村上春樹好きな男:「ハルキスト」を愛してしまった女の、美学に基づく馬鹿みたいな選択。
「村上春樹」の作品は好きだろうか?
彼の作品に登場する男たちは、飄々としながらBARではピナ・コラーダを飲み、自宅のキッチンでは読者の食欲をそそるスパゲッティを作ってしまうほど、料理が上手い(と思われる)。そして決まって、何もせずとも女が寄ってくる。
そんな村上春樹作品を好む男たちが少なからず東京には存在し、そんな「村上春樹好きな男」が好きだという女たちも少なからず存在する。あるいは、「気になってしまう」と表現した方が、正しいかもしれない。

今週の村上春樹好きな男
名前:亮
年齢:31歳
職業:外資系ファンド勤務
出身:東京
学歴:東大
住まい:神谷町
交際ステータス:独身彼女なし
好きな村上春樹作品:「羊をめぐる冒険」
村上春樹の次に好きな作家:スコット・フィッツジェラルド
たまたま旅行で訪れたシンガポールのカジノ。亮とは、たまたま座ったブラックジャックのテーブルで隣り合わせになった。
ゲームをとても器用に進めていく彼の様子は、初めから私の目に魅力的に映った。カードを見つめる思慮深い眼差し、チップのコインを弄ぶ、男性にしては長く美しい指先。彼は明らかにブラックジャックというゲームを熟知しており、そのセオリーを確かめるような冷静なプレイをしていた。
亮のプレイを見れば、最初からかなり頭がキレるだろうことは明らかだったが、同時に彼には紳士な印象も持った。ゲーム熟練者だからと言って、その場の空気を独占してしまうことはしない謙虚さが彼には備わっていたのだ。
一方で初心者である私は、単なる遊びとして運に任せてゲームをしばらく続けていた。
「リズミカルなゲームの仕方をするんですね。」
チップが半分ほどに減り、そろそろホテルの部屋に引き上げようかと思っていたところで、突然声をかけられた。彼が日本人であることはほぼ確信していたが、急に話しかけられたので驚いてしまった。もちろん、私のブラックジャックがリズミカルかどうかは、よく分からない。
彼を見やると、とても慎み深い表情をしていた。上品な高い鼻と、色素が薄い、透き通るような瞳。唇はキュッと結ばれているが、口角は少し上がっている。とてもハンサムな顔立ちだ。
でもそんな顔立ちよりも、彼を取り巻く物静かで落ち着いた独特の空気感に、ついうっとりとしてしまった。恋に落ちるときは、だいたい最初から直感が働く。
しかし、「リズミカル」という謎めいた表現の仕方には、ある予感を感じずにはいられなかった。
独特の空気感を持つ、彼の正体はやはり...?
「それは大した問題じゃない。」 コテコテのハルキストとの会話は...?
今回の旅行は、シンガポールで働く友人を訪ねる一人旅だった。その日は旅行最終日で、友人と別れた後、せっかくだからと夜更かししてカジノに寄ってみたのだ。
私と亮はホテルのバーに移動し、一杯飲むことにした。私はバーテンダーお任せで作ってもらった甘ったるいカクテルを飲み、彼はウィスキーをオン・ザ・ロックで飲んだ。
彼の立ち振る舞いは、やはり物静かだった。ソファーに浅く腰掛け、手元のロックグラスをゆっくり回転させている。グラスに反射するキラキラした小さな光を楽しむように、彼はそれを静かな瞳で見つめていた。口元には常に薄い笑みを浮かべて押し黙っている。
私たちは、ポツリ、ポツリと会話をした。二人とも東京に住んでいて、彼は赤坂、私は白金と、家も近かったし、行動範囲も似ていた。しかし亮は、異国の地で出会った女と共通点を見つけても大きな反応は示さず、ただ静かに口の端だけで微笑んだ。ある予感が、また強くなった。

「それは大した問題じゃない。どうでもいいことなんだ。」
リズミカルなゲームの仕方とはどんなものかと聞くと、彼はそう答えた。
「...本は読む?」
私は我慢できずに聞いてしまった。
「人並みにね。」
キタ。
彼はやはり、「村上春樹好きな男」だった。「羊をめぐる冒険」が一番好きで、もう何十回も読み返したと、その日初めて、ほんの少し早口で興奮気味に言った。亮はコテコテのハルキストで、グレート・ギャッツビーも大好きだと言った。あの物語の豪華さ、不道徳さ、純粋さがたまらないのだという。
私は「国境の南、太陽の西」が断トツに好きだと言うと、「悪くない。」と、悪戯っぽい目をして、やっと歯を見せて笑った。
意味不明な「ハルキスト」との会話。その世界観が病みつきになる
その後帰国してからも、彼とは週一回のペースで会うようになった。慣れてくると、彼はわりとよく喋った。
「スピーカーのおじさんの話を、芽美に聞かせようと思ってたんだ。」
彼はとりとめのない(どうでもいい)話を、いつも子供に絵本でも読み聞かせるように私に話した。
彼はハルキストらしく音楽が大好きで、高価なスピーカーを集め、音響にかなり拘りがあるらしかった。音楽によって、使うスピーカーも違うらしい。「スピーカーのおじさん」とは、どこかの電気屋の販売員の話だった。
おじさんのスピーカーの知識はかなり専門的で、彼の話を聞くうちに、亮はスピーカーを繋ぐケーブルにまで拘り始めたそうだ。次は音楽のジャンルによって、ケーブルまで変えるようになるかもしれない、みたいなことを話していた。
ハルキストとの会話は、人に話すとお笑い話のように聞こえるし、思い返すだけでも可笑しいというか、下らなすぎるというか、何て変な話をしていたのだろうと一人恥ずかしくなってしまうこともある。でも、それが病みつきになるのだ。
こんなワケの分からない話をできるのは彼だけのような気がしてしまい、二人でいるときの小さな世界観に、気づくとどっぷりとハマっている。
それはまさに、村上春樹の小説を読んでいるのと、同じ感覚と言えるかもしれない。
「村上春樹好きな男」を愛するゆえの、女の行動とは...?
愛する彼の誘いを断った、彼女なりの「ハルキスト」への美学とは...?
彼とは定期的に会うようになり、三ヶ月ほど経っていた。しかし私たちは、いつも上品に食事を済ませ、その後はひっそりとしたバーで相変わらずコソコソと目的のない話を掘り下げているだけだった。
その日、そろそろお開きかと思われるタイミングで、亮がバーカウンターの上で突然私の手をギュッと握った。
「芽美に対しては、僕はすごく、慎重になっていたんだ。」
そう言って、いつもの透き通るような目で私をじっと見つめて、押し黙った。私も同じようにじっと彼を見つめ返し、押し黙ることにした。

客観的に見れば、やはりハルキストとの時間は滑稽だと思う。「好き」とか「付き合おう」なんて言葉はない。でも当事者としては、その瞬間は官能的極まりなく、とろけるくらいロマンチックなのだ。うっとりしてしまう自分を、止められない。
「うちに来る?」
外に出ると、亮は言った。
行きたかった。彼の部屋で彼の自慢のスピーカーで音楽を聞いて、その後のことを想像すると、胸が高鳴り身体が火照った。でも。
「ううん。帰ろうかな。」
典型的な「村上春樹好きな男」である彼に、私は月並みな結末を与えてしまいたくはなかった。どうせならギャッツビーのヒロインのデイジーみたいに、手に入らない女でいるのが愛する彼への正しい選択な気がしたのだ。
彼は、構わないよ、と、唇の端っこだけで微笑んだ。
私たちはそこで別れた。私がさよならと言うと、彼もさよならと言った。
