『あなたが正しくいられたとき』

 作家・芦沢央さんの新刊ミステリー『あなたが正しくいられたとき』が、5月22日に文藝春秋より刊行されます。本作は、私たちの日常が音もなく反転し、今まで信じてきた「正義」が崩れ去る瞬間を、芦沢さんならではの鋭い筆致で描き出した短編集です。デビュー15年目を迎える芦沢さんが、満を持して放つ「“芦沢といえば”が詰まった短編集」に込めた思いとは。作品にまつわるお話を伺いました。

【画像】デビュー15年を迎える芦沢央さん

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芦沢央らしさを凝縮した一冊

――近年ますます活躍の幅を広げている芦沢さん。そんな中で、なぜ今、原点回帰ともいえるミステリー短編集を編もうと思ったのでしょうか。

芦沢:元々は、単行本に収録されていない短編が20本ほどあったのがきっかけです。その中から、私らしい作品と、そしてミステリー度の高いものを集めました。

 ここ最近は、純文学にジャンル分けされるものや、SFなど、少し変わり種の作品が多かったので、「芦沢といえば」というような短編集を15年の節目で出しておこうと思い、6本を選びました。

――本書に収録されているのは、9年間にわたって様々な媒体で発表された6篇です。しかし、この6篇には一貫したテーマが流れています。それを象徴するのが、一度聞いたら忘れられない『あなたが正しくいられたとき』というタイトルです。

芦沢:この言葉がふと浮かんできたんです。「『あなたが正しくいられたとき』、――では、“あなた以外”はどうだったのだろうか、というニュアンスもあります。そして、『いられたとき』と過去形なので、この人はもう正しくいられなくなってしまったのかな……」、とか。いろんな含みが出てくる言葉だなと思いました。

 元々このタイトルにするつもりで6作を選んだわけではないのですが、結果的にこのタイトルが響いてくるような短編が集まりました。それぞれ違う響き方で、「正しくいられたとき」という意味合いが変わってくるんです。私は昔から「正しさ」というものに対してすごく関心があったんだな、と、色々なアプローチの仕方でそのモヤモヤを書いていることに、自分でも驚きました。

正しくあろうとすることの危うさ

――それでは、収録作について具体的に伺っていきます。表題作「あなたが正しくいられたとき」は、河原でのバーベキュー中、主人公の元カノが彼の娘を川に突き落とすのを目撃するという、衝撃的な場面から始まります。主人公の窪田は消防士で、強い倫理観や、正しい親の姿を自身の中に持っている人物として描かれます。しかし、物語が進むにつれて、その「正しさ」が揺らいでいきます。

芦沢:窪田は「正しくありたい」人で、自分の中に「こういうのが正しい」という像をある程度持っています。視野が狭かったり一面的だったりもするのですが、その思いから頼りがいのある行動を取り、実際に人が助かるようなこともしている。ただ、危うさもある人物です。

 作中で彼の見え方は色々と変わっていきますが、この人はいい人だよね、とも、悪い人だよね、とも言い切れない。そのどちらも嘘ではない、という存在として描きました。

――正しくあろうとすることが、かえって危うさを生む。そんな背筋が冷たくなる感覚を覚えます。

芦沢:そうですね。でもその一方で、「正義感を押し付けるのは良くないよね」という単純な結論で終わるわけでもありません。正義によって人を傷つける面もあれば、良い面もある。何かを断罪して終わるような書き方にはしたくなかったんです。そこに関しても疑いを持ち、いろんなことを疑いながら書いた作品ですね。

日常に潜む恐怖の源泉「立体パズル」

――次に紹介する「立体パズル」は、幼稚園児の息子を持つ父親が主人公です。彼の息子と同い年の子どもが、「子どもは静かにするもんだろうが」と主張する、通り魔的な犯人によって殺害される事件が発生します。この作品は、どこから着想を得たのでしょうか。

芦沢:これは以前書いた『夜の道標(どうひょう)』(中央公論新社)という作品がきっかけです。この小説は殺人を犯した人が逃亡する話なのですが、彼の幼少期に育った家には、もう別の家族が住んでいる、という描写が2行ほどありました。その時、ふと「今その家に住んでいる人たちってどんな思いなんだろう」と気になったんです。

 逃亡中の殺人犯が生まれ育った家で暮らしている家族がいる。事件が起きた場所ではないので、いわゆる事故物件ではないし、買った後になって「いわく付き」だと知ってしまった。高い買い物をしたのに売ることもできない。そんな状況ってどんな感じだろう、そうなったら嫌だなあ、というところから話を作っていきました。

競作アンソロジーから生まれる化学反応

――本書には、「待てば無料」(週刊文春の豪華ミステリー競作企画「5分の迷宮」)をはじめ、複数の作家が同じテーマで執筆する「競作アンソロジー」に寄稿された作品も収録されています。芦沢さんは競作の魅力をどこに感じていますか。

芦沢:お題を出されることによって、それがなければ思いつかなかったアイデアが結構生まれるので、競作アンソロジーはすごく好きです。仕事が詰まっていても、面白いお題だとつい受けてしまいます(笑)。

 お題をいただくと、まず他にどなたが執筆されるのかを聞いて、そのメンバーを見て「かぶらないようにしよう」と考えます。その過程で、新しい発想が生まれるんです。

――「テーマやトリックが被らないようにしよう」という思いが、逆転の発想となって生まれた収録作の一つが、「代償」という作品です。

芦沢:「共犯関係」というお題で書いてくれと言われたことが始まりだったのですが、思いつくアイデアについて、「これだと誰かとかぶるんじゃないかな」と不安になったんです。その「かぶるって怖いな」という気持ちから、「自分が書いたものが、もう既に似たような作品がありますよ、と言われたら嫌だな。それがすごく長い長編で、しかも自分の勝負作だったら……」と最悪のシチュエーションを想像して。それがあり得るとしたらどんな状況だろう、という形で物語を書いていきました。

芦沢央にとっての「正しさ」とは

――様々なアプローチで「正しさ」へのモヤモヤを描いてきた芦沢さん。今、改めて芦沢さんにとって正しさとは何でしょうか。

芦沢:私にとって「正しさ」は、どんどん変わっていく、常に怖いものです。正しいということ自体が怖いし、自分が正しさを理解できていないかもしれないのも怖い。自分が信じている正しさが守れなくなるかもしれないのも怖い。どれも怖いです。

 例えば「待てば無料」は、24時間待つと漫画が無料で読めるアプリの話ですが、「無料で読めるのにお金を出すなんてバカみたい」とか、「こうすれば得できるのに、やらないのは損だ」といった価値観が溢れています。そうやっていろんな価値観が変容していく中で、正しさも変わっていく。

 コロナ禍でもそうでしたよね。自分が見えているものが揺らいでいくこと、その変化によって自分が誰かを傷つけたり、間違ってしまうかもしれない、という怖さがあります。私は、怖いものがあると書かずにいられないタイプなんです。この9年間の短編を見ても、ずっと何かが怖かったんだな、という気がしますね。

デビュー15年目を迎えて

――芦沢さんは、2012年に『罪の余白』でデビューされ、今年2026年で15年目を迎えます。

芦沢:もう15年目か、とびっくりします。その都度、何年後まで書けるかなどとは考えずに、その時に書きたいものを全力で書いていたら時間が経っていた、という感じです。でも、こうして仕事をさせてもらえるのは、読者の方が読んでくださったり、応援してくださったりするおかげだな、と感じています。それがなかったら、とっくに私は廃業していただろうなと思うので、しみじみありがたいなと思っています。

――修行僧のようにストイックに、純文学など新たなジャンルにも挑戦し、表現力を磨き続けてきた芦沢さんですが、今後の目標や書きたい作品はありますか。

芦沢:ここ数年は、書きたいものがあるのに自分の実力が足りなくて書けない、と感じていた題材に取り組むために、筋力をつけるような修行をしてきました。今年、来年は、さらに新しいことに挑戦するというよりは、これまで身につけた力で、自分の今までのフィールドで飛距離を伸ばすような、今までとは違う書き方を試してみたいですね。『夜の道標』に登場する刑事の平良正太郎が主人公のシリーズ作品も始まりますし、自分の力が今どこまでいけるのかを試してみたい気持ちがあります。

――最後に、読者へのメッセージをお願いします。

芦沢:おかげさまで15年目を迎えることができました。ありがとうございます。この14年ちょっと、いろんなジャンルや作風に挑戦させていただきました。読者の方にとっては、「芦沢さんといえばこうだよね」という作品が読めた方が安心だと思うのですが、開けてみるまで分からない、ということでご負担をおかけしてしまったかもしれません。

 それでも「今回はなんだろう」と思いながらついてきてくださった読者の方々のおかげで、今まで書いてこられたし、これからも書いていけるなと思っています。これからも頑張っていきますので、応援のほどよろしくお願いします。

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 デビュー15年目を迎えた芦沢央さんが贈る、珠玉のミステリー短編集『あなたが正しくいられたとき』。日常に潜む「正しさ」の危うさと、それが揺らぐ瞬間の恐怖を、鮮やかに描き出しています。あなたの信じる正義が試される6つの物語を、ぜひ手に取ってお楽しみください。

(芦沢 央/文藝出版局)