「連帯」は、バラバラな私たちが、バラバラなまま共に生きていくためのノウハウ【バラバラな世界で共に生きる】
分断が極まり、「正しさ」がSNSでぶつかり合う社会で、私たちは他者といかに語り合えるか。共通の基盤なき世界で人が共に生きる可能性を問い続けたリチャード・ローティの哲学から、分極化の時代を生きるための知的作法を引き出す。
大好評だった『100分de名著 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』テキストを大幅改稿した『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』が2026年5月11日に発売となります。
今回は本書より第4章の一部を特別公開します。
書影
「われわれ」は小さくて断片的なところからはじまる
『偶然性・アイロニー・連帯』の最終章「連帯」において、ローティは次のように述べています。
私たちの連帯の感覚がもっとも強くなるのは、連帯がその人たちに向けて表明される人びとが「われわれの一員」と考えられるときである〔……〕。この場合の「われわれ」は、人類よりも小さく、それよりもローカルなものを意味する。(『偶然性』三九九頁/p. 191)
あらためて確認すれば、ローティの言う「連帯」とは「われわれの拡張」でした。そのうえで、「同じ人間」だから連帯できるのではない。むしろ「われわれ」とはもっとずっと小さくて断片的なところからはじまる、とローティは言っていました。そして彼は、「連帯という感情は必然的に、どのような類似性や非類似性が私たちにとって顕著なものとして感じられるかということに関わっており、何が顕著なものとして感じられるかは、歴史的に偶然的な終極の語彙のはたらきに依存している」と述べています。
連帯は「人間らしさ」という本質を基礎として成り立つのではなく、偶然性のかたまりとして私たちがたまたま持つようになった終極の語彙によって、感じられるということです。そしてここまで度々確認してきたように、終極の語彙とは決して固定的なものではなく、他人の終極の語彙に触れたり、小説やルポルタージュを読んだりすることによって変わりうるものです。その点で、ローティの「連帯」は、現代社会を覆う分断や分極化を克服するものではありません。なんの本質も共有しない、バラバラな私たちが、バラバラなまま共に生きていくための精一杯のノウハウなのです。
私自身の経験を述べると、数年前に「われわれ」の拡張を実感したことがありました。それは、ウクライナをめぐる一連のことばに触れる機会が増えたことに由来します。それまでウクライナに関する知識をほとんどもっていなかったのですが、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまって以後、報道を見聞きしたり、避難民の人たちが日本にも来て、微力ながらその支援をしたりすることで、ウクライナの人たちのことばづかいについての理解度が急に上がりました。どのような歴史と文化をもち、なににこだわっているのか。ボルシチがもともとウクライナ料理だということさえ、はじめて知りました。こうしたことは、戦況報道ではなく、併せて伝えられる個々人のエピソードや、ジャーナリストが伝える現地や避難民の話などを聞くことで、はじめて自分自身のことばづかいに入り込んでくるものです。
ひとつ象徴的だったのは、ウクライナの首都の日本語での呼び方が、ロシア語読みに基づく「キエフ」から、ウクライナ語読みに基づく「キーウ」に変わったことです。これは、ウクライナの人たちが大切にしている終極の語彙としての「キーウ」を、われわれが尊重して受け入れたことを意味しうるでしょう。つまり私自身の終極の語彙が変わり、再記述されたのです。もちろん、私はウクライナの地で起きている惨禍の全容も、その人たちの苦難も、ほとんど知りえません。しかし、かの人たちが大事にしたいと願っていることばづかいに倣(なら)うことはできますし、それは「知ろう」とするための大前提でしょう。「われわれ」とは、こうした過程を通じて拡張するほかないのです。
小さな手がかりから連帯せよ
ふたたび「連帯」から引用しましょう。
私が提起する見方は、道徳的な進歩と称される事柄があること、しかもその進歩が現実により広範な人間の連帯へと向かっていることを肯定するものである。しかし、その連帯は、あらゆる人間存在のうちにある自己の核心、人間の本質を承認することではない。むしろ、連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。(『偶然性』四〇一頁/p. 192)
文化の違いや宗教の違いは、一見するとたいへん大きな違いに思えます。しかしそれがどれだけ違っていようとも、そこに苦痛を受けている人が存在する。辱めが存在する。そこに対して残酷さを行使するようなわれわれの加害行為がありうる。こうしたことに思いを馳(は)せることによって、「われわれ」という範疇(はんちゅう)を少しでも広げることが可能になるのではないか。ローティはこのような考えを示しています。
それは、文字通り一歩一歩進むしかない、慎重な歩みとなるでしょう。しかし、伝統的な哲学が自明視した本質主義を棄却した以上、人々の連帯は、まさにいまここにある小さな断片を手がかりにつくるしかないのです。
「トランプ現象」をなぜ予言できたのか
「はじめに」で述べましたが、ローティはその死後十年近くを経た二〇一六年、さかのぼって大きな話題になります。それは、一九九八年の著作の一節が、まるでドナルド・トランプ大統領の登場を予言していたかのような内容だったからです。それについては次章であらためて扱いますが、本章のここまでの議論から、なぜローティがトランプ現象を二十年近く早く予言できたのか、またそれを記した本のタイトルがなぜAchieving Our Country(われわれの国をなしとげる、邦訳『アメリカ 未完のプロジェクト』、以下原則として邦題で記載)であったのかを理解することができます。
このタイトルは当初、リベラルな思想の人々からは、愛国的で国家主義的だと非難されました。しかしローティとしては、まさにこのタイトルが重要だったのです。というのも彼は「普遍的な人間」ではなく、「われわれアメリカの一員」という言い方をすることによって、「リベラル」からは〈正しくない〉と糾弾されるような人々の存在をそこに含めることができる。そうすることで、二〇一六年にトランプに熱狂したような怒れる多数派層を「われわれ」に包摂(ほうせつ)できるかもしれないという可能性を考えていたからです。
もっとも九八年当時のそれは、リベラルからの反発を浴びただけになってしまいましたが、およそ二十年後、ローティの予言通り、彼らは怒れる多数派層として表に現れてきました。彼らが〈左派〉に突きつけたのは、アメリカのリベラルが言う「われわれ」のなかに自分たちは入っていない、自分たちの苦痛や悲嘆には誰も耳を傾けない、という異議申し立てでした。
こうしたローティの哲学から導かれる政治的な言説と、それがじっさいのアメリカ、そして世界の現代史において、どのような役割を果たしえたのか、あるいはどんな処方箋になりうるのかは、第Ⅲ部で見ていくことになります。それはちょうど九〇年代以降のローティが、一介の哲学者というにはとどまらない「知識人」として、その言説が注目されていき、毀誉褒貶(きよほうへん)(とりわけ左右両陣営からの毀と貶)を浴びていく過程を見ることで、『偶然性・アイロニー・連帯』に結晶したローティ哲学のポテンシャルを吟味することになるでしょう。
ただ、本章の最後にローティの「予言」が、なぜ彼の哲学からの帰結として登場したのかという点だけ確認しておきましょう。
『アメリカ 未完のプロジェクト』は、九〇年代にアメリカ左派が推し進めていた「アイデンティティ・ポリティクス」への警鐘として書かれました。アイデンティティ・ポリティクス(アイデンティティの政治)とは、おもに人種、ジェンダー、性的指向など、特定のアイデンティティをもった人たちが共通の利益や政治目標に向かって行う政治活動です。アイデンティティ・ポリティクスの担い手は、原則的に少数派(マイノリティ)です。われわれは少数派だがたしかに存在している。しかしその存在が社会的に認められていない。承認が与えられておらず、いないものとして扱われている。それに対して異議申し立てをする。これがアイデンティティ・ポリティクスの基本構造です。しかし、この「論法」が、いずれマジョリティである白人労働者、特に男性の白人労働者によって乗っとられることを警告したのが、ローティのこの本でした。
いかにして会話を守るか
ローティによれば、誰もが当事者であるはずの政治という場面において、アイデンティティに訴える論法はある意味で相手を「黙らせる」ものです。「俺のつらさはお前にはわからないだろう」といったことが言えてしまう。ローティは、この論法自体がもつある種の危うさこそが問題だと言っていたわけです。
ただ、ここは大いに注意が必要で、議論をていねいに見なければならない部分です。マイノリティにとって、自身のアイデンティティを根拠に「ここにこういうニーズを抱えて困っている当事者がいる」と表明することは、ほとんど唯一可能な政治的手段です。なぜなら、マイノリティはそもそも存在しないものとされ、政治的意思決定のプロセスにおいてまったく顧慮(こりょ)されない存在になってしまっている。 だからこそ「私はここにいる」と言う必要がある。その点はもちろんローティも見失ってはいません。アイデンティティに訴える論法を使う者がみな悪いと言っているわけでは必ずしもなく、マイノリティにとってはその論法を使わざるをえない局面があることはローティもわかっています。
ただし、この論法そのものがもっている「会話を止める」という機能には注意しなければならないと彼は考えたのです。「お前にはわからない」という、ある意味で反駁(はんばく)不可能な主張をすることで、相手は二の句が継げなくなってしまう。その構造的な問題点にローティは着目しました。これは必ずしも発話者が悪いわけではなく、そうした叫びをあげるほかはない状況に追い込んでしまう、議論や会話の主導権を握っているはずの多数派にこそ問題がある。指摘の主眼はそこにあります。
そうすると、この問題に対する処方箋の方向もおのずと見えてきます。アイデンティティ・ポリティクスがときに会話をストップさせてしまうような営みであるなかで、こうした論法をどのように避け、どうやって会話を継続させることができるか。会話を打ち切らせるような試みに対して、どのようにしてそれを抑止し、会話を守ることができるか。それを考えていくのが処方箋の方向性になるはずです。そのことを、キャリア全体を通じて考え続けたのが、リチャード・ローティでした。
この続きは『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』でお楽しみください。本書は以下の構成で、分断の時代を“共に”生きるための術を、ローティの死後に注目された「予言」や主著以外の発言にも光を当て、問いなおします。
Ⅰ バラバラな私たちを理解する
第1章 私たちは「ことばづかい」でつくられる───「偶然性」とはなにか
第2章 黙らせることをめざさない───「アイロニー」と公私の分離
Ⅱ バラバラな世界を直視する
第3章 ことばによる「非-人間化」に抗う───なにが紐帯の基盤になるのか
第4章 「われわれ」は拡張できる───「連帯」とはなにか
Ⅲ バラバラなまま共に生きる
第5章 分極化した時代をどう生きるか───ローティの「予言」から考える
第6章 〈正しさ〉を乗りこなす───「リベラル」を描きなおすために
朱 喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年、大阪生まれ。大阪大学招へい准教授。大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。また研究活動と並行して、企業においてさまざまな行動データを活用したビジネス開発に従事し、ビジネスと哲学・倫理学・社会科学分野の架橋や共同研究の推進にも携わっている。著書に『〈公フェアネス正(フェアネス)〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)、『人類の会話のための哲学』『バザールとクラブ』(よはく舎)、共著に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『在野研究ビギナーズ』(明石書店)、『信頼を考える』(勁草書房)。共訳書に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(ロバート・ブランダム著、勁草書房)などがある。
※刊行時の情報です
