『岸辺露伴は動かない 懺悔室』©2025「岸辺露伴は動かない 懺悔室」製作委員会 © LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社

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 『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズで知られる荒木飛呂彦の漫画『懺悔室』を原作とし、高橋一生が主演を務める映画『岸辺露伴は動かない 懺悔室』が、現在公開中だ。

参考:高橋一生の露伴になぜ魅了され続けるのか 『岸辺露伴は動かない 懺悔室』が問う絶望と幸せ

 『懺悔室』はもともと、「週刊少年ジャンプ」(集英社)の1997年30号にて行われた、連載作家陣が“連載中の作品とは別”の読み切りを掲載するという企画の中で、荒木が描いたエピソードである。岸辺露伴が「実際にこの耳で聞いた」話として展開され、作中での露伴は基本的に座っているだけ。その後、短編集、ノベライズ、連続ドラマ化など多岐に渡り展開されていく『岸辺露伴は動かない』シリーズを象徴する、まさに原点である。

 本作は、劇中に明確な章立てなどは無いものの、原作に限りなく忠実な前半部と、完全オリジナルの後半部によって構成されている。また、邦画初となる全編イタリア・ヴェネツィアロケが敢行されたのも本作の大きな特徴の1つといえるだろう。

 そもそも「場所」というのは、ドラマシリーズ『岸辺露伴は動かない』(NHK総合)にとっても、大切な要素なのである。例えば、第4話の『ザ・ラン』では、「妖怪」とは「場所」に憑くものとして描かれ、第5話の『背中の正面』では「坂」とは「境目」であるとして、第8話の『ジャンケン小僧』では「辻、十字路」が「異界との交差点」として描かれるなど、さまざまな場所の特性を起点にしながら物語が展開されている。

 そして、本作において「ヴェネツィア」は、イタリアにおけるペスト(黒死病)による歴史などを交えながら「繁栄の光と死の影がある街」としてフィーチャーされている。また、見るものによって怒りの表情にも悲しみの表情にも変化するヴェネチアンマスクも重要なアイテムとして登場するなど、「相反するものの混在」がヴェネツィアという場所の特性として表現されているのだ。

 さらに、本作のメインテーマ自体も「最高の幸せは“最大の絶望”を連れてくる」であるように、二律背反といえるものが一貫した主題として見事に描きぬかれている。こういった物語としての綺麗な配置と抜け目のなさは実写版『岸辺露伴は動かない』の凄みであり、ここまでの実写化成功の要因であるともいえるだろう。

 実際に、「スタンド」をあえて可視化せずにギフトや呪いとして説明し、リアルとファンタジーの完璧な配合による、「リアリティ」を伴ったダークなサスペンスをドラマシリーズから作り上げた渡辺一貴監督が、同じく劇場版2作目となる本作でも監督を務めている。また、作品のミステリアスな雰囲気を倍増させる極上の劇伴も、ドラマシリーズから変わらずジャズミュージシャンの菊地成孔が担当しているなど、本作でも実写版『岸辺露伴は動かない』が誇る盤石の演出が施されているのだ。

 その上で、ドラマシリーズよりも目立った、映画としての本作ならではの最大のストロングポイントは、やはりイタリアロケという点にあるだろう。

 ただでさえ、真上や真下から煽られる今作のカメラワーク、ショットの構図、画角などは「ジョジョのコマ割り」を彷彿とさせ、さらに、ロングショットの際に映る、イタリアの街並み、洗練された衣装のデザイン、立ち姿は間違いのない『ジョジョ』の画面となっているのだ。

 もちろん、筆者もこれだけでは「イタリアロケが最大のストロングポイント」だとは言わない。筆者が最大のストロングポイントだと言っているのは、「字幕」なのだ。

 本作はイタリア人のキャストも多く、イタリア語のセリフも頻出するので、ところどころに日本語での字幕が入ってくる。そのため、例えば「描けない」というセリフに対しては、「描けないッ!」と字幕が入るように、字幕ならではのセリフの「ジョジョ味」を存分に味わうことができるのである。また、通常画面の下部を横に流れる字幕が、画面の横端を縦に流れるシーンもいくつかあり、その様はまさに「マンガの吹き出し」のようにも見て楽しめるのだ。こうして、いつもの実写版としての完成度の高さに、映画ならではの「ジョジョリスペクト」がふんだんに詰め込まれている。その「ハーモニー」っつーんですかあ~、「味の調和」っつーんですかあ~っ、たとえるなら、高森明雄の原作に対する、ちばてつやの『あしたのジョー』! なのである。

 「ジョジョリスペクト」と言えば、並々ならぬ出演俳優陣の「ジョジョ愛」にも触れておかなくてはならないだろう。

 公開初日に行われた舞台挨拶で語られていたが、主演の高橋は『懺悔室』のために原作を1から読み直し表情の研究を行い、田宮役の井浦新やソトバ役の戸次重幸はイタリアでの聖地巡りに勤しんだという。それぞれの『ジョジョ』好きの熱量は、字幕に関係のない、何気ないセリフ回しにも現れる。つまり、ドラマシリーズでも随所に見られたように、本作においては、「おい」というセリフは当然、「おいおいおいおい」なのであり、「生きてるじゃないか」は「生きてるじゃあないか」なのである。

 その上で、本作において再び「映画ならでは」だといえるのは、その「時間」のコントロールにあるのだ。特に、原作に忠実な前半部の山場となるポップコーン対決のシーンは、『ジョジョ』のファンにこそ必見の大立ち回りとなっている。大東駿介演じる水尾が「上空に投げたポップコーンを3回連続口でキャッチする」という自らの命をかけた“くだらない”ゲームに挑戦させられるのだが、ここでの、投げられたポップコーンと待ち構える水尾に対する画面の「スローモーション」が、その臨場感をとてつもないほどに爆発させる。

 これは劇場という空間を持つ映画ならではの醍醐味であり、自分でページをめくることができる漫画では味わうことのできない体験であると言えるだろう。加えて、大東の、突如として追い詰められた際の軟弱で情けのない挙動から一変、勝ち筋が見えてきた際の横柄で人を見下しくさった挙動への、立場による態度のスイッチがあまりにも素晴らしいものとなっている。まさしく「ジョジョのテンション」とも言えるこうした激情と豹変は紛れもない名シーンであり、「ジョジョ愛」あっての名演であろう。筆者はそこに、第4部での康一や重ちー、ジャンケン小僧を見た。さらに奥のエシディシも。

 このような「ジョジョリスペクト」は細部にまで宿っている。劇中には、幸運を呼ぶものとして「てんとう虫のピアス」が登場するのだが、これも完全に第5部における「てんとう虫のブローチ」のオマージュだと言えるだろう。そして、第5部の舞台はイタリアである。このように全編を通して『ジョジョ』要素が散りばめられている本作であるが、さらに驚くべきは映画オリジナルの後半部とその結末までを含めた、ストーリーライン全体としての「ジョジョらしさ」たる再現度の高さなのだ。

 そもそも、前半部の『懺悔室』パートで描かれた「この恨みは娘が幸福の絶頂にきた時に必ず迎えに来る」という呪いの物語を受け、本作の後半部では、その娘が呪いと父を克服すべく立ち向かうというパートで構成されている。こうして、幸運に襲われ続けるその娘はヴェネチアンマスクの職人を生業としており、その彼女の「運に頼らないモノづくり」という精神に露伴は共感の意を表すこととなるのだが、この点においては、「ジャンケン小僧」編における、露伴の「もっとも『むずかしい事』は! 『自分を乗り越える事』さ! ぼくは自分の『運』をこれから乗り越える!!」というセリフと繋がる部分を見出せるであろう。また、彼女を助けることとなる動機は、もちろん単なる人助けではなく、「自分のマンガに自分の実力以外の『幸運』が介在したこと」への怒りであるなど、あらゆる場面で“岸辺露伴の精神”が丁寧に調達され、生き生きと描写されているのだ。

 そして、本作のクライマックスは岸辺露伴の「幸運も絶望も、疫病のような理不尽も、何にせよ、それに立ち向かって生きる人は『尊敬』するね」といったセリフで飾られるのだが、これも、原作である『懺悔室』のラストシーン「怨霊に取り憑かれてもあきらめず孤独に人生を前向きに生きる男……彼は悪人だと思うがそこのところは尊敬できる……そう思うのはぼくだけかもしれないが……」というセリフを踏襲しているものといえるだろう。だが、ここのセリフに関しては、原作よりも明確に「より普遍的な、人間の営みそれ自体を称揚する」セリフへと映画オリジナルの後半部を踏まえて変化している。

 さらに映画として、「幸福の絶頂」とはなんたるかという問いに対しては「明日はもっと最高かもしれない」というあまりにもグレートな帰結と答えをもって本作は締め括られる。もちろん、これは、ただのオリジナルならではの改変じゃあない。この変化をあえてもたらすことによって、今作は「岸辺露伴」の映画から、「ジョジョらしさ」を前面に押し出した『ジョジョ』の映画へと枠組みが変化しているのだッ! と筆者は考える。

 つまり、『岸辺露伴は動かない 懺悔室』とは、原作である『懺悔室』を単に映像化しただけの作品ではなく、きちんと『ジョジョの奇妙な冒険』という全体をリスペクトした上で描ききった、人間の勇気を讃える“黄金の精神”を備えた「人間賛歌」の映画なのである。(文=矢吹=幹太)