クラブW杯期間中にチェルシーに加入したジョアン・ペドロ。(C)Getty Images

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 チェルシーがクラブ・ワールドカップで雷雨接近の影響による中断も含めて4時間半を超えるフットボール史上最長の試合の1つとなったベンフィカとのラウンド16を戦っていた頃、その10日後に2得点を挙げて、パリ・サンジェルマンと対戦した決勝進出の立役者となったストライカーは、リオデジャネイロのビーチで友人たちと一緒に過ごしていた。

 当時、ブライトンの選手だったジョアン・ペドロはバカンスを満喫していた。しかし、リラックスモードには程遠かった。代理人からその6月28日にベンフィカを下し(4−1)、決勝トーナメント進出を決めたイングランドのチームが、クラブW杯の残りの試合に向けて獲得する意向を示していることを聞かされていたからだ。

 チェルシーは6400万ユーロと引き換えに、7月2日にジョアンをビーチから引っ張り出し、アメリカに送り込んだ。ニューフェイスはその2日後、パルメイラスとの準々決勝(チェルシーが2−1で勝利)でデビューし、さらにその4日後に前述した通りフルミネンセとの準決勝(チェルシーが2−0で勝利)で2ゴールを決めて勝利に貢献した。フルミネンセはジョアンが少年時代に所属したクラブだった。

「子供の頃、何も持っていなかった僕にフルミネンセは全てを与えてくれた。世界への扉を開いてくれたんだ。今ここにいるのも、彼らが僕を信じてくれたからだ」と、試合後、ジョアンは感謝の言葉を述べた。
 
 17歳でトップチームデビューを果たし、18歳で2000万ユーロでワトフォードに加わった。ワトフォードで4シーズンを過ごした後、(そのうち2シーズンは2部リーグでプレー)、2023年夏に3200万ユーロを支払われ、ブライトン移籍が決まった。渡欧後、とんとん拍子で階段を駆け上がったジョアン・ペドロだが、フルミネンセに売りに出されるまでは、苦難の連続だった。

 ジョアンは2001年にサンパウロ州の内陸部にあるリベイラン・プレトで生まれた。幼少期から母親のフラビアと2人で暮らした。父親のジョゼ・ジョアン・デ・ジェズスは、ボタフォゴで束の間のプロサッカー選手としてのキャリアを送った後、刑務所に収監された。17歳の少年を殺害した罪により懲役16年の刑を言い渡されたのだ(後に刑期は半分に短縮された)。判決では、殺害を指示したことが認定された。
 
 ジョアンは、5歳の時に父親がかつて所属していたクラブであるボタフォゴのアカデミーでサッカーを始めた。当時のコーチ、アレシャンドレ・フェレイラはブラジルの現地紙『オ・グローボ』で、「ジョアンは賢い少年だった。常にボールを要求し、練習でも集中していた。他の子供たちがふざけ合っている間も、常にボールのそばにいた。特に好きだったのがシュート練習で、すでに精度の高さは平均レベルを上回っていた」と語っている。

 しかしすぐに挫折に直面した。ボタフォゴからも、その後加入したサントスからも締め出されたからだ。そんな苦境の最中だった。スカウトがジョアンのプレーをひと目見て気に入ったというフルミネンセから加入を打診された。それはリスクと隣り合わせのビッグチャンスだった。なぜならフルミネンセでプレーするには、サンパウロからリオデジャネイロへの移住が必要だったからだ。

 母親はリスクを負うことを決意したが、計画が瓦解するのに時間はかからなかった。フラビアはリストラされ、2人は経済的に非常に厳しい状況に陥った。
 
「トレーニングパンツとスニーカーしか持っていなかった。母は卵しか食べず、肉のかけらを僕に譲ってくれた。いつも『あなたが食べるのが一番大事だ』と言われていた」とジョアンは当時を述懐する。

 サンパウロに戻らざるを得ない状況に追い込まれ、諦めかけていた2人に再びフルミネンセが救いの手を差し伸べた。フラビアは最低賃金の仕事を紹介してもらったのだ。2人のリオデジャネイロでの生活は徐々に軌道に乗り、かくしてジョアンのシンデレラストーリーが始まった。

文●ダビド・アルバレス(エル・パイス紙)
翻訳●下村正幸

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