【豊臣兄弟!】「信長」の意外な忍耐&「秀吉」の天才が発揮され…“日本一堅固な城”が落ちるまで
落とすのに3年かかった堅牢な城
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』ではここ最近、織田信長(小栗旬)が「いますぐ小谷攻めを行い、浅井を討ち滅ぼすのじゃ!」といきり立つ場面が多い。それも当然だろう。
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信長は近江(滋賀県)北部の浅井家と同盟を結び、当主の長政(中島歩)のもとに、妹の市(宮粼あおい)を嫁がせていた。ところが、元亀元年(1570)4月、信長が越前(福井県北東部)の朝倉義景(鶴見辰吾)を攻めるために進軍している最中に、長政は朝倉と結んで信長に反旗をひるがえし、信長は、下手をすれば命さえ落としかねないほどの窮地に追い込まれたのである。

しかも、長政はしぶとかった。同年6月28日、姉川合戦で信長と徳川家康(松下洸平)の連合軍に敗れても、浅井・朝倉連合軍はさほどダメージを受けることはなく、交戦状態は天正元年(1573)の夏まで続いていく。そして第17回(5月3日放送)は、いよいよ「小谷落城」である。ようやく信長は、積年の恨みを晴らすことになる。
それにしても、浅井を討ち滅ぼすのに丸3年以上かかるとは、かなり手ごわかったということだが、その最大の理由は、小谷城(滋賀県長浜市)が非常に堅固で、簡単には攻められなかったことにある。
小谷城は清水谷と呼ばれる谷を馬蹄形に取り巻く山上に展開していた。清水谷の奥には、城主の政務や生活の場である山麓の居館があった。だが、有事には基本的に、城主もその家族も山上にいたものと思われる。馬蹄形の山は、馬蹄の左(西)側には、朝倉氏が手を加えたり築いたりした曲輪(削平され、石垣や土塁、堀などで区画された平坦地)があったが、普段は使われなかった。馬蹄の奥(北)側は小谷山の頂点で、標高495メートルの頂上は大嶽と呼ばれ、そこにも朝倉氏が手を加えた、独立した城郭のような曲輪があった。
しかし、城の中枢部は馬蹄の右(東)側だった。最高所の標高が400メートルという東側の尾根は、上の城と下の城の2つのエリアに分かれ、それらのあいだは巨大な堀切(尾根を分断する堀)で分けられていた。また、2つのエリアがそれぞれ、石垣を大規模に積んだ曲輪群で構成されていた。
攻められず城下への放火止まり
さて、信長の戦い方は、『豊臣兄弟!』で気が急いてばかりいるのと違い、意外にも非常に根気強い。時間をたっぷりかけ、かなりじわじわと攻めていった。その方法は、小競り合いを繰り返しつつ、調略によって浅井側の諸将たちを少しずつ織田側に寝返らせる、というものだった。
とはいえ、最初は信長も、小谷城を一挙に攻め落とせると考えたようだ。だから、城の南側すぐ正面にある虎御前山(長浜市)に陣を敷き、城下に放火して回ったのだ。しかし、簡単には攻められないとわかってから、虎御前山より数キロ南東の横山城(長浜市と米原市の境)を落として、織田軍の付城(敵の城の近くに築く攻撃拠点)とした。
信長側のこの態勢に対して、浅井・朝倉連合軍が挑んだのが、小谷城の南方5キロほどの場所で繰り広げられた姉川合戦だった。信長は徳川家康との連合軍として戦い、いちおう浅井・朝倉軍に勝利を収め、ふたたび小谷城下に放火したが、やはり城に攻め込むのは困難だったのだ。
そうこうするうちに、浅井・朝倉勢は延暦寺がある比叡山に立て籠もってしまった。信長は元亀元年(1570)9月24日、延暦寺の僧侶を10人ほど呼び寄せ、自分に味方をすれば信長の領内にある延暦寺の領土をすべて還付するし、味方にはつけないなら中立でもいいが、浅井・朝倉を支援しないでほしいと要請。もし支援し続けるなら焼き討ちする、と脅した。ところが、延暦寺は信長の要求を完全に無視。このため膠着状態が年末まで続くことになった。
その後、足利義昭が仲介して信長と浅井・朝倉は和睦するが、このいわゆる「志賀の陣」の3カ月は、信長にとってかなり苦しい期間だった。だからこそ、その報復として翌元亀2年(1571)9月、延暦寺の焼き討ちが行われることになったのである。
自軍の損害を最小限にするため
その間、信長に有利な状況は少しずつ作られていった。元亀2年(1571)2月、浅井軍の最前線として佐和山城(彦根市)に籠城していた磯野員昌が、織田方に寝返った。同年10月には、宮部城(長浜市)の宮部継潤も寝返った。とくに宮部城を押さえたことは、小谷城を攻めるうえで重要だった。
翌元亀3年(1572)になると、7月には南正面の虎御前山を起点に小谷城を攻撃し、清水谷の水の手口まで攻め込んでいる。水の手口は山上の主郭への登り口のひとつで、そこまで織田軍に攻め入られたということは、城兵たちの焦りもかなり大きかったに違いない。
その後、信長は8月にかけて、虎御前山を陣城として整備。後方の横山城とのあいだを結ぶ軍道まで敷設した。決定的だったのは、それから1年経った天正元年(1573)8月、山本山城(長浜市)を守っていた阿閉貞征と貞大の親子が、信長に降伏したことだった。これにより、小谷城とその西側の琵琶湖畔に位置する山本山城のあいだを結んでいた防衛ラインが崩れ、ついに小谷城は四方から攻撃することが可能になった。
このように信長は、時間をかけて小谷城を攻撃できる環境を整えた。ドラマや映画を見ていると、合戦とは正面からぶつかり合うものだ、と考えてしまいがちだが、そういう合戦は例外だった。戦国大名は一般に、自軍の損害を最小限にとどめようとした。それを意識しないかぎり、簡単に滅んでしまうからだ。信長も同様で、自軍の損害を最小限にとどめるためには、こうして時間をかけるほかなかったのである。
城を2つに分断して父子も分断した
ともかく、こうして時間をかけたのちは、戦の天才による攻城が大きくものをいった。ここでの「戦の天才」は木下秀吉である。
信長の事績に関する第一級の史料である太田牛一の『信長公記』から引用する。
〈八月二十七日夜、羽柴秀吉は小谷城の京極丸へ攻め込み、浅井久政・長政父子の間を遮断し、まず久政の居城を占領した。ここで浅井福寿庵が切腹した。また、浅井久政に年来目をかけられていた鶴松大夫という舞の上手な者がいたが、この鶴松大夫が久政の介錯をし、自分も主君のあとを追って切腹した。あっぱれなことはいうまでもない。羽柴秀吉は浅井久政の首を取り、虎御前山の信長の陣へ持参し、実検に供した。
翌日、信長もまた京極丸に入り、浅井長政・赤尾清綱を切腹に追い込んだ〉(中川太古訳)
『信長公記』は〈八月二十七日夜〉と書くが、ほかの史料等から、この日付は正しくは8月29日と考えられ、天正元年の8月は「小の月」で29日までしかなかったので、翌日は9月1日ということになる。
ここで秀吉が行ったことだが、1年前にも織田軍が攻め込んだ、清水谷奥の水の手口から一気に山を駆け上り、京極曲輪の枡形虎口を打ち破って城内に進攻。2つに分かれていた主郭エリアを完全に分断し、双方のあいだで一切の連絡が取れない状況をつくったのだ。その後、上の城にいた長政の父の久政を追い詰め、切腹させた。そして翌日、今度は信長自身も京極丸まで登ったうえで、いよいよ下の城を攻め、長政を切腹させている。
1年前に水の手口まで攻めたのは、城攻めの予行練習だったのだろう。しかも、そこから本番までに1年以上を費やしている。小谷城攻めには信長そして秀吉の、負けない戦をするためには、存分に時間をかけて準備するという、戦い方の王道が凝縮されている。それをやられてしまうと、どんな堅固な城も落ちてしまうことは、とくに秀吉がのちに証明することになる。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
