作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』

写真拡大

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開II その7」をお届けする(第1493回)。

 * * *
「明治維新の生き残り」大隈重信は、裕仁皇太子(のちの昭和天皇)の子供向けの外遊記録に序文を寄せ、そのなかで「古來君主間の交際は、獨り日本に於て有史以來絶無であったばかりでなく、東洋は絶無の事であり、隨って東宮殿下此度の御壯擧は國民の等しく欣快禁ぜざる所」(『少年少女のため 東宮御外遊記』冬夏社刊。復刻版は『昭和天皇 東宮御外遊記―1921年皇太子裕仁親王の訪欧記』響林社刊)と述べている。

 では、なぜ「欣快(とてつもなく嬉しい)」なのかと言えば、そもそも明治天皇も望んでいたが果たせなかったことを、孫の東宮殿下(裕仁皇太子)が果たしたからだと、大隈は述べる。ところが、実際には明治天皇が「朕は外遊したい」と述べた文書、記録は無い。では、なぜ大隈はそう確信できたのか。根拠はある。大隈は先ほどの序文で次のように述べている。

〈御宸翰には「汝億兆を安撫し、遂には萬里の波濤を拓開し云々」と仰せられて居る。此御志を推し奉れば明に折さへあらば御自ら御洋行にもならんとの思召が窺われる」〉

 ここで大隈が「御宸翰」と呼んでいるのは、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」である。それは次のようなものだ。

〈五箇条の誓文と同時に発せられた国民に対する天皇の告示。明治元年(一八六八)三月十四日、五箇条の誓文が発せられたが、それと同時に同日この宸翰が発せられた。内容は朝政一新の時にあたって、天下億兆の一人もその処を得ない時は皆天皇の罪であるから、自今治蹟に励み、万里の波濤を開拓し、大いに国威を輝かさんと欲するので、国民は旧来の陋習にとらわれず、私見を去って公議を採るべしと述べている。〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊 項目執筆者小西四郎)

 さて、ここで読者のみなさんにお尋ねしたい。この「御宸翰」の存在をご存じだっただろうか?

 正直に告白すれば、私も存在自体はかろうじて知っていたものの、その重要性については的確に把握していなかった。この『逆説の日本史』シリーズでも一度も取り上げたことは無いはずである。いまとなっては不明を恥じる。これは、明治天皇が明治維新という「国家リニューアル」にあたり、国民に直接手紙を書いてその目的と実行の決意を述べたのものだ。

 言うまでも無く、それ以前には士農工商を基本とした身分の壁というものがあり、たとえば『海国兵談』で「日本の海は世界のどことでもつながっている。このまま放っておくと日本は外国の海軍に四方八方から攻められることになりかねない」という趣旨の警告を発した林子平は、その内容がまったく的確であったにもかかわらず、老中松平定信に「身分もわきまえず世迷言を言うな!」と厳しく罰せられた。

 最近は、日本の士農工商という身分制度はそれほど厳格では無かったという論者もいるが、武士とそれ以外の民の身分差は厳然としてあった。だから高杉晋作は奇兵隊を、土方歳三は新撰組を結成しなければならなかった。

 ところが、明治天皇はこの「全国民にあてた手紙」のなかでそうした事実を認めて自分の罪だと詫びたうえで、これからは先頭に立って世の中を改める、だからついてきてくれ、といった趣旨の言葉を述べている。これは驚くべきもので、私も世界史のすべてを知っているわけでは無いが、こんなことを国民に直接語りかけた君主は明治天皇ただ一人だと思う。

 板垣退助は、これを読んで天皇は西洋のような議会制を望んでおられるのだと考え、自由民権運動を始めたとの見方もある。だから明治維新のときだけで無く、自由民権運動発足のときにもこの貴重な史料を紹介すべきだったのだが、どうも機会を逸してしまったようだ。

 ここであらためて気がついていただきたいのだが、大隈重信が書いた序文は青少年向けのものである。大人に対するものでは無い。にもかかわらず、大隈は「御宸翰」がどのようなものかとくに説明はしていない。つまり、この「御宸翰」は当時中学生でも知っている常識だったということだ。

 以前、南北朝正閏論を分析した際に、当時の論者が列挙した南朝の関係者を祀った神社名について「現代人はこれらの神社についてまったく知らないと言っていいが、神社についての説明がまったく無いところから見て、これは当時の人々にとっては常識だったと推察される」という趣旨の分析を行なった。覚えておられるだろうか?

 常識というのはそういうものである。もちろん、常識というものは時代によって変わる。それがどう変わったかを分析するのが歴史の研究だ。そういう意味では、大隈はありがたい材料を提供してくれたとも言える。

 本来ならばここで全文を紹介したいところだが、約五千字もあるものを掲載すればそれだけで今回は終わってしまう。いずれ単行本化の折には巻末に史料として添付するつもりだが、ここではその内容について私が要約することにする。ご興味のある方は、国立公文書館のホームページなどで原文が見られるので、そちらを参照されたい。

山県有朋の「一味違った見識」

 まず冒頭で、明治天皇は次のように述べている。

〈朕、幼弱ヲ以テ猝ニ大統ヲ紹キ、爾來何ヲ以テ萬國ニ對立シ、列祖ニ事ヘ奉ランヤト朝夕恐懼ニ堪ヘザルナリ。〉

〈大意〉
 私は年少にもかかわらず思いがけず天皇に即位したが、それ以後どうやって諸外国に対抗し天皇家を安泰ならしめんと、ひやひやしながら日々を過ごしてきた。

 このような書き出しで始まっている。じつに謙虚な言葉である。
 以下、現代文で大意を示すと以下のようになる。

〈大意〉
 中世以降は武士が政権を占有して天皇の位を名ばかりのものにし、その結果一般国民と天皇の心は大きく離れてしまった。しかし、ようやく時代は変わった。もしこの新しい時代の新しい政治に向かう私の真意を国民が理解せず、また国民がその恩恵に浴さないのならば、それはすべて私の罪である。
 近年、世界は大きく開け諸外国は発展しているのに、ひとり我が日本だけが国を閉ざし過去の因習に引きずられて国を改革しようとはしなかった。
 私自身も宮中深く安寧を貪り国家百年の計を怠るようでは、先祖の名を辱め億兆の民を苦しめることになってしまう。そこで私は、旧大名や政府の官僚とともに誓うこととした。先祖の偉業を継承し、自身の苦労は決していとわず自ら国を経営し……。

 そして、この先が大隈が序文に引用した部分につながる。すなわち、「汝億兆ヲ安撫シ、遂ニハ萬里ノ波濤ヲ拓開シ」である。ここもあえて現代語に訳せば、「おまえたち国民をサポートし、やがては万里の波濤を越え(外国をも)開拓し」となる。さらに先の引用には無いが、これに続く言葉が

〈國威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富岳ノ安キニ置カムコトヲ欲ス〉

 である。大隈にしてみれば、このように仰せられたのだから当然明治天皇は海外に行く御意志があったのだということにもなるし、後に中国大陸に満洲国を建国した陸軍、関東軍の将校たちは、「日本の安定を富士山のごとくどっしりしたものにしたい」と仰せられた明治大帝の思いを、われらが実現したのだ、と思ったかもしれない。

 そして、結語の部分はこうである。

〈汝億兆能ク朕ガ志ヲ體認シ、相率ヰテ私見ヲ去リ、公議ヲ採リ、朕ガ業ヲ助ケテ神州ヲ保全シ、列聖ノ神靈ヲ慰メ奉ラシメバ生前ノ幸甚ナラム。〉

〈大意〉
 おまえたち国民がよくよく私の志を理解して、助けあって自分の利益では無く公共の利益をめざし、私の仕事つまり日本を保つことに協力し御先祖様の霊を慰めてくれるならば、私の生涯の喜びとなるであろう。

 この「公儀ヲ採リ」という部分が、薩長との藩閥闘争に敗れて下野した土佐の板垣退助らを強く動かし、自由民権運動に走らせたのだろう。薩長は、明治維新当初は有司専制つまりエリート官僚による国家建設をめざしていた。民意などに耳を傾けていては速やかに欧米列強に対抗する国家はできない、という発想だろう。そしてこれは、否定できない事実でもあった。国民に対する近代的教育も始まったばかりで、若者がそれを身につけて社会に出てくるのはかなり先になる。

 一方で、江戸時代以来の古い意識を捨てられない人間たちも大勢いる。だから選ばれたエリートが引っ張るしかない、というのが薩長の考え方であった。その薩長に反撥して爵位をもらわず「平民宰相」となった原敬ですら、一九二一年(大正10)の時点でも日本で普通選挙を実施するのは時期尚早だと見ていた。明治維新から半世紀が過ぎ、天皇も明治天皇から大正天皇(当時はまだ今上陛下)に代替わりしたというのに、それでもまだ完全な民主主義を実施するほど民度がそこまで高まっていない、という認識だったのである。

 それゆえ薩長は、自分たちのやり方のほうが正しいと考えていた。それは事実でもあったからだ。しかし、だからといって板垣退助らの自由民権運動を否定するわけでは無い。そうした運動は一朝一夕に成果を実現させるものではないがゆえに、ある程度早く始めなければならないものだからだ。とにかくここで見逃してならないのは、この「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」の後世に与えた強い影響力だろう。

 さて、話を本題である裕仁皇太子の外遊に戻そう。

 これまで大隈重信をはじめとする明治維新の推進者たちが、なぜ皇太子の外遊が絶対に必要だと考えたのかを述べてきた。歴史学者が完全に見逃している明治初年の岩倉使節団の目的について述べたのも、この外遊を実現しようとしていた人たちがまさに朱子学に基づく保守的な思想に毒された人間を目覚めさせることこそが大切だと考えていたかを知ってもらいたかったからだ。

 一年十か月にもおよぶ欧米歴訪の旅をへて、それまで断固として西洋風の断髪も洋装も認めなかった岩倉具視が、西洋風の紳士に変貌した。随員の伊藤博文らが必死に説得したからだろう。

 逆に言えば、それだけ必死に説得したにもかかわらず、岩倉が態度をあらためるのには長期の期間を必要としたということだ。大隈は伊藤の苦労を知っていた。だからこそ本来そりが合わない二人が、明治初期に新橋ー横浜間というきわめて短い鉄道路線を開通させたわけである。なぜそうしたのかはすでに述べたので繰り返さないが、ここで少し訂正をしなければならないことがある。山県有朋のこの外遊に対する態度だ。

 私は山県の保守性を指摘し、その山県ですら「積極的には反対しなかった」と述べた。つまり、維新の生き残りの一人としてこの外遊の意義をきちんと理解しているがゆえに、懸念はあったかもしれないが邪魔はせず消極的に支持したという表現をした。

 しかし、その後詳しく調べてみると事実は違っていた。山県は消極的な支持者では無かった。もちろん、反対論者だというのでは無い。むしろ、当時の日本でももっとも外遊を推進した一人だったのである。正直言って、この点で山県という人間を低く評価しすぎていた。外国文化を否定する攘夷思想に染まった「純正右翼」とは違って、明治維新の立役者でもある山県は、やはり一味違った見識を持っていたのだ。

 なぜそれがわかるかと言うと、山県は当時の裕仁皇太子に対する「帝王学教育」にきわめて不満を持っており、改善策を提案しているからだ。それまでの裕仁皇太子に対する教育というのは、宮中某重大事件のところで紹介した杉浦重剛らが宮内省の委嘱を受けて実施していたもので、漢文、国文、歴史、地理といった基礎科目のほかに、数学、物理、化学など理系の科目、そしていずれ「大元帥」となる日に備えて馬術や軍事学も科目のなかに入っていた。これらは、それぞれ一流の人物がマンツーマンで教育を行なうというものであった。

 しかし山県は、それだけでは帝王学としてふさわしくないと考えていた。まず山県は、腹心の三浦梧楼、あの朝鮮国の閔妃暗殺にもかかわったとされる三浦はその後は宮中顧問官などを務めていたが、その三浦をして皇太子付きの官僚のトップ東宮大夫の浜尾新を批判させた。

 いまの皇太子教育は「箱入り御教育」ではないか、という厳しい批判である。

(第1494回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2026年6月26・7月3日号