「ポビドンヨード」を含むうがい薬の品切れを知らせるドラッグストアの看板(時事通信フォト)

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 春先からこれまで、新型コロナウイルスに関係した買い物行列が何度も発生した。行列の先にあった品物は、すべてがオークションやフリマアプリに出品されているわけではない。俳人で著作家の日野百草氏が、今回は、8月4日昼過ぎに行われた吉村洋文・大阪府知事の会見での発言をきっかけに、ポビドンヨード成分を含むうがい薬、日本でよく知られている代表的な商品名だと「イソジンうがい薬」を高齢者が買いに走った理由についてレポートする。

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「ビニール袋よこせよ、こんだけ買って金取んのかよ」

 なにげない日常の中で、私たちは時としてその瞬間を目撃することがある。意図せずして、事件の瞬間に立ち会うことがある。1999年のションベン横丁火災では路上で酔いつぶれていたら燃えていた。2001年には松屋で定食を食べていたら歌舞伎町のナイタイビルが燃えていた。そしていま、2020年8月4日、15:30くらいか、私の知らないところで騒動は起きていた。

「すいません、決まりなんです、申し訳ない」

 多摩の田舎の小さなドラッグストア、私の知り合いの薬剤師があやまっている。個性的でいかつい顔のおっさんだが、いいこと悪いことこっそりいろいろ教えてくれる心優しい薬剤師だ。たまたま今日が私の通院日、薬を貰いに来たら、ちっちゃい爺さんがビニール袋をくれとわめいている。かわいそうに、私のお気に入りの薬剤師になんてことを。レジには大量のイソジン。

「こんだけ買うんだからさ、ケチケチすんなよ」

 そう、私はイソジンを買い占める爺さん「イソ爺」(とっさに思い浮かんだ呼称、本稿は老人ばかり登場するので便宜上、彼のみ「イソ爺」とする)と化した老人と遭遇してしまった。薬剤師には悪いが、うっかり脳内でこんな呼称を戯れてしまうほど滑稽な光景だ。

「手で持てないよ、こんなにたくさん」

 その爺さんは大量のイソジンを買ったはいいが持ちづらいから袋をよこせと訴えている。7月1日からレジ袋が有料化されたことを知らないはずはないが、爺さんとしてはたくさん買ったからレジ袋はタダにしろという理屈だ。それにしてもなぜイソジン。と思ったら別の婆さんもイソジン同様のポビドンヨード系うがい薬を手に持っている。

「なにがあったんです?」

 爺さんは交渉の最中なので婆さんに聞いてみる。カラフルな色使いの服でおしゃれな婆さんだ。

「さっきテレビで言ってたのよ、コロナにうがい薬が効くって」

【写真】うがい薬を紹介する吉村大阪府知事

 そういえばコロナウイルス騒動端緒の2月には紅茶のポリフェノールが感染力を無力化するとか、納豆が効くとかわけのわからないデマが飛び交った。3月10日には消費者庁がコロナに効くと便乗した30業者46商品に対して改善命令を出すに至った。マイナスイオン発生器やイオン空気清浄機でコロナが死滅とか、首にかけているだけでコロナを除菌とか無茶苦茶な代物も槍玉に挙げられていたが、オカルトもどきに関わらず、不安に乗じてそれなりに売れていたようだ。未知のウイルスに対する恐怖、こういったデマは仕方のない部分もあるが許せない。そんなこと言っているのはどこの番組だ。

「どこってわけじゃなくて、大阪の偉い人よ」

 嫌な予感がする。また、根拠が不明な話を情報番組が取り上げたのか。スマートフォンでニュースサイトを開いてみる。私は苦手なのでスマホにSNSのアプリは入れていない。ニュースでは、吉村洋文大阪府知事が「うそのような本当の話」としてポピドンヨードの成分を含んだうがい薬でコロナの陽性者が減少すると会見で発表していた。

 そんなこと言っていたのは、なんと日本維新の会副代表にして大阪維新の会代表代行、第20代大阪府知事の吉村洋文その人だった。松井一郎大阪市長と大阪はびきの医療センターの研究者も同席している。嫌な予感は当たった、また吉村知事か。それでも自治体の有名な長、高齢者が信じるのも無理はない。

「あの人、あんなにいっぱい買ってずるいわよね」

 婆さんが私に耳打ちしてくる。近すぎて聞こえるだろうに。もちろんあの人とは、さっきから揉めているイソ爺のことだろう。それにしてもイソ爺ちょっと買い過ぎ、風俗店でも始めるつもりか。気がつくと婆さんの他にも3人がポビドンヨード系うがい薬を持っている。みんなイソ爺ほどじゃないがそれなりの量を手にしている。棚に目をやればあと数個で完売だ。そしてみな高齢者である。

「おい他の人の分も残せよ」

 後ろに並んだ別の爺さんがイソ爺に文句を投げる。小さなドラッグストアはもうめちゃくちゃ、私は併設の調剤薬局に用があるだけだ。調剤の間、揉め事にまきこまれたくないので外に出て待つことにする。外は熱くてマスクなんかしてられないほどだが仕方がない。

転売はしない、ああいうのはよくない

 しばらくして、さっきのイソ爺がしかめっ面で出てきた。どうやら観念して買ったのかビニール袋を持っている。中にはもちろん大量のイソジン。

「大変でしたね」

 私は話を聞きたいのでイソ爺にねぎらいの言葉でおもねってみる。彼は憤懣やるかたないといった様子だが、誰かに話を聞いて欲しいのだろう、ベラベラと喋りだした。

「イソジンがコロナに効くってテレビで言ってたんで急いで来たんだよ、大きいとこ(大手ドラッグストア)はもう品切れだったけど、小さいとこならまだあるかなってまわってたんだ」

 さっきまでの光景からかなりヤバい人かもしれないことを覚悟していたが、思っていたより普通の人で内心ホッとした。それにしてもイソ爺、喋り倒しながらも立ち止まろうとはしない。店の近くではバツが悪いのか次の買い占めのためかいそいそと横道を急ぐ。そんなにたくさんイソジン使うんですかと聞くと、自分だけではないという。

「息子夫婦とか娘の家族も使うからね、孫もいるからさ、みんなに配るんだ。こんな平日の真っ昼間、年金者しか動けないからな」

 なるほど、年金暮らしの爺さんからすれば一家の役に立つというわけか。もしかしてマスク騒動のときもそうだったのか。

「マスクはいち早く確保したよ、トイレットペーパーとかアルコールとか、納戸に山積みになるまで買った。みんな凄いって言ってくれたよ」

 なんだか嬉しそうなイソ爺、この発想はなかった。彼はイソジンがコロナに効くとか、イソジンが品薄になると心配とか以上に家族から褒められたいようだ。お爺ちゃん凄いね、頼りになるねと言われたのだろう。それがたまらなく嬉しくて、今回もイソジンを買い占める「イソ爺」となった。

「勘違いすんなよ、転売とかはしないから、ああいうのよくないよね」

 彼はコロナコロナと不必要に他人を攻撃するコロナ爺さん、「コロ爺」でもなければ転売ヤーでもなかった。ただ自分のため、家族のため、承認欲求のためイソジンを買い占めるイソ爺になってしまったというわけか。でもイソジンでなくても他のうがい薬でもよかったのでは。

「やっぱイソジンだろ、一番有名だもの」 本当にその辺の爺さんだ。有名ブランドのポロ競技のロゴが横向きに走っているという意味不明のポロシャツを着ても平気な、本当に普通の多摩の田舎の爺さんだ。そんな人がテレビで偉い人に「コロナはイソジンで治る!」と言われたら買い占めに走るのも無理はないだろう。もちろん吉村大阪府知事はそんなことは言っていない。「コロナが治るとは言えないが、これまで呼びかけていたつばの飛び交う空間で感染が広がるのを少しでも抑えることが期待できる」である。しかしイソ爺の脳内では「コロナはイソジンで治る!」になっている。ここまでの大騒動になるとは思っていなかっただろうが、吉村知事も罪な人だ。

「外に出る理由にもなるからね、マスクが面倒だけど」

 そう言うイソ爺だが、終始マスクから鼻だけ出している。せっかくの立派な高級マスクが縮んだアベノマスクのようである。

「だって息苦しいでしょ、熱中症で死んじゃうよ」

 日本の熱中症による死亡者は1581人(厚生労働省、2018年)。コロナの死者1023人(2020年8月4日時点)より多い。単純な数の問題ではないが、高齢者にとってはコロナを気にして熱中症で死んでは笑い話にもならないだろう。

いつもいつも困ったものです

「まだイソジン売ってるとこあるかもよ、あんたも早く買っときな」

 イソ爺はバッキバキにカウルの割れたスクーターのカゴにイソジンを積んで、後ろ姿で左手を上げ走り去った。さらに他の店舗を回るらしいが、本人の気分は子のため孫のためのヒーローなのだろう。他人からすれば、はっきり言って迷惑な話。こんなイソ爺を情報弱者と笑うかもしれないが、買い占め、転売、デマ、バッシング ──大方の日本人がそれほど変わらないのでこのコロナ禍、幾度となくこんな事態に陥っているのが現実である。

 店に戻ると調剤は終わっていた、受け取りがてら薬剤師と話す。

「ワイドショーのせいですよ、いつもいつも困ったものです」

 彼は吉村知事でなくテレビのワイドショーが伝えたことに腹を立てていた。後から知った話では違うが、彼も営業中でよくわかっていなかったのだろう。またコロナ以前から○○が効くだの○○が足りなくなるだの、いつも直接の被害に遭うのはドラッグストアだ。もう別の女性客がうがい薬はないのかと喧嘩腰、本当に心から同情する。

 未知のウイルスにより生活を破壊された私たちは、この半年の間に多くのデマによって踊らされてきた。とくに高齢者は死亡率も段違いに高く、せっかくの余生を台無しにされている人も多い。ましてインターネットもよくわからない彼らの多くは、テレビのようなオールドメディアと政府発表くらいしか情報を得ることができない。ネットのデマも問題だが、旧来のオールドメディアの発信による被害もいまだ甚大だ。

 65歳以上の高齢者は過去最高の3588万人(2019年)、彼らの一部、現在の70代後半から上はこの四半世紀におよぶIT文化を知らないままに生きてきた人もいる。それは私たちの世代よりは確実に多いだろう。トイレットペーパーもマスクも高齢者の買い占めが話題になった。そしていま、局地的な話だが私が目撃した限りも、やはり平日の日中に即対応できる高齢者によるものだった。それにしてもそうした失敗を繰り返してきたはずなのに、大阪府知事ともあろう立場の人があの会見はいかがなものか、883万人というスイス規模の人口にオーストリア規模の経済規模(大阪府資料より)を誇る大阪の知事がこれでは世界の笑いものである。

 この日の夜、吉村知事は「また吉村がおかしなこと言い出してるとネット上の大批判がありますが、構いません」「新薬でもなく、昔からあるうがい薬、試す価値はあると思ってます」とTwitterを更新した。科学的な内容が正確に伝わるよう訴えるよりも、開き直りのような強弁に字数を費やす。これでは、迷惑系ユーチューバーと変わらない。翌日5日も「予防効果があるということは一切ないし、そういうことも言ってない」「予防薬でも治療薬でもない。感染拡大防止には寄与」「うつすリスクが高い人はぜひ参考にしてほしい」など二転三転、自治体の長として、もっとも優先したいことは何なのか不明な言動を繰り返している。「ぼくが感じたことをしゃべり、『それは間違いだ』と言われたら、ぼく自身、言いたいことが言えなくなる」というポエムまで記者に向かって披露した。これで45歳、同じ団塊ジュニアとして本当に申し訳なく思う。

 こうした為政者のエビデンス(根拠)なき無責任な発言こそが人心を荒廃させ、すでにコロナを克服した国々の後塵をまたぞろ拝する羽目になる自覚が知事にあるのだろうか。東京都もそうだが、国から投げっぱなしにされた都道府県の混乱と力量不足の露呈が止まらない。それはそのまま、止まることのない全国への感染拡大に繋がっている。

●ひの・ひゃくそう/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。ゲーム誌やアニメ誌のライター、編集人を経てフリーランス。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。2019年、著書『ドキュメント しくじり世代』(第三書館)でノンフィクション作家としてデビュー、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)上梓。近刊『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社)寄草。