眼の光、死んだ目の棒読みからの笑い、キレ気味の早口で薄笑いを浮かべてよどみなく言う場面、そして決壊したように低い唸り声から幼い子のように慟哭する場面まで、感情の振れ幅の広さは圧倒的だ。「いつも笑顔でいるから余計にうらめしい」--まるで晴れた空から不意に雨粒が零れ落ちる天気雨のような髙石あかりの表現が、このドラマのうらめしさを最後まで肉体化し続けた。

 この作風は、近年の朝ドラの「闘う人」の物語--『虎に翼』や『あんぱん』--と対照的なスタンスだ。『虎に翼』の主人公は「はて?」という口癖で既存の価値観に疑問を投げかけ、『あんぱん』の主人公は「逆転しない正義」を探し求めた。どちらも正義感の強い「闘う人」の物語だった。対して本作の登場人物たちは、世の中のうらめしさを嘆き、はかなみ、日々をひたすら懸命に生きる「闘わない人」だ。底なしの貧困化が進み、分断や格差を痛感する視聴者が多いからこそ、それでも笑いながら生きていくトキの姿に共鳴し、癒された人は多かったのではないか。

 本作が描き続けたのは、うらめしさの多層性だ。トキはヘブンと一緒になり、橋のむこうの世界に渡り、やがて「時の人」として大衆の憧れの的になった。しかし"ラシャメン"騒動でその立場は一変する。明確な悪役のいない恐ろしさをもって描かれたこの騒動は、誰もが「自分が同じ立場だったら似たことをしてしまうかもしれない」という後ろめたさを残した。さらに騒動が一段落した後も、トキのPTSDのような症状は続いた。傷つけた側の中では「もう終わったこと」でも、傷ついた側の心の傷は続く--そのリアルを本作は容赦なく描き続けた。「時の人」として祭り上げられたヘブンがやがて白い目で見られるようになったように、かつてヘブンの心をときめかせた松江大橋の朝もや・鐘の音・物売りの声がもはやときめきをもたらさなくなっていくように--同じモノ、同じ景色を見ても見え方は違う。豊かで恵まれているように見えた者の内側に深い傷があり、幸運に見えた者の内側に積み重なった不遇がある。誰もが他者には見えないうらめしさを抱えている可能性がある--それが本作には一貫して流れていた。

 そのテーマを裏主人公として体現し続けたのが錦織友一(吉沢亮)だ。家は貧しく体も弱く中学は中退、無資格で教師を務めながら「松江随一の秀才」「大盤石」と呼ばれた。しかし真面目すぎる性質のためか肝心の試験では不合格、帝大卒業の資格も英語の教員資格免許も得られなかった。それでもヘブンの通訳として重用され、江藤知事(佐野史郎)の口添えで校長の座に手が届きそうになる。

 その経緯を知る視聴者には積み重なった不遇の暗闇の中を生きる人物として映るが、事情を知らない者の目には、帝大も出ていない無資格の教師が校長の一歩手前まで上り詰めたラッキーな人間に見えたかもしれない--これもまた、うらめしさは表には出ないという本作のテーマに重なる。コメディの間と後ろ姿の雄弁さ、吉沢亮という俳優自身が持つうらめしさが錦織に宿ることで、視聴者は彼が空回りすると切なく応援し、笑うと嬉しくなった。ふじきみつ彦はステラnetのインタビューで「ヘブンさんにとっての一番の友達ということで、『友』という漢字が入っている、この名前を付けさせてもらいました」と語っている。この名前に込められたロングパスを最終週で回収しきったことに、脚本の誠実さが宿っていた。

 地域でずっと語り伝えられてきた怪談に命を吹き込むのは、その語り手の主観であり心だ。「アナタノハナシ、アナタノカンガエ、アナタノコトバ、スキデス」--ヘブンがトキに伝えたこの言葉は、本作を貫く哲学の凝縮だ。幼い頃から「古い」「気味が悪い」と笑われてきた怪談への愛を異国の人が肯定したとき、それはトキの人生そのものへの肯定でもあった。

 物語はそもそも、トキが老いたヘブンに『耳なし芳一』を語り聞かせる夜のシーンから始まる。第12週では大雄寺の住職が語る『水飴を買う女』をきっかけにヘブンが怪談に目覚め、深夜のろうそくの灯のもとでトキが『鳥取の布団』を語ったことで二人の距離は一気に縮まった。史実でも小泉セツがハーンに最初に語った怪談がこれだという。第13週では月照寺の『大亀の怪談』をトキが語り始めた瞬間、錦織の通訳をヘブンが制止し、銀二郎(寛一郎)・イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)の目の前で二人だけの世界になった--「怪談」こそが告白を越えた二人の言語だった。第21週では熊本で出会った「呪われた女」イセ(芋生悠)から『人形の墓』の話を引き出したのもトキだ。名もなき普通の人の声と心が、やがて世界に届く文学の核になるという逆説を、このドラマは示し続けた。

 国籍・立場・境遇・価値観の異なる人々が出会い、対話し、「友達」「家族」という同質の情を育んでいく横軸の描き方も格別だった。「あげ」「そげ」だけで通じ合う家族の会話、「ダラくそが~!」と縁側で全員が叫ぶシーン。視聴者の中で「この人はこう言うだろう」「こんなことしでかしそう」が共通認識となるほど、登場人物たちは生き生きと息づいていた。あれだけ武士に縛られ西洋を憎んでいた勘右衛門(小日向文世)が西洋由来のスキップを軽やかにこなし「スキップ師匠」と呼ばれるほど、心がほぐれ、本来は偏見に満ちた呼び名、勘右衛門→ヘブンの「ペリー」、ヘブン→勘右衛門の「ラストサムライ」が互いに親しみをあらわす友好関係になっていく様もこまやかに描いた。

 それだけに、ヘブンが「書くの人」へと育っていく縦軸の薄さは惜しまれた。同じくBK(NHK大阪)制作で落語家を目指すヒロインを描いた藤本有紀脚本の『ちりとてちん』(2007年度後期)は、登場人物の名前を落語の登場人物から取り、各週の展開と落語の演目の機微を重層的に響き合わせることで、知らなくても楽しめるが知っていればより深く見える作品を作り上げた。本作にも同様の仕掛けを期待したが、ヘブンが怪談を書き上げるのは、まさかの最後から2週目の金曜日。あまりに遅すぎて、あまりにうらめしい構成だった。これは朝ドラの尺の難しさが浮き彫りになった一点でもある。

 一方、映像の力は最後まで本作を支え続けた。電気のない明治時代を忠実に再現するため、天井を設けてセット上からの照明を排し、窓や玄関から差し込む自然光を頼りに撮影が行われた。ろうそくやあんどんの明かりだけで闇を描くために、朝ドラ史上初となるシネマカメラ「VENICE」(ソニー)が導入されたのも本作だ。うらめしい西日の光、暗闇から手を伸ばしても届かない眩しい日の光--光と影の設計が、笑いの多い作品の底に「うらめしさ」を絶えず滲ませていた。どんなにコミカルな掛け合いをしていても浮ついたコントにならないのは、全身表現のできる舞台俳優の多さとこの湿度の高い映像の力があってこそだ。特に第23週の松江大橋の袂でのヘブンと錦織の邂逅シーンは、実相寺昭雄などの往年の名画を連想させる日本的な物悲しさと美しさが際立つ映像だった。

 ケア労働の無償化、SNS誹謗中傷の傷の不可逆性、排外主義、非正規雇用--いずれも明治の現実を丁寧に描いた結果として自ずと浮かび上がってきた現代との地続きだ。第1話冒頭の丑の刻参りと「雨清水トキ=丑三つ時」のロングパス、セツさんの名前が歴史から消えていった「うらめしさ」を描くこと自体が、長く「いないもの」にされてきた女性を現代に蘇らせる行為でもあった。本作が最後まで手放さなかった誠実さは、そうした細部に宿っていた。

 時代の大きなうねりに取り残されながら、それでも笑い、泣き、隣の人を愛し続けた人々。そのうらめしさと愛おしさを同時に抱えた人間讃歌の『ばけばけ』と、そこに生きるうらめしい人々の姿は、ままならない時代を生きる私たちの人生の楽しみ方を教えてくれる物語だったかもしれない。(文=田幸和歌子)