#5 心の最も奥深くにある「普遍的無意識」と「影」──河合俊雄さんと読む『河合隼雄』【NHK別冊100分de名著】

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河合俊雄さんが伝える、河合隼雄の心理学 #5

日本人として初めてユング派分析家の資格を取得し、庭療法をはじめとする心理療法を取り入れた臨床心理学者・河合隼雄は、半生をかけて人々の悩みに寄り添い、「こころの問題」と向き合い続けました。

『別冊NHK100分de名著 集中講義 河合隼雄 こころの深層を探る』では、同じ心理学の道を歩む河合俊雄さんが、師であり、父である河合隼雄の著作をやさしく読み解き、その思索の歩みをたどりながら、日本人の心の奥深くに迫っていきます。

全国の書店とNHK出版ECサイトで2025年10月まで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、『ユング心理学入門』を取り上げた本書の第1講を公開します。(第5回/全5回)

人間の心に潜む二つの「無意識」

 ユングの『タイプ論』では無意識下にある心の劣等機能が指摘され、言語連想実験に関する著作では、無意識内のコンプレックスと意識的な行動との関わりや、その重要性が論じられていました。

 さらに無意識について研究を続けたユングは、コンプレックスの背後に、より深い層があると考えるようになります。そこから見出されたのが「普遍的(集合的)無意識」という概念です。

 コンプレックスは、心の奥に封印された過去の経験が基になりますが、個人的な経験や感覚を超えたものが関わっていることもあります。マザコン、ファザコンなどと通称されるコンプレックスの症例においても、現実の親子関係という個人的要因だけでなく、より普遍的な、社会全体で共有されている文化的なものに起因していると考えられるケースは少なくありません。

 また、読んだことも見たこともない経典や神話が妄想となって立ち現れることもあります。そうしたことからユングは、人間の心には三つの層があると考えました。自我を中心とする「意識」の層、個人的な経験から成り立つ「個人的無意識」の層、そして心の最も奥深くにある「個人的ではなく、人類に、むしろ動物にさえ普遍的」な無意識の層です。

 無意識を二層に分けて考えるのはユング心理学の大きな特徴で、肝となる部分でもあります。フロイトの「性衝動」もアドラーの「権力への意志」も個人的無意識下にあるものと考えられます。それに対してユングはその奥に目を向け、掘り下げていったのです。

普遍的無意識と「元型」

 普遍的無意識について、河合隼雄は自身のクライエント──母親に連れられて嫌々ながら来談した中学二年の不登校の男子生徒を例に説明しています。

 《夢》自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている中を歩いてゆく。すると、大きい大きい肉の渦があり、それに巻き込まれそうになり、おそろしくなって目が覚める。

 これは三回目の面接の時にクライエントが語った夢です。どうしてそんな夢を見たのか、本人には思いつくことが何もありませんでした。思いつかないどころか、肉の渦などという思いもよらない内容と恐ろしさに本人も呆れるばかり。このような場合、夢の内容は「このひとの意識からはるかに遠い、深い層から浮かび上がってきたとしか考えられない」と著者はいい、夢の中心をなす恐ろしい渦を、神話や人類共通のイメージから理解しようと試みます。

 この場合の渦は、渦巻線としてよりは、何ものをも吸い込んでしまう深淵としての意義が大きいが、このような深淵は多くの国の神話において重い役割を演じている。すなわち、地なる母の子宮の象徴であり、すべてのものを生み出す豊壌の地として、あるいは、すべてを呑みつくす死の国への入口として、常に全人類に共通のイメージとして現われるものである。

 日本の神話でも、国土を生み出した母なる神・イザナミは、のちに黄泉の国に下って死の神となります。世界の至るところに見出すことができる地母神や“母なるもの”のイメージを、個人的な母親像とは区別して、ユングは「太母(グレートマザー)」と呼びました。

 この少年は、このような意味をもった太母の象徴としての渦のなかに足をとられて抜けがたくなっているのではないか。そして、この少年が学校を休んで最も熱中していたことは、石器時代の壺を見ること、そして、そのまがいものを自分で焼いて作ってみることであったことは、非常に示唆するところが大きいと感じられる。すなわち、壺は、産み出し、あるいはすべてを呑み込むものとして、最も普遍的に太母神の象徴になっているものだからである。

 石器時代の壺を見たり作ったりしているというのは、太母神を崇め、これに仕えている状態と考えることができます。そして次の面接の時、肉の渦のイメージの凄まじさについて話をしていると、彼は急に「家で甘やかされているのが嫌だ」と語り、そこから治療的な話が展開していったと著者は綴っています。

 治療の過程で、不登校の一因が弱い父親像にあることが明らかになります。しかし、それだけでは肉の渦の夢や、少年が古代の壺に夢中になっていたことを説明することはできません。父親の問題が未解決のまま少年が再び登校するようになったことも、それが派生的なことだった証左といえます。著者は「すべての心的な反応は、それを呼び起こした原因と不釣合いの場合には、それが、それと同時に何らかの元型によっても決定づけられていないかを探求するべきである」というユングの言葉を引き、心理療法においては普遍的無意識から湧き上がるイメージやパワーにも十分に着目することが重要だと説いています。

 ユングの一文にある「元型」とは、全人類の普遍的無意識に認められるモチーフであり、そうしたモチーフを生み出す「人間が生来もっている『行動の様式』」をいいます。これに関連して、著者は東アフリカのエルゴン山中に暮らす住民の太陽崇拝を例に次のように述べています。

 昇る太陽を見たときに、それをそのまま太陽としてみるよりは、「神」として把握しようとする様式が人間の心の内部に存在していると考え、そのような把握の可能性としての元型を考えるのである。しかし、この元型そのものは、あくまで、われわれの意識によってはとらえることができず、結局のところ、その意識に与える効果によってのみ、認識されるにすぎない。(略)元型的な心像の把握は、われわれの主体性の関与と、主体と客体を通じての一つの型の認識なくしては、不可能なのである。

 意識では捉えることのできない、例えば太母のような元型的イメージを掘り起こしていくには、主体的な関与が不可欠だということです。「心の現象学」のところで指摘したことを、ここで改めて述べているのは、それだけ大切で、かつ困難なことだからでしょう。不登校の少年のケースにおいても、著者と少年とが主体的に関わることで肉の渦から太母のイメージが浮かび上がり、解決への道を照らすことになったのであって、渦=太母というパターンを当てはめても問題の深層に迫ることはできないのです。

認めがたい自分の中の「影」

 ユングは太母のほかにも様々な元型を取り上げていますが、一番わかりやすく、また個人的なレベルと集合的なレベルの違いも捉えやすいのは「影」でしょう。

 私たちの意識は、ある種の価値体系をもっています。他人を傷つけたり、騙したりしてはいけないといった社会的な良識もそうですし、親の教えやしつけなどに由来する個人的色彩の強い価値体系もあります。簡単にいえば、こうした価値体系において“悪”とされてきたものがその人の影であり、人間にはそれを無意識の中に封じ込めようとする傾向があります。

 例えば、幼い頃からおとなしくするように育てられ、乱暴なことは一切しないようにしてきた人にとって、少しでも攻撃的なことは悪と意識され、この人の影は非常に攻撃的な性格をもつことになります。河合隼雄が書いているように、影とは「個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が容認しがたいとしている心的内容」なのです。

 しかしながら、心に暗い影の部分があってこそ“生きた人間”としての陰影が生まれるのであり、また、影がつねに悪とは限らないということも著者はここで指摘しています。それを示すため、本書ではある男性の夢を紹介しています。

 社会規範を守り、合理的に生きることを信条としてきたこの男性には、自分とは対照的な兄がいました。兄は正義感にあふれ、行動的で、正義を全うするためには法律を曲げることも辞さないタイプ。その兄が反社会的なことをした罪で逮捕される──という夢を見たのです。

 拘引されるくらいなら切腹するという兄に対し、クライエントも当初は当然のことと思っていました。ところが切腹の間際、クライエントは叫びます。「どんなことがあっても生きてさえいれば、会うこともできるし話し合いもできる。死んだらおしまいだ、死なないで!」と。

 夢の中の兄の像は、クライエントの影を表しています。彼は夢の中で、自分の影の死を救ったのです。「生きてさえいれば話し合いもできる」という叫びは、封印してきた影を認め、これと向き合っていくことで、これまでとは違う生き方を模索しようという気持ちの変化を示唆しています。

 このひとの場合であれば、行動的に生きることや、感情のおもむくままに生きることは、馬鹿げて見えたり、嫌だったりしたであろうが、それはむしろ、今後、自分のなかに取り上げられ、生きてゆかねばならない面と考えられる。つまり、今までそのひととしては否定的に見てきた生き方や考えのなかに、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化してゆく努力がなされねばならないのである。このような過程が分析において生じるのであって、これを、ユングは、自我のなかに影を統合していく過程として重要視している。

 この男性の場合は影との統合が図られることになりましたが、自分の影と直面するというのは、想像以上につらいものです。影を肯定していくことは、ある意味で今までの自分を否定することでもあります。その耐え難い苦痛から逃れるため、たいていは影を抑圧し、影との交流を努めて避けようとします。

 しかし、抑圧を強めれば強めるほど、影はより暗く、より強くなり、やがて自我への反逆を企てるようになります。コンプレックスのところでも触れた二重人格の現象は、影による最も劇的な反逆の現れといえます。

 影の反逆の犠牲となるのは、その人自身とは限りません。両親の影を子どもが生かされていることもあります。非の打ちどころのない教育者の子どもが手に負えない放蕩息子であるようなケースです。親とは似ても似つかぬこの子どもは、親の“影に似た”のです。

「影」と日本人の心

 自分の無意識下に一体どのような影が存在するのか。周囲を見回せば、それに気づくことができると著者はいいます。

 自分の影のイメージを、実在しているひとのなかに探すのは、それほどむずかしいことではない。自分の周囲にあって、何となくきらいなひとや、平素はうまくゆくのに、ある点でだけむやみと腹が立つようなとき、それらは自分が無意識内にもっている欠点ではないかと考えてみると、思い当たることが多いに違いない。

 また、自分の知らないことやできないこと、嫌いなこと、損なことは「悪と簡単な等式で結ばれやすい」とも指摘しています。そんなところにも影に気づくヒントがあるということです。そしてそれは個人的なレベルを超えて、普遍的なレベルに達することもあります。

 自分の内部にある認めがたい影を他人に投影し、とかく悪いのは他人で、自分はよしとするのである。このような傾向が一般化し、一つの民族や一つの国民が、その全体としての影を何ものかに投影するような現象も、全世界を通じてしばしば認められるのである。

 他者に投影される普遍的な影の顕著な例として、著者はヒトラーによるユダヤ人排斥を挙げていますが、これは二十一世紀の世界が直面している問題でもあります。終わらない民族紛争の問題も、ムスリム排斥も、ナショナリズムから貿易摩擦、子どもたちのいじめの問題に至るまで、その背後には集団的な影の投影を見ることができます。兄の切腹を止める夢を見た男性のように、自分たちの影の中に光を見出すことができるかどうかが、こうした問題を解決する一つの鍵となるように思われます。

 影のなかでも普遍性の強い部分、普遍的影(collective shadow)と呼ばれる部分は、多くのひとびとに共通に悪として感じられてきたものであり、これを内的に認知してゆくことは、非常にむずかしい。このような普遍的な影のイメージは古来から、悪魔や鬼、化け物などとして、各国の民話や伝説のなかに表わされている。そして、これらの話を心して読むことにより、われわれ人間が、自分の影の現象をどのように考え、あるいは感じてきたか、そして、影の問題にどのように対処してきたかを知ることができる。

 ここに指摘された民話や伝説、つまり昔話や神話はその後の彼の大きな研究テーマとなっていきます。それは日本人の心を知る旅でもあったわけですが、著者はここで日本と西洋とを比較し、日本人は西洋人よりも「影の魅力について、はるかによく知っていたように思われる」と述べています。

 西洋がキリスト教による強い善悪の判断や、合理主義による明確な思考によって、影の部分を意識から排除することに努め、したがって、その影の同化という問題に足ぶみしているときに、東洋人は、陽の極まるところ陰となり、陰の極まるところ陽となる心の現象の複雑さについての知識を豊富にもち、影の多い生活を楽しんできたものともいえる。

 西洋と東洋の意識構造の違いについては第2講で、また、民話を通じて著者が日本人の心をどのように読み解いていったかについては第3講で詳しく見ていくことにしましょう。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 河合隼雄 こころの深層を探る』(河合俊雄 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

著者

河合俊雄(かわい・としお)
1957年、奈良県生まれ。臨床心理学者、ユング派分析家。京都大学大学院教育学研究科修士課程修了。チューリッヒ大学にて博士号取得。心理療法家としてスイス・ルガーノのクリニックに2年間勤め、帰国後、京都大学大学院教育学研究科教授等を経て2007年より京都大学こころの未来研究センター教授。2018年4月より同センター長を務める。IAAP(国際分析心理学会)会長。おもな著書に『概念の心理療法』(日本評論社)、『ユング派心理療法』『心理療法家がみた日本のこころ』(ともにミネルヴァ書房)、『村上春樹の「物語」』(新潮社)、『心理臨床の理論』(岩波書店)などがある。
※全て刊行時の情報です。