昭和を代表する“武闘派ヤクザ”が他界…六代目山口組・竹内若頭が直々に参列「厳戒態勢の葬儀」内幕

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ダイナマイトを積んだダンプカーで突撃

2月16日夕刻、国内最大の暴力団である六代目山口組の竹内照明若頭(66)の姿は、日本一の霊峰・富士山を望む静岡県富士宮市の斎場にあった。その傍らには、野内正博弘道会会長や六代目山口組の中部、東海ブロックの直参の姿もみえる。

六代目山口組のナンバー2が幹部を伴い弔問に訪れていたわけだが、いったい誰の葬儀が行われていたのか。

「五代目山口組時代に若頭補佐として執行部の一角を担い、六代目山口組では舎弟を務めていた後藤忠政・後藤組元組長の通夜です。後藤元組長は、今月8日、老衰に伴う誤嚥性肺炎で家族に看取られながら息を引き取りました。享年83。

長く病気を患っていながらも意識はあったそうですが、昨年から体調が悪化していたそうです。富士宮市は後藤組(’08年解散)の地盤だった地域。稼業引退以降も、組を旗揚げしたこの地へは強い思いを持ち続けていました」(元後藤組関係者)

後藤氏は、「伝説の武闘派組長」「経済ヤクザの先駆け」などいくつもの呼称が付く、ヤクザ業界ではその名前を知らない人はいないといわれた大物組長だ。

「ヤクザ社会に一躍その名が轟いたのは、1984年に勃発した山口組と一和会との『山一抗争』。後藤組組員がダイナマイトを積んだダンプカーで一和会の会長自宅に突っ込み、後藤組の“戦闘性”の高さをまざまざと見せつけました。組を解散、稼業から引退した翌年には、得度して仏門に入った。『憚りながら』という自叙伝は20万部を超すベストセラーになり、ヤクザ社会にとどまらず、政財界、芸能界にも豊富な人脈を持つ人物として知られました」(ヤクザ業界に精通するジャーナリスト)

「家族葬」として行われた葬儀には、19日の通夜だけでも弔問者が続々と詰めかけた。現地で取材したカメラマンによれば「一般の弔問者も多く、200人は超えていた」という。竹内若頭が斎場に現れたのは一般受付開始前の午後5時過ぎだった。

「お焼香だけ済ませたのか、数分で斎場から出てきました。一般の弔問客へ気を使ったのかもしれません。出迎えの人たちと雑談するなど、重苦しい雰囲気はありませんでした。警戒に10人ほどの捜査員が出ていましたが、特にトラブルもありませんでした」(現地取材カメラマン)

その後、午後6時からは一般受付も始まり、通夜は滞りなく終了した。

裏にある「組織の地盤固め」の狙い

翌日の告別式も滞りなく終了し葬儀は無事終わっているが、ここで1つの疑問が残る。竹内若頭は、六代目山口組の司忍組長(84)の「名代」として弔問に訪れたと思われるが、そもそも後藤氏が組を解散し引退に至ったのは、当の六代目山口組が除籍処分にしたためだ。

「処分が決定したのは’08年10月の緊急最高幹部会。明確な理由は明らかになっていませんが、当時、後藤組長は六代目山口組の定例会を欠席することが多く批判の声が出ていた。さらに、自分の誕生日に複数の芸能人を呼んだゴルフコンペとパーティを行っていたことが週刊誌報道で発覚しました。『定例会に出る時間はないのに自分の誕生日会の時間はあるのか』という批判が一気に噴出したのです」(前出・ジャーナリスト)

そんな元組長の葬儀に、なぜ弔問に訪れたのか――。そこには、今年4月で丸1年が経過する「竹内若頭体制」を盤石にするための六代目山口組の思惑が透けて見えている。

「過去の功績に加えて、解散後も後藤組の流れをくむ良知組などがその地盤を引き継ぎ守った、いわば『後継団体』を育てたことが重んじられたのではないでしょうか。現在の良知組組長は、竹内若頭が推し進めてきた改革人事で『幹部』に就任し、執行部入りをはたしています。

後藤元組長のこれまでの功労に組として弔意を示すだけでなく、現執行部体制を盤石にするため、若頭自ら傘下組織の前団体のトップの弔問に訪れたのでしょう。後藤元組長に処分を下したといわれる六代目山口組・郄山清司相談役(78)も、通夜の前までに弔問に訪れたといわれています」(同前)

大物組長が去った後も、六代目山口組の体制固めは着々と進行しているのである。