高校時代、チームメイトだった画家の故・山本集氏(右)と

『サンデーモーニング』(TBS系)のご意見番として「喝!」を連発し、辛口コメントはたちまち炎上。御年79歳、甲子園を夢見た男・張本勲の半生は、壮絶そのものだった――。

《シェンロンが『1つ願いこと叶えてあげる』って言ってきたら、迷いなくこのコーナーを消してくださいと言う》

 2019年夏、高校野球・岩手大会の決勝で、佐々木朗希投手を登板回避させた大船渡高校監督の判断について、張本が番組内で苦言を呈すると、ダルビッシュ有(33)がそうツイッターで批判。

 ネット上でも「老害」と、論争を巻き起こしたが、張本は世間の批判などどこ吹く風。なぜなら、この男の潜り抜けてきた修羅場は生半可なものではないのだから。

 1940年6月19日、広島で生を受けた張本は、段原地区で育った。平屋が密集した地域であり、張本一家の生活は厳しいものだった。従兄弟の張本正熙さんが述懐する。

「うちも勲のところも貧乏やった。でも体は大きくてね。故郷の韓国では、祝い事のときに『トック』といって、米の餅を汁の中に入れる料理があるんだけど、勲は5杯食べていたね」

 食欲旺盛だった勲少年は、やがて子分を引き連れて歩くガキ大将に成長。

「勲が中学生のころ、ヤクザが勲の姉に『映画女優にしたる』と言い寄った。で、私の兄がそのヤクザを捕まえて、勲に『コイツが姉さんを騙した奴や。ワシが見とるけぇ、2人で決闘せい。刃物は持つな。素手でやれ』と。

 すると、勲はヤクザを半殺しにしてしもうた。勲は喧嘩では負け知らずだったが、絶対に弱い者いじめだけはしなかった」

 武勇伝には事欠かない。

「段原地区にはいろんな奴がおって、夏は腹巻、ステテコ、雪駄でうろついていた。

 あるとき、そんな男が中学校に乗り込んできて、勲に『投げろ!』と。でも、勲は投げない。チンピラはバットを持ったまま、『おんどりゃあ!』と迫ってきたが、勲はバットを取り上げてぶちのめした。

 勲の母親も気性の激しい人やった。そのチンピラが家にやってきたんだけど、『中学生の子供に、大人が何するか!』と、濁り酒をぶっかけて追い返しましたからね」(正熙さん)

 張本が野球を始めたのは、小4のころ。もともとは右利きだったが、4歳のとき右手小指と薬指がくっつくほどの大火傷を負った。そのため左投げ左打ちになったのだが、この大火傷が、のちの大打者となるきっかけを作ったのだから、人生はわからない。

「当時、近所の旅館にプロ野球選手がよく泊まっていて、見物に行っていたんです。自分たちは苦しい生活なのに、選手はビールを飲んでいる。それを見て、『ワシは職業野球の選手になるんだ』と、決意するわけです」(正熙さん)

 高校は、地元の松本商業に進むが、「このままでは職業野球の選手にはなれない」と、一念発起して浪華商業(現・大体大浪商)に転校した。同校の仲間が思い出を語る。

「第一印象は『大きいなあ』ということ。彼が打つと、ライトのフェンスを越えて、民家の屋根瓦が割れることも多かった。それを監視する、専門の部員が配置されたくらいですから(笑)」(同期の柿田正義さん)

 甲子園に出て、プロに入るために浪商に来た。投手として入部したが、監督の強いすすめで外野手に専念。ところが、“誤解” がその夢を奪った。

「張本は『浪商に来たのは甲子園に出られるから。甲子園に出てプロに行く。プロに行って、契約金で親孝行する』の一心だった。

 2年の秋だったかな、練習をサボって喧嘩しとる奴がおった。張本は仲裁に入ったんですが、それが新聞に載ってしまった。
仲裁に入っただけなのに、喧嘩をしていたと誤解されて、それで出場停止になってしまった。

 出れなかった悔しい思いを、いまも引きずっているのでしょう。だから、佐々木朗希投手の “投げない” 騒動について、あのような発言になったのだと思う」(同期の谷本勲さん)

 また「気配りの男で、義理人情に厚い男だった」と語るのは、高校の先輩の肘井康浩さんだ。

「いまも変わらんのが挨拶です。待ち合わせの店に必ず先に行って、我々が着くと立ち上がって挨拶するんです。また、入院している先輩の見舞いに行くと、『早くよくなってください』と涙を流す。

 ごく最近のことですが、2つ上の先輩の奥さんが亡くなった。で、先輩と張本と谷本君の4人でカラオケに行ったんです。そこで谷本君が、亡くなった(先輩の)奥さんが好きだった、美空ひばりの歌を歌った。その先輩が泣くのはわかりますが、張本も泣いている。本当に人情に厚い男なんです」

 こんな人情味溢れるエピソードを聞くと、番組内でのエラそうな発言は照れ隠しなのではと勘繰ってしまうが……。前出の谷本さんが続ける。

「高校時代のあいつの鞄には、ユニホームと弁当箱しか入っていなかった。弁当箱も厚みは2cmしかあらへん。おかずは梅干し1個で、あとは、じゃこがちょろちょろ。

 僕のは厚みが10cmの弁当箱が2つで、ご飯とおかずに分かれていた。それをあいつは勝手に食っとるんです(笑)。けど、あのときの恩義は覚えていて、プロに行ってから、よう飯に誘ってくれました」

1978年には、日本記録となる通算16回めの打率3割を記録

 甲子園には出られなかったが、張本は1959年、東映に入団。契約金の200万円で、母に2階建ての家をプレゼントした。そして、みずからに猛練習を課して、日本を代表する打者へと成長していった。

「毎日、素振りを何百回と繰り返して、それで手の皮が厚くなってしまい、そのたびにカッターで削るんです。

 足も速いし肩も強いんだけど、『外野から思いっきり投げて肩を痛めたら打撃に影響するから、思いっきり投げんのじゃ』と言っていました(笑)」(東映時代の後輩・後原富さん)

 現役時代を知る、スポーツ紙記者が語る。

「『打者は打ってなんぼ。守備なんてカネにならねえことはやらない』が彼の持論。当時、センターは白仁天が守っていて、レフト寄りのフライが上がっても『ハク!』と叫んで取りに行かなかった。生き方が単純明快なんです(笑)」

 ちなみに東映時代にも、武闘派の逸話が。1964年の阪急vs.東映で、張本は乱闘の際、スペンサーに小突かれたことに激高し、バットで殴りかかろうとしたのだ。

 また張本は東映時代、ゴルフをやらないことでも有名だった。

「オフはシーズンで酷使した体を休めるもの。それに、『ゴルフを覚えて、打撃が狂った野手を何人も見てきたから』とのことでした。当時は『ゴルフなんか止まったボールを打って穴に入れるだけだから、誰にでもできるだろう』という考えだった」(前出・記者)

 ただ、甥の張本茂さん(現・至誠館大学ゴルフ部監督)がゴルフを始めると、協力した。

「18歳のときに野球を諦めて、ゴルフを始めようとしたんです。すると伯父さんが静岡のゴルフ場を紹介してくれて、研修生として入ることができた。

 有楽町で待ち合わせしたんですが、人通りの多いところだったので、キャディバッグを持って隅のほうで待っていた。そこにベンツに乗って来たんですが、普通は少しは探すじゃないですか。でも伯父さんは、いきなり大声で『茂!』と叫んで(笑)。

『努力は、他人の3倍も4倍もせなアカン。男は、仕事も酒も女も、全部1番にならないけん。飲め!』と、たくさん飲まされました(笑)」

 唯一、現役時代で心残りがあるとすれば「3000本安打達成時だった」と、ベテランスポーツライターは語る。

「金田正一さんは、巨人で400勝を達成。王貞治さんの本塁打記録もそう。張本もそう願っていた。

 だが、3000本安打は巨人を出され、ロッテで達成。巨人で達成できなかったことが、唯一の誤算だったのでしょう。当時から口は悪くて、誤解されやすかったのですが、後腐れのない性格でしたね」

 それでも、通算最多の3085安打504本塁打319盗塁を達成しているのだから、記録にも記憶にも残る名選手であることは事実。いつまでも、忖度せずに「喝!」と叫びつづけてくれ!

(週刊FLASH 2019年11月12日号)