帝国主義時代にアフリカで唯一独立を維持したエチオピア帝国と イタリアとの戦争、そして日本とのかかわりとは? 【橘玲の世界投資見聞録】
エチオピアが興味深いのは、そこが「(一般に思われているような)アフリカ」ではなく、古代地中海世界の周縁だからだ。19世紀から20世紀初頭にかけて、アフリカのほぼ全域がヨーロッパ列強の植民地となってからも、エチオピアは唯一、独立を維持してきた(リベリアも黒人国家として独立を認められていたが、外国資本によって支配されていた)。
このため、ケニア独立運動の父ジョモ・ケニアッタが「全世界のアフリカ人とニグロに唯一残された誇り」と述べたように、エチオピアは黒人の「希望」でありつづけた(「ニグロ」は現在は差別語とされているが、第二次世界大戦以前は「アフリカ以外に住む黒人」の意味で使われた)。
アメリカにおいてエチオピア主義とアフリカ帰還運動を主導したのがジャマイカ出身のマーカス・ガーヴェイで、そこからエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ(ラス・タファリ)を神と見なす黒人宗教が生まれ、ボブ・マーリーなどのレゲエ・ミュージシャンによって「布教」された。
[参考記事]
●カリブ海に生まれた「ラスタファリズム」という黒人宗教とボブ・マーリー、レゲエミュージックの数奇な歴史
今回は、エチオピアとイタリアの戦争をもとに、この魅力的な国の現代史を紹介してみたい。なお、以下の記述は石田憲『ファシストの歴史 世界史的文脈で読むエチオピア戦争』(千倉書房)、山崎雅弘『歴史ノート エチオピア戦争 第二次世界大戦前、イタリアの政治的・経済的混迷が生んだ侵略』(六角堂出版)、長島信弘「アルヴァレス『エチオピア王国誌』解説」(岩波書店)にもとづいている。
「有色人種がはじめて白人国家に勝った」のは日本ではなくエチオピア
日本では、1904年の日露戦争で「有色人種がはじめて白人国家に勝った」と思われているが、これは正しくない。その8年ほど前、1896年に戦われたエチオピア帝国とイタリア王国との戦争(第一次エチオピア戦争)で、エチオピアの軍隊はイタリア陸軍を完膚なきまでに打ち破っている。だから日露戦争は、「アジアの国がはじめて白人国家に勝った」戦争ということになる。
エチオピアの「戦国時代(諸侯の時代)」は1769〜1855年で、各地に勃興した「王」たちが覇を競った。この混乱を平定したのがカッサで、下級官の家に生まれ、少年期を修道院で過ごし、エチオピア正教とエチオピア文学に傾倒した。類まれな才能によって山賊の首領から勢力を拡大し、1855年にエチオピア全土を掌握すると、「(エチオピア正教と対立していた)カトリック勢力を一掃する」という約束で正教の大司教を味方につけ、皇帝としての塗油を受けてテオドロス帝を名乗った。
テオドロスは「謙虚さと思いやり、激怒と暴虐」という両極端の性格を合わせもち、即位後は任命知事制、奴隷貿易の廃止、一夫多妻婚の禁止、職業軍人の制度化、教会の権力と財産の削減などの理想主義的な改革をたてつづけに行なったが、やがて孤立し誇大妄想にかれるようになる。1864年、テオドロスはイギリスのヴィクトリア女王への親書に対して2年間返事がなかったことを理由に領事以下60人以上のイギリス人を投獄し、救出に来た使節も幽閉してしまった。
これに対してイギリスは3万2000の大軍をエチオピアに派遣し、テオドロスと敵対する諸侯が無抵抗で進軍を許したため、皇帝とその直属軍だけが1868年に決戦を挑んだが大敗し、テオドロスは自殺した。
一方、国土統一に手間取って植民地獲得競争に出遅れたイタリアは、事実上の植民地としていた紅海南部のエリトリアを拠点に、「空白地帯」だった北部エチオピアに進出する機会をうかがっていた。
テオドロスの死後、エチオピアでは帝位の継承をめぐって争いがつづいたが、北部のティグレ族出身のヨハンネス帝が1872年に即位する。イスラーム勢力とイタリアの挑発・侵略に苦慮していたヨハンネスは、後継者に指名したメネリクに南方経営を任せ、自らは先頭に立って戦場に向かった。
1875年、ヨハンネスの軍はエチオピア征服を企てて南下してきたエジプト軍を全滅させ、1887年にはエリトリアから高地に進んだイタリア軍が領主ラス・アルラの軍に大敗を喫した。ヨハンネスはイタリアとの戦いをラス・アルラに任せ、自らは西方の脅威となりつつあったイスラーム勢力の制圧に向かうが、1889年、勝利を目前に敵の刃に倒れた。
ここまでが、第一次エチオピア戦争の前史になる。
